07.騎士たちの熊狩り
国王による森林の占有はメロヴィング朝の時代に始まる。アレマンニ法典は王室林で熊を狩った者に対して6ソリドゥスの罰金を科した。
シャルルマーニュは王室林に森林官を設置し、また813年には聖職者による狩猟を禁じた。
封建諸侯の権力が伸長した11世紀頃から、大陸の王侯貴族はその個人的な都合に応じて自身の領地において狩猟制限を実施するようになる。罰金が定められたり、あるいは狩って良い時期を定めたり、狩猟対象を制限したり、狩猟用の犬を持つことを禁止したり、許可制があったり、逆に狩猟特権が与えられたりと、地域によってその傾向は様々だった。
例えば1152年、フリードリヒ・バルバロッサは、帝国全土の人々が罠猟を行うことを禁じたが、熊や狼などは規制の対象外だった。同様に熊や狼を禁猟の対象外にする傾向は、北欧でも見られる。
1396年にはフランスで狩猟権を持たない全ての者に対して、あらゆる狩猟を禁じた。ただし農民は自衛のために犬を飼うことが認められたし、慣習的な権利も認められていた。
また狼狩りは特別で、狼狩り担当官louvetiersが設置されたほか、領民を招集して狼狩りにあたることもあった。
イングランドにはノルマンコンクエスト以降にこの傾向が現れ、森林法が制定されるが、この時代にはもうイングランドに熊はいなかった。
必然的に、貴族の狩猟を描く狩猟書においてもイングランドの作品については熊の項目が省かれている。
庶民による熊狩りは、ガストン・ド・フォアの狩猟書Livre de Chasseでも触れられる。彼は罠を使う狩りを平民がやるような卑劣な方法と位置づけていた。
罠猟には、落とし穴と仕掛け槍罠がある。
落とし穴は、6メートルくらいの深さの穴を逆テーパー状に掘り、小枝や草で覆う。穴の両側に柵を設置して、狩人のうち二人は柵の両端で待機し、一人は伏せておく。そして熊が彼らと落とし穴との間に入り込んだときに、(※騒いで)追い立てて落とし穴に誘導