50年後。
テレビ台の上に投影された3D映像のニュースで、アナウンサーが喋っている。
『投票の結果、二十票差で『同性婚法案』が可決されました』
目の前にバーボンを注がれたグラスがスッと差し出された。俺は差し出した相手を見た。
「ご苦労様でした。本当に頑張ったな、矢作……」
そう言ったつもりだが、声がかすれる。ちゃんと聞こえたかな?
矢作璃々子は頷き、小さく微笑むと、俺にグラスを渡そうとした。
そこで、俺がもうグラスを持つことも酒を飲むこともできなくなっていることに気付いたようで、ハッとした顔でしばらく固まっていた。
おい、そんな顔するなよ。やめてくれよ。
矢作は一度大きく息を吸って吐くと、俺に差し出した方のグラスに、反対の手に持ったグラスをカチリと当てた。
矢作は、医療システムに接続されたあちこちピカピカ光っている車椅子に座る俺を見下ろしながら言った。
「頑張ったのはあたしじゃないよ。あんたたちだよ。あんたや、大沢や、英さん」
俺は、俊のアルバイト時代の雇い主であり、俊の理解者であり、女性同士で結婚していた英茶々さんを思い出す。
英さんも今頃さぞかし喜んでいるだろうな。
「全然間に合わなかったけれどね……」
矢作が悔しそうに顔をゆがめ、目を伏せる。
俺と俊の結婚の立会人を依頼したことから、矢作と英さんは知り合い、友達になり、親友になり、そして、共に戦う戦友になった。
三十年前、国会議員に立候補した矢作は、BL漫画家という出自からかなりひどいバッシングを受けながらも、『同性婚』や『選択的夫婦別姓』などのために尽力した。
「三十年もかかっちゃった。もっと早く成立させたかった」
日本の国が持つ「あるべき家族の姿」という幻影は、思いの外根強くて、ただ愛する人と共に、ただ自分らしく生きたいという願いは否定され続けてきた。
それでも、俺が大沢と結婚してから五十年、やっと日本は、俺たちにも愛する人と家族になるという、人としてごく当たり前の権利があることを認めてくれた。
「本当に間に合わなくて、ごめん。せめてあと数年早く成立させることができていれば……」
矢作が、しょんぼりと言う。
なに、気にしてないさ。俺も、あいつも。
微笑んでやりたかったが、俺の躰はもう自由がきかない。
矢作は、グラスのひとつを、俊の写真が飾ってある棚に供えた。
美少年から美青年になった俊は、年老いてからもあの魅力は衰えなかった。
ロマンスグレーのイケジジイが小さな額縁の中で魅惑の笑みを浮かべている。見るたびに惚れなおす。会いたい。
写真の後ろの壁には、額に入れた俺たちの婚姻届が飾ってある。
五十年という歳月に、プリントアウトした青い花の可愛い絵柄や記入欄はすっかり色褪せてしまっていたが、あいつと俺と矢作と英さんの署名と、矢作が書き直してくれた〈夫〉と〈男〉の文字だけは、俺たちの人生の証として、くっきりと残っている。
「献杯」
と、矢作は小さな声で言って、俊の写真に向かってグラスを掲げると、中身をグイと飲み干した。
俊は酒好きで、よくバーボンをストレートで煽っていた。
最後は肝臓をやられた。
煽らずにはいられないようなことも多くあったんだろう。俺には何一つ話してはくれなかったけれど。
俺を心配させまいとしていたんだろうが、互いに支え合うべきじゃなかったのかと、いくら叫んだところで、恨み節はもう届かない。
「体調はどうなの?」
前回――ひと月前――このホスピスに見舞いに来てくれた時、矢作はそう問い、俺は肩を竦めることで答えた。
あの日、窓の外に見える木の枝に、葉っぱが数枚ゆらゆらしていた。それを指さして俺は言った。
「あの葉っぱが全部落ちるころ、俺はもういないよ」
矢作は呆れたという顔をした。
「ったく、そんなバカなこと言って。それじゃあ、偉大なる元BL漫画家つくり・りりす先生が、絶対に落ちない葉っぱを描いておくわ。せいぜい長生きしろや」
矢作がそう言った瞬間、強い風が吹いたのだろう。一枚残らずハラハラと落ちていった。
しばらくふたりで、呆然とそれを眺めていたが、そろって爆笑した。
「空気を読まない葉っぱだな」
「あんた、まだ生きてるよ、大丈夫。あの葉っぱじゃなかったんだよ」
矢作は涙を流しながら笑っていた。
笑いのツボに入ったというよりも、たぶん安心したのだろう。俺はまだ生きていた。あの日はまだ、葉っぱと一緒にハラハラと散ったりしなかった。
「あたしさ」
と矢作は、一気に飲み干したバーボンに少しむせながら言った。
「実はさ、あんたのことが好きだったんだよね」
え? まって、まって! 何その突然の告白⁉ この歳になって今さら言う?
