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 扉を開けると、真鍮製のベルの音が鳴った。店内にはジャズの音楽と、深く焙煎されたコーヒー豆の香ばしい香りが立ち込めている。壁一面に古いレコードジャケットが飾られていて、カウンターの奥でレコードが回転していた。

 お客はまばらで、読書をしたり、コーヒーとケーキを食べたりしていた。

「あ、いらっしゃい。おや、珍しいね。お連れさんかい?」

 カウンターの奥から、白髪で髭を生やし、丸メガネをかけた男性が顔を出した。

「あ、マスター。こんにちは」

 マスターは柔らかく微笑んだ。

「お好きな席へどうぞ」

 窓際の席に腰を下ろした。詩織は店内を見渡していた。

「素敵なお店ですね」

「でしょう? 僕の、一番のお気に入りです」

 詩織はバッグを隣のイスに置いた。メガネを取る手は細くしなやかで傷ひとつない。畳んだメガネを机に置いた。

 ケトルが湯気を吐く音が聞こえた。

「伊達メガネです。一応、変装を」

 詩織は机に目を向け、口を横に結んだ。

「なるほど」

 メニューの上下を入れ替えて詩織の前に出した。

「飲み物はコーヒーでいいですかね。甘いものも一緒に」

 詩織がメニューを覗き込み、まとめきれず流れている髪を耳にかける。花の香りがしてピアスが揺れていた。

「おすすめはありますか?」

 詩織が向けた瞳には窓の光が反射していた。

「えっと、なんでしたっけ。あ、おすすめですね。おすすめは、このプリンかバナナケーキですね」

「どうしようかな。プリンにします」

 マスターに声をかけて、コーヒーとプリンを注文した。

 息を整え詩織に顔を向ける。

「この前はお手伝い、本当にありがとうございました」

「いえ、とても新鮮な経験でした。そういえば、シーグラスの授業はこれからですか?」

「いえ、先日授業をしましたよ。まだ完成していませんが。『ゴミじゃん』って言っていた子が、最後には『早く持って帰りたい』って」

「いいですね。子どもたち、きっと一生忘れないと思います」

 メニューを手に取りゆっくり閉じる。表紙を指でなぞった。

「一生か。どう、ですかね。そうだといいんですが」

 メニューを立てかけると、窓の光が遮られた。

「ただ、いい作品にはなる気がします」

「いい作品」

 詩織が呟き、視線を天井に向けた。

「照彦さんにとって、いい作品ってどのようなものですか?」

 店内の棚にコーヒー豆の入った透明の容器が並んでいる。

「自分で言っておいて難しいですね。うん、まぁ強いて言うなら『心が動く作品』ですかね」

「心が動く絵」

 詩織が繰り返した。

「所謂『感動』ってやつですね。自分も見る人も嬉しくなるような作品、かな」

 詩織は何度か頷いていた。

 マスターが運んできたコーヒーとプリンがテーブルの上に置かれる。

「いい香り。プリン美味しそう」

 マスターはカウンターに下がった。

 詩織が深く鼻から息を吸いカップを口に運ぶ。ピンクの唇がコーヒーに触れた。

「おいしい」

「でしょう?」

 ピアノの旋律が店内を包み込んでいた。

「詩織さんは普段、どんな音楽を聴くんですか?」

 詩織は視線をさまよわせた。

「音楽ですか。それが、あまり自分から音楽を聴くってことがないんです」

「あら、そうなんですね」

「クラシックはよく聴いていました。小さい頃、ピアノやバレエを習っていたので」

「すごい。ピアノにバレエかぁ」

「でも楽しむというよりは、訓練でしたね」

「訓練。なるほど。ピアノで得意な曲とかあります?」

「得意ですか。弾ける曲はいくつかありますけど、得意となると」

 流れていた曲が終わる。新しい旋律が流れ始めた。

「僕は楽器そのものは好きなんですけど、楽譜が読めなくて」

「そうなんですか?」

「でも、楽器はいろいろ持ってるんです。ほら、マンドリン、ヴィブラスラップ、口琴」

 スマートフォンの画面を詩織に向けると、詩織はテーブルに肘をつき覗き込む。頭が近くなった。

「へぇー、面白い」

 詩織はそのままスマートフォンを見つめていた。

「えっと、詩織さんは何かハマっていることは?」

 詩織はスマートフォンから目を離し、小さく唸る。

「そうですね。仕事柄、服に関心はあります。ただ、ハマっていると言えるか」

「服かあ。そういえば、今日もすごく素敵ですもんね。さすがモデルさんです」

 詩織の焦点が遠くに当たった。カップの縁を指でなぞりながら、コーヒーに目を落とした。

 カウンターからは水がポットに入る音が聞こえた。

「コーヒー、飲み終わってしまいましたね」

 詩織は微笑んでいた。

「照彦さん、まだお時間はありますか? もし、よければ夕食も――」

「も、もちろん。行きましょう」

 立ち上がった。

 レジの前で詩織が財布を出した。

 手のひらを詩織に向ける。

「ここは、もちろん僕が出します。お礼ですから。カッコつけさせてください」

 詩織が頭を下げた。

「では、お言葉に甘えて」

 ドアを出ると日は少し傾き始めていた。

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