2.目覚めたのは
どんな悲しみも、別れも、乗り越えてきたつもりだった。
幼い頃に両親を失い、私を育ててくれたのは祖父母だった。
自分を特別不幸だと思ったことはない。
世の中にはもっとツライことがたくさんあるのだと、小さな世界しかしらない私に祖父母は教えてくれた。
羨むのはやめなさい。そして人を蔑むこともやめなさい。
そんなことをしても、幸せになんてなれないのよ、と。
自分がとてもつもなく不幸だとはさすがに思わなかったけれど、両親の居ない寂しさはやはり言い表せないほど切なかった。
それでも、見守ってくれていた祖父母からの愛情で、私は満たされていた。
この世のすべての人が平等ではない。
だから、自分に与えられた、許された範囲での幸せを大事にしていこうと思っていた。
――時は過ぎ、高校卒業を待たずに祖父が、そして就職が決まった私を見届けて祖母が他界した。
自分に与えられた温かな場所。
それもついに失ってしまい、心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだった。
そんな時だったのだ。
彼――カイに出会ったのは。
寝返りを打ち、身体が深く沈み込む感覚に違和感を覚えた。
(あれ・・・? 私、この感覚・・・)
あまりに心地よい肌触りに、意識が急浮上する。
馴染みのない寝具に、居心地の悪さを感じてしまう。
このまま眠り続けていたいと、頭の中で声がしているのに、身体が逆らう。
目を開けてはダメだ。
全ては夢――悪夢なのだから。
(・・・何が・・・悪夢・・・?)
私にとって、一番恐れること。
それはカタチのない悪夢なんかではない。
姿の見えない噂話でも、悪意と好奇心に満ちた視線ですら、私はもう恐れないと心に決めたのだ。
(この子と生きていくために。)
たったひとつだけ。
私に残された希望の命――・・・
(私が、一番、恐れること・・・は、)
ざわりと身体が震えた。
自分のものとは思えない腕を動かして、恐る恐る大きな膨らみに触れる。
自分はここに居るのだと、主張するかのように動き回る存在。
その度に私は話しかけていた。
「今日も元気だね?」と苦笑しながら。
「・・・あ・・・」
両手で腹部に触れる。
立ち上がるときには、思わず抱えるようにしていた、とても大きくなっていたはずの場所に。
それなのに。
「居ない・・・」
悪夢が悲しそうに「ほらね」と呟く。
だから目を開けちゃいけなかったのよ、と。
「な、んで・・・」
ようやく、手に入れた温もり。
心から誰かを愛し、その愛しい人の子どもを宿すことができて。
今までの孤独も寂しさも、すべてはこのかけがえのない存在と巡り合うためだったのかもしれない。そう思えるほど、私はわが身に宿った命によって満たされたのだ。
「う、あ、あぁ・・・・・あ・・・」
嘘だ、と言葉にできなかった。
圧倒的な絶望が喉を塞いでしまったから。
泣き叫び、狂ってしまいたいほどの悲しみが、空っぽになってしまった身体の深くで暴れている。
私をここから解放して! と。
こんな現実なんていらない! と。
(これは本当の出来事なの?)
