後編
「前が全然見えないね」
悠基の運転する地球産の四輪駆動車の助手席で、私は身を乗り出した。
防砂用のマスクをつけているとはいえ、細かい砂を完全に防げるわけじゃない。ましてや、激しい砂嵐の真最中なのだ。
悠基の運転の技術は確かだと信じているけれど、よくもまあ、ナビと感だけで、車を動かす事が出来ると感心してしまう。
「これじゃ、相手も思うように動けないんじゃないの?」
「だと、いいんだがな」
悠基の言葉は歯切れが悪い。
そういえば、空を飛ぶ方はともかく、もう1体の方は、砂嵐の中でも移動は可能と資料に書かれていた気がする。
「レーダーも役立ちそうにないね」
砂嵐の時には、機器が狂うのはよくあることなので、あまり当てにしているわけじゃないけれど、一応確かめてみる。
反応がない―――というより、何も関知できていないといった方が正しいのかもしれない。レーダーが拾うのは、雑音だけだ。
そうは言っても、かなり接近してくれば、なんらかの反応はあるはずなんだけど。
「朝早くには、砂嵐も弱まるとは言っていたけれど、どうする? ここでしばらく待機する?」
「奴らは水分を必要とする。ドーム以外では水を得るのは困難だろうから……」
「ドームに戻ってくる?」
「恐らくな」
「じゃあ、待ってみるか」
私は、助手席に座り直す。
どうせ、外を歩くことは出来ないのだ。体力も消耗したくないし、しばらくはじっとしている方がいい。
それでも、五感だけは研ぎ澄ませておく。
匂い、気配、音。
どれも相手を牽制し、こちらを有利にするには重要なことだ。
悠基も同じ考えなのだろう。
車のエンジンを切り、腕を組んだまま、目を閉じていた。
それから、どのくらいそうやって辺りの気配を探っていたのだろう。
砂の音が収まり、風の匂いが変わってきたのがわかる。
もうすぐ朝が来るのだろう。
その時だ。
音が聞こえた。
風の音でも、砂の流れる音でもない。
「悠基」
小さく呼びかけると、悠基がわかっているというふうに頷いた。
音は近い。
羽音だとわかる。
かすかで弱いけれど、間違いない。
空を見上げると、収まってきたとはいえ、砂を巻き上げる力はさほど弱まってはいない風の中、黒い影が見えた。
同胞ではありえない。
今は厳戒態勢中だし、こんな中、用もないのに空を飛ぶ同胞などいるはずがない。
「本当に、飛んでいるんだ」
かなり不安定ではあったけれど、それは確かに空を飛んでいた。
間違いなくドームを目指している。
その姿は、遠目からでもひどく痛々しそうに見えた。空も見えないこの場所で、視界に映るものは、ドームの強い光だけなのかもしれない。
私は素早く体に身につけていた衣服をはぎ取った。
羞恥心がないわけじゃないので、すでに体は変化させはじめている。
伸びきった背中の骨がきしむ感覚に顔をしかめながら、なめらかな皮膚がごつごつとした固いものに変わるのをちらりと眺める。
肌に細かく短い体毛が生え、全身を覆っていくと同時に、背中の肩胛骨から肩のあたりも変化しはじめていた。
普段存在しないはずの「翼」に変わるまでは、くすぐったいようなむず痒いような感覚がずっと続いていて、いつもそれが不思議なのだけれど、「翼」があることに関しては、自分の中ではあまり違和感がない。
まるで昔からあったかのように、それはしっくりと存在しているのだ。最近ではあまり考えなくなったけれど、やはりウイルス説だけでは、説明できない何かがこの病気にはあるような気がする。頭がよくない私には、難しすぎてうまく説明できないけれど。
爪が伸び、髪が短くなったところで、一度伸びをする。
いくら考えてもわからないことに時間を費やすよりは、できることを少しずつやっていた方が私らしい。現実問題として、今はうだうだと考えこんでいる時じゃないのだ。
翼にあたった砂を振り払うように、二度ほど動かしてから、私は悠基を見た。
「先に行くから」
「ああ」
地上の方は、悠基に任せておけば間違いないだろう。私は、私の獲物を追うだけだ。
頷く悠基に軽く尻尾を振ってから、私は空へ向かって飛びたった。