そんなこと六十年前の高校生の時に言って欲しかったわ。そしたら、俺の人生だいぶ違ってただろうに。
矢作なら、俺の両親が望んでいたシゴデキ嫁として、あの傾きかけた町工場を支えてくれたに違いない。跡取りとなる子供を産んでくれたかもしれない。国会議員になって中小企業の救済に尽力してくれたかもしれない。
そんな世界線があったかもしれない。
現実は、俺と俊が結婚した三年後、実家の工場は倒産し、俺は晴れて失業者。仕事を探しても、実家の工場でしか勤務したことのない俺に就活のハードルは高かった。
俊に支えられてなんとか俺と両親は生活できたが、そうやって負担になることが辛かった。
俊は、家族を支えるのは当たり前だと笑っていたけれど。
仕事もなく、経済的に夫に依存するという生活が心苦しかった。それは、俺が男で、誰かに養われるということに強い抵抗感をもっていたせいだろうと思っていた。ジェンダーの呪い。
しかし、仕事が見つかるまでの繋ぎとして働いたコンビニで、それはジェンダーの呪いではないことに気付いた。
女たちの中にも、生きるために誰かに依存することを歯がゆく思っている人たちがいることを知った。子育て中だから今は夫に頼るけれど、自分の力で稼いで暮らしたいと思う女は多かった。
誰かに従属するのではなく、自分の足で立っていたいと思うのは、人間として当たり前の感情なのだろう。ジェンダーの呪いなどではなく。
もちろん、夫を支え家を守ることを大切にする女もいた。それが自分の人生の悦びだとするのも、ひとつの選択だ。大事なのは、その選択の主体が自分の内面にあるかどうかだ。周りに強要されるのではなく、習慣に従うのではなく、世間の目に流されるのではなく、自分で選び取る。
夫を支え家を守るという生き方は、俺の中にはなかった。
そのことに気づいてから、よりいっそう積極的に就活をして、中堅どころの工場に経験者として採用された。最後は工場長となり、いくつかの改革を果たして、皆の笑顔と涙とでっかい花束に送られて退職した。
俺は、俊と結婚することで〈当たり前〉や〈世間の常識〉からちょっとだけ距離を置き、ほんの少しだけ視野を広げることができるようになり、そして、自分で自分の生き方を決めることを学べたと思う。
いろんなことがあった。
とんでもない山と谷を乗り越えて、俺たちは四十九年の間、人生を共に歩んだ。互いの手を離すことなく生き抜いた。涙も笑いも、繋いだ手と共にあった。
それぞれの両親を見送り、空虚と当て所のなさに放心したときも、互いの手を握り続けた。
俊が、養子縁組をしようと言いだしたのは、三年前のことだ。
自分の命の限りを悟り、自分が築いてきたすべてを俺に遺してやりたいと言って。
そして、俺は自分の姓を捨てて、大沢になった。俊の息子に。
最期の瞬間まで、俺たちは握った手を離さなかった。
あと一年。
もう一年一緒にいられたならば、夏には金婚式を祝い、今日は矢作の尽力を共に祝うことができたのにな。
「あたしもね、告白しようと何度も思ったんだよ」
と矢作が言う。遠い昔の青春時代を懐かしむ目で。
「でも、あんたの側にはいっつも大沢がいてさ、いかにも愛おしそうにあんたのこと見てるんだもん。しかも、あの美貌でしょ? あたし勝てる気がしなくって。でね、三年の夏休みにあんたと大沢の本を描いたんだよ。受験勉強もそこそこに、ひと夏かけて必死に。笑っちゃうだろ? 意地悪したかったんだ。あんなのがみんなの目に入れば、大沢が身を引くかと思ってさ」
矢作は笑った。
「でも、ダメでしたぁ〜 あんたたちますますラブラブになってるんだもん」
え? 俺たちってラブラブに見えた?