手触りで質の良さがわかるリネン。身じろぐだけで、我が家で使っているものとは明らかに違う上質な香りが広がる。
贅沢を知らずに過ごした私にとって、映画や物語の中でしか知らない天蓋付きの大きなベッド。
柔らかに差し込んでくる光が、精巧なガラス細工を通して幻想的に散らばっている。
『夢』で片づけてしまえたなら。
例え夢でも、愛しい人との我が子を・・・カイの忘れ形見でもある赤ちゃんを・・・失うなんてことは考えられない。
五感すべてで、否定しようとするのに、怒りにも似た感情は、私の脳に冷静に現実を突きつける。
ここがどこなのか、わからない。
どこでもよかった。
愛しい笑顔をこの手に抱けるなら。
でも、私は、もう二度と、あと少しでこの腕に抱けるはずだった我が子に会うことはできない。
「ふ・・・・っうっ・・・・」
溢れて来た涙が、私の中の感情を全て押し流した。
塞がれていた喉が悲鳴をあげかけているのを察知し、両手で口を押さえた。
「お目覚めですか?」
「まあ、どうされたんですか。」
扉が開く音と共に、優しい声がかけられる。
俯いて肩を震わせる私の周囲に、2つの気配。
その気配は、泣いている私に慌てたように「どこかお辛いのですか?」と訊ねた。とても温かみのある少し年が刻まれた声色は、幼い頃に亡くした母にどことなく似ている気がした。
それが、私の中で欠片ほど残っていた最後の望みを打ち砕いた。
「つ、らい・・・これが、現実だということが、つらい、です・・・」
困らせたい訳ではなかった。
ただ、忘れていた母に似た声に、思わず感情がまろびでてしまったのだ。
「すぐに王子・・・いえ、王をお呼びして!」
「はい、女官長さま」
私の言葉に鋭く指示を出したその人が、先ほどと同じ優しさを纏わせて「ツキノさま」と私の名を呼んだ。
名前を知っているということに、私は驚き顔を上げる。
背筋の伸びた美しい立ち居振る舞いを見せるその人が、泣き笑いのような表情で私を見つめていた。
母が生きていたら、こんな感じなんだろうか。
慈愛に満ちた瞳の色は、琥珀色だった。まとめあげられた髪は見たことのない緑がっかった銀髪だ。
外見からは母を彷彿とさせるものはないはずなのに、彼女が纏う空気がそう思わせるのだろう。
聞きなれない『女官長さま』、と呼ばれたその人が不意に瞳を潤ませて「カインさまを助けてくださって、ありがとうございます」と深く頭を下げた。
「カイ・・・ン・・・?」
「はい。貴女さまのことは、カインさまから伺っております。ツキノさまが、カインさまの奥さまであることも。」
フラッシュバックのように、傷だらけで倒れていたカイを思い出す。
祖母の3度目の命日であった。
祖父母の残してくれた小さな庭先に、彼は倒れていたのだ。
慌てて駆け寄り、恐る恐る呼びかけると、一瞬瞳を開けた。
その瞳の色は、深い森の色をしていて、私は状況も忘れて見入ってしまった。
彼は傷だらけの腕を持ち上げ、私の髪に触れた。とても不思議そうに。
なにか呟き、意識を手放した彼を、幼い頃から祖父母と共に可愛がってくれた隣家の老医師に診てもらったのだ。
死線を彷徨い、記憶を失っていた。
着ている服も、身につけているものも、見たことがない細工が施されていた。
どこの誰かもわからない。
助けた時に小さく呟いた言葉から彼を『カイ』と呼んだ。
目覚めた彼は、出会ったときに魅かれた深い緑を瞳にたたえていた。
日本人ではないようなのに、言葉は通じた。
生活の仕方も忘れているのに、私を大事にしてくれた。
いつしか、私たちは小さな幸せを共有するようになり、ふたりで生きていこうと誓いあった。
宿った命に喜び、抱き上げてキスをしてくれた。
いつも、いつまでも、この幸せを守りたいと願ってくれた。
暗転、真っ白い衣装を身に纏った人が脳裏に浮かんだ。
私が知っているカイよりも、若い・・・少年。
けれど、触れた掌から、彼がカイであることを私は感じ取ってしまった。
彼の瞳・・・深い森の色が、私を包んでいった。夫と同じように。
ずくんと、胸が痛む。
思い出したもうひとつの映像が、胸を焼いたのだ。
あの日、カイが私のもとから消え去った日。
私は、安置所で、彼が私の知らない女性と死んだと告げられたのだ。
その手が離れないことを、この目で見たのだ。
私ではない、他の――
「私、は・・・」
何も要らなかった。
ただ、生きて行けたなら。
愛しいあなたと、あなたとの子どもと。
(突然全てを失って、私はこれからどうしたらいい?)
左手の薬指に光る、夫から贈られた指輪を見つめた。
彼がずっと身に着けていた対の指輪だ。
「これは、ツキノと生きていく証」
そう言って、くれたものだ。
カイが私の指に滑り込ませると、胸がぎゅうっと締め付けられて、体中に温かな光が走った気がした。
目に見えない部分で、私たちは確かに繋がったんだ、と、不思議な安堵感に包まれたことを思い出す。
本当に幸せだった。
今、その指輪からは、冷たい波動が伝わってくる。
目覚めたくなんて、なかった。
「カイの奥さんだったのかな・・・?」
零れた声は、自分でも驚くくらい、頼りなく儚い声だった。