追いつくのは簡単だった。
砂嵐に慣れているぶん、私が有利だし、相手はこんな天候の中で飛んだことがないように見えた。そのくらいに、羽の動きがぎごちない。
心ない旅行者に違法に連れ出さなければ、今頃は惑星に訪れた雨期によって蘇り、広い空を思う存分飛んでいたのかもしれないのだ。
けれども、ここはあの生き物の生まれ故郷ではないし、ただ独りきりだ。
彼らは、きっと、この星では長くは生きられない。
生態系が違うし、子孫を残そうにも、仲間が存在しない。
私もそうだ。
もし地球にいたならば、普通の人生を歩んでいたのかもしれないけれど。
でも、思うのだ。
生きているすべてのものは、結局は、自分が属する生態系からは、決して逃れることは出来ないのではないかと。
生まれた惑星ではない場所で適応できる生物もいるというかもしれないが、実際は子孫さえも残せずに消えてしまう生命の方が多い。生き残れたものは、その星が自身の生まれた場所と偶然似ていたからではないかと、そう思ってしまう。
適応していったのではなく、もともと適応できる環境だったから死ななくてすんだだけではないのか、と。
私たちは奇妙な病気に感染し、生まれた星からはじき出された存在だ。体の造りそのものも変化し、食べるものさえ変わってしまった。
きっと、ここでしか生きられない。ここから長く離れては存在できない。
現に、母はスレイヴ・アグゥダを離れてから、10年も生きられなかった。
私も、そうだったのではないかと思う。いずれは発病し、帰らなければ消えゆく運命だったのかもしれない。
あの時、シャルギルに会い、すべてを知らなければ、例え生き延びたとしても、自分の体をもてあまし、悲惨な終わりを迎えた可能性だってあるのだ。
長く伸びた首と、傷だらけの羽がよくわかるほどに、私は「それ」に近づく。
相手は、私の気配がわかったのか、少しだけスピードを上げた。
ほんの少しだけ。
逃げ切るには、相手は弱りすぎているんじゃなかと思う。その証拠に、威嚇するように鳴く声も弱々しい。
少し上昇して、相手に覆い被さるように上になった。相手は逃げようとさらに羽を動かすが、バランスを崩しそうなほどに、左右に揺れている。
必死なのだと理解できるが、私だって引くことなどできない。自分の中にある、決して埋まらない空腹感が、自分自身をせかしているのだ。
何故、と言われてもわからない。
ごく普通の地球人として育った私は、昔は自分自身の牙で、生きている相手の息を止め、むさぼるようにその血肉を食らうなど、想像もしていなかったし、実行することなど考えもしなかったはずだ。
反対に、そういう『人間にとって残酷なシーン』を映像などで見れば、眉を潜めていただろう。
空腹でおかしくなりそうな感覚など、想像することも出来なかったし、体験することもなかった。
体だけでなく感覚までもが変わってしまったのだ。罪悪感がないわけではないが、生きていくために必要なことと割り切った感情が存在する。
それがよいことなのか悪いことなのか―――幸せなのか不幸せなのか。
結局、よくわからないままここまで来てしまった。
もしかしたら、このまま、何ひとつ理解できないまま、一生を終えてしまうのかもしれない。
わかっているのは、こうやって獲物を狩るたびに、同じ事を考え続けるということだけだ。
答えはあるのか、と。
こんな状況で、考え事をする余裕など、本当はあるはずもないし、いつか命取りになるのではと思っているのに、どうしても止められない。
今だってそうだ。砂嵐は収まらないのに、時間ばかりが過ぎていく。
私は、雑念を振り払うように頭を振ると、目の前の生き物に視線を戻した。
もう、飛ぶことさえも辛そうだった。
このままだと、やがて地に落ちてしまうだろう。そうなる前に、けりをつけた方がよさそうだ。私だって、慣れているとはいえ、いつまでも砂嵐の中を跳ぶのは辛い。
余計なことを頭から払いのけ、私はやや前方を飛ぶ相手を見つめた。
誰に教えられたわけではないのに、相手の急所がわかるのがいつも不思議だ。