「そうなんだよ。あんたたちって、はたから見て、ものすごくラブラブだった。その証拠に、あの美少年大沢に女子が誰ひとり言い寄らなかっただろ? 割り込めなかったんだよ。誰も」
びっくりだ。あの頃の俺は、まったくその気がなかったのにな。
いや……。
もしかすると、俺はあの頃から俊に惚れていた?
いや、それはないな。ないない。絶対にないな。たぶん……。
俊と出会ったのは、高二の時だ。
すぐにあいつの多重人格を知ったけれど、俺はなぜだかそれを当たり前のように思っていて、特に奇異だとも思わなかった。話をしたらとても気が合った。まるで長い人生をずっと一緒に歩んできた相棒であるかのように。
あの頃は、俊と一緒にいるのが当たり前に思えていた。あいつがいない人生なんて考えられなかった。
それなのに、高校卒業と同時に連絡がつかなくなって……。
あの時の心の痛みは、もしかして……?
いや、ないない。あれは親友を失った痛みだ。失恋の痛みじゃない。たぶん。
「でもね。今は告白しなくて良かったなって思ってる。あんたと大沢の幸せな姿が拝めたし。いや、マジ眼福! んふふふ。それに、茶々さんと出会えて人生大きく変わったし。悔いなく生きることができたと思ってる。きっと、あんたたちのおかげ」
矢作は身を屈めると、俺の手をとって、にっこりと笑った。
「この気持ち、墓場まで持っていくつもりだったけれど、あたしひとりがもやもやしているのが悔しくなったんだよ。あたしの告白を聞いて、あんたも、もやもやしなさい」
矢作は、俺の手を自分の頬に当てた。
俺の手は、彼女の涙で濡れた。
「もやもやしながら、生きなさいよ! もっと、もっと生きなさいよ! お願いだから生きてよ!」
矢作は、俺の膝にすがって泣き崩れた。
目の前に俊の姿が見える。
若いころのままの姿だ。
俺が愛した、あの瞳。あの鼻と頬のライン。あの唇。
俺は俊に手を伸ばす。
俊の手が、俺の手を優しく包み込む。
なあ、俊。五十年ぐらい経ったら生まれ変わって、また俺と一緒になってくれるか? 男でも女でもどっちでもいいから、また結婚してくれないか?
俊は頷く。
――いいよ。
悪いんだけれど、その時は、お前の中に矢作も混ぜてやってくれないか?
――いいよ。
俺さあ、俺が大切に思う人を、俺を大切に思ってくれた人を、みんなまとめて愛したいんだ。俺の心も躰も捧げて、命のすべてで愛したい。
俺って欲張りだよな……。
俊は微笑む。
――そんなお前だから。俺の中にいる全員を愛してくれたお前だから、俺はお前の側に生まれたんだよ。嫌だと言っても、またお前の側に生まれて、お前と一緒になるよ、絶対に。約束だ。
ああ、約束だ。五十年後に、また会おう。




