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軽音楽部というところに、学生時代所属していた。ロックバンドなどをやっている部活である。軽音楽とは何が軽いのか分からんけれども、大方音大でクラシックなどやっている連中からすればチャラチャラして軽々しい、というような意味合いだろう。けれどその頃俺は寝食を忘れる程に、真剣に音楽に取り組んでいた。
それはそうと、今俺は音楽が嫌いである。音楽など何の意味もない、単なる空気の振動の集まりに過ぎない事に気付いてしまったからである。三島由紀夫が同じ理由で「音楽が苦手」と言っていたが、今ではその気持ちが痛いほど良く分かる。
ところで話は変わるが、最近携帯電話のカメラに満足できなくなって、とうとうデジカメを買った。絵を描くのも面白いが、描き終えるまでに時間がかかる割に出来がまずい。その点写真なら気軽に何枚でも瞬時に撮ることが出来る。それに今の時代フィルムの交換も要らなければ、写真屋に持って行って現像してもらう必要もない。画面上で見る分には、写真をアルバムに挟む必要もなければ、日に焼ける心配もない。ここまで便利になったのなら、下手の横好きでもやってみて損はなかろう。やってみてから善し悪しを判断してみたって遅くはない。
とは言ったものの、実際にカメラを持って歩いてみると、何を写して良いかよく分からん。何を写しても良いのだろうが、それでもある種の貧乏性というか、吝嗇さというか、そういう卑しさがわき出てきて、どうせなら絵になるものを撮りたい、などと被写体を選り好みしてしまう。そんな姿勢でいると、どうしてもシャッターを切る機会を逸してしまう。それはそうである。絵になる風景などそこここに転がっているわけではなかろうし、第一絵になるから写真を撮るのか、写真にするから絵になるのか、考えてみれば判然としないのである。
従ってまずは素材を選ぶよりは撮ってみるが良かろうと思い、何でも蚊でもひたすらシャッターを切っていた。ちなみに先に載せた灰皿にたばこが山盛りになっている写真はこのとき撮ったものである。
それはそうと、何の意味もないものを写真にしてみたところで、それはやはり何の意味も持っていないように思われた。従ってその点では音楽と何ら変わりのないように思えた。要するに、単なる現象なのである。空気の振動然り、印画紙に焼き付いた虚像然りである。サルトル風に言えば、それは即自であって対自ではないという事になろう。単なる現象をただそこにあるがままに受け入れ、組み立て、芸術とするのは何となく怠慢の様な気がした。現象に意味付けをするのはあくまで評論家の役割であり、現象を構成する者はやはり芸術家であるという者もあるかも知れないが、現象を構成する者は芸術家ではなく職人である。というのも、現象の構成はあくまで作業であるからである。例えば音楽家は音楽を構成する時に、何ら自己の意識を介在させて創作をしてはいない。その時の彼の頭の中にあるのは音楽理論であり、それらの組み合わせであり、あるいは完成した作品の姿である。つまり決して作品は作者自身ではないのである。音楽を理論的に批判する事が出来ない原因はここにある。現象を批判できる筈が無い。
例えば、こんな写真があったとする。
空になった菓子の袋である。これを見ても、作者が何を表現したいのか第三者には伝わらない。そこでこの写真に『後悔』という表題を付けたとする。これで何となく意図が伝わる場合があるかも知れないが、まだ明瞭でない。そこで以下の解説を付け加える。
「これは夜寝る前に撮った写真であり、寝る前に甘い菓子をたらふく食べてしまった後の後悔を表現している」
そこで初めて第三者にも作者の意図が伝わる。共感する者もいれば、この写真には何ら芸術的価値はないと批評する者もあろう。このように芸術的価値の有無は言葉にしてみなければ判断の付かぬものなのである。言うまでもなく言葉の力は写真の力と言うよりは文学の力である。するとやはり写真自体に意味はないということになる。
してみると写真もやはり芸術というよりは工作に近いのではあるまいかと思った。ただそれはそれとして、暫くは続けてみるのも面白かろうと思い、惰性で続けてみる事にした。やってみるうちに何か別の気付きが得られるかも知れないのだし。
いや、でもどうせ続かないだろう。