生き物の構造というのは、どんな生態系の生物でも、似通っているからかもしれない。
私は、静かに相手に近づき相手の体を足で捕らえ―――迷うことなく、急所であるだろう場所に向かって、己の牙を突き立てた。
食い込んだ牙に、さして暴れることもなく、それは、ただ。
ギィ。
と、小さく鳴いて事切れた。
生命力を失った体は重く不安定だ。落ちないように捕まえた足に力を込め、私は、用心深く地面に向かって下降を始める。
ここで焦って落ちでもしたら笑いものだ。
ご馳走を前に、気持ちだけが先行していたって、笑われそうな気もする。
誰も横取りしないってわかっているわけだし。
それでも、久々のごちそうによって癒される空腹感のことを思う気持ちを押さえることは出来なかった。
食事を終えたあと、悠基と合流した。
彼の方もうまくいったのだろう。
疲れているようではあったけれど、いつになく満足そうな顔をしている。
報告のためにドームに戻った時には、辺りはすっかりと明るくなっていた。もう昼が近いのだ。
面倒くさい事後処理の手続きを終え、ようやく仕事から解放された私は、悠基と別れた後、自宅には帰らずに、庭園に顔を出すことにする。
狩りが済んだあとも、いやなことがあった後も、戻ってくる―――戻りたいと願うのは、いつもこの場所だった。
かつて暮らした家でもなく、義兄の元でもない。シャルギルと暮らす部屋でもなかった。
落ち着くというのもあるし、やはりシャルギルの匂いのするここが、私は好きなのだ。
庭園に入ると、見慣れないものが目に入った。
ちょうど私の身長と同じくらいの植物。ふわふわと綿帽子のような毛が生えた葉に、緑色のやはり綿毛のような花。
出て行く時にはなかったはずだ。
だとすると、植えたのはシャルギル?
そうだと思う。
この庭を変えるのは、いつも彼だ。他の誰にもいじらせることはない。
植物に近づくと、根本に淡い緑色をしたカードが置いてあった。
『ハルカへ。新しい植物を手に入れたのでプレゼントだ』
素っ気ない文面のあとにシャルギルの署名がある。
彼は、私が仕事の後は、必ずここへ戻ってくることを知っている。こうやって、緑の草の中でぼんやりとするのが好きなのだと言って以来、この庭園には、『緑色』の植物が多くなった。新しい植物を植えるたびに、贈り物だと言って私に見せてもくれる。
そんなときは、うぬぼれていいのかなと思う。
尊大で、我が儘で、誰よりも綺麗なあの人が、私を好きでいてくれる証拠だと。
そう信じていいのだと言ってもらえたような気がするのだ。
綿帽子のような花の匂いをかぎながら、目を閉じた。
淡い匂い。
淡い、色。
あの人を思わせる、優しい―――緑色。
それを思い浮かべながら、私は幸せな気持ちで、目を閉じる。
誰かの手が、私の頬に触れている。
ほんの少しだけひんやりとしていて、心地いい。
この指先は知っている。
「シャル?」
目を開いた瞬間、見えたのは淡い緑の瞳。
大好きな、私の緑。
「お帰りなさい、シャルギル」
「ただいま、ハルカ」
彼の綺麗で優しい声は、今は私だけのものだ。
そのことが嬉しくて幸せで、私は彼に笑いかけた。
不思議なことだけれど。
1人の時は、いつだってなくなることのない空腹感に、泣きたくなることだってあるのに、側にシャルがいるだけで、辛さも苦しさも薄れていく気がする。
声を聞き、顔を見て、笑いかけるだけでいいのだ。
飢えは消えることはないけれど、どこか暖かい気持ちで心の中が満たされていくのがわかる。
「プレゼント嬉しかった。ありがとう」
私の言葉に、シャルは優しいキスと抱擁をくれる。
何よりも嬉しい答えだった。
例えどんな『好き』だったのだとしても、シャルギルが私を必要としてくれているのには間違いはない。
家族でも、友人でも、恋人でも、なんだっていい。あなたが側にいてくれることが、私の幸せなのだ。
小さい頃思い浮かべたありきたりの幸せとは少し違うのかもしれないけれど。
とりあえず、今はそれで十分じゃないかと思う。
この夢のような世界が、ずっと続いてくれればいいと、いつだってそう願っている。