④
扉を開けると、真鍮製のベルの音が鳴った。店内にはジャズの音楽と、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい香りが立ち込めている。壁一面に古いレコードジャケットが飾られていて、カウンターの奥でレコードが回転していた。
お客はまばらで、読書をしたり、コーヒーとケーキを食べたりしていた。
「あ、いらっしゃい。おや、珍しいね。お連れさんかい?」
カウンターの奥から、白髪で髭を生やし、丸メガネをかけた男性が顔を出した。
「あ、マスター。こんにちは」
マスターは柔らかく微笑んだ。
「お好きな席へどうぞ」
窓際の席に腰を下ろした。詩織は店内を見渡していた。
「素敵なお店ですね」
「でしょう? 僕の、一番のお気に入りです」
詩織はバッグを隣のイスに置いた。メガネを取る手は細くしなやかで傷ひとつない。畳んだメガネを机に置いた。
ケトルが湯気を吐く音が聞こえた。
「伊達メガネです。一応、変装を」
詩織は机に目を向け、口を横に結んだ。
「なるほど」
メニューの上下を入れ替えて詩織の前に出した。
「飲み物はコーヒーでいいですかね。甘いものも一緒に」
詩織がメニューを覗き込み、まとめきれず流れている髪を耳にかける。花の香りがしてピアスが揺れていた。
「おすすめはありますか?」
詩織が向けた瞳には窓の光が反射していた。
「えっと、なんでしたっけ。あ、おすすめですね。おすすめは、このプリンかバナナケーキですね」
「どうしようかな。プリンにします」
マスターに声をかけて、コーヒーとプリンを注文した。
息を整え詩織に顔を向ける。
「この前はお手伝い、本当にありがとうございました」
「いえ、とても新鮮な経験でした。そういえば、シーグラスの授業はこれからですか?」
「いえ、先日授業をしましたよ。まだ完成していませんが。『ゴミじゃん』って言っていた子が、最後には『早く持って帰りたい』って」
「いいですね。子どもたち、きっと一生忘れないと思います」
メニューを手に取りゆっくり閉じる。表紙を指でなぞった。
「一生か。どう、ですかね。そうだといいんですが」
メニューを立てかけると、窓の光が遮られた。
「ただ、いい作品にはなる気がします」
「いい作品」
詩織が呟き、視線を天井に向けた。
「照彦さんにとって、いい作品ってどのようなものですか?」
店内の棚にコーヒー豆の入った透明の容器が並んでいる。
「自分で言っておいて難しいですね。うん、まぁ強いて言うなら『心が動く作品』ですかね」
「心が動く絵」
詩織が繰り返した。
「所謂『感動』ってやつですね。自分も見る人も嬉しくなるような作品、かな」
詩織は何度か頷いていた。
マスターが運んできたコーヒーとプリンがテーブルの上に置かれる。
「いい香り。プリン美味しそう」
マスターはカウンターに下がった。
詩織が深く鼻から息を吸いカップを口に運ぶ。ピンクの唇がコーヒーに触れた。
「おいしい」
「でしょう?」
ピアノの旋律が店内を包み込んでいた。
「詩織さんは普段、どんな音楽を聴くんですか?」
詩織は視線をさまよわせた。
「音楽ですか。それが、あまり自分から音楽を聴くってことがないんです」
「あら、そうなんですね」
「クラシックはよく聴いていました。小さい頃、ピアノやバレエを習っていたので」
「すごい。ピアノにバレエかぁ」
「でも楽しむというよりは、訓練でしたね」
「訓練。なるほど。ピアノで得意な曲とかあります?」
「得意ですか。弾ける曲はいくつかありますけど、得意となると」
流れていた曲が終わる。新しい旋律が流れ始めた。
「僕は楽器そのものは好きなんですけど、楽譜が読めなくて」
「そうなんですか?」
「でも、楽器はいろいろ持ってるんです。ほら、マンドリン、ヴィブラスラップ、口琴」
スマートフォンの画面を詩織に向けると、詩織はテーブルに肘をつき覗き込む。頭が近くなった。
「へぇー、面白い」
詩織はそのままスマートフォンを見つめていた。
「えっと、詩織さんは何かハマっていることは?」
詩織はスマートフォンから目を離し、小さく唸る。
「そうですね。仕事柄、服に関心はあります。ただ、ハマっていると言えるか」
「服かあ。そういえば、今日もすごく素敵ですもんね。さすがモデルさんです」
詩織の焦点が遠くに当たった。カップの縁を指でなぞりながら、コーヒーに目を落とした。
カウンターからは水がポットに入る音が聞こえた。
「コーヒー、飲み終わってしまいましたね」
詩織は微笑んでいた。
「照彦さん、まだお時間はありますか? もし、よければ夕食も――」
「も、もちろん。行きましょう」
立ち上がった。
レジの前で詩織が財布を出した。
手のひらを詩織に向ける。
「ここは、もちろん僕が出します。お礼ですから。カッコつけさせてください」
詩織が頭を下げた。
「では、お言葉に甘えて」
ドアを出ると日は少し傾き始めていた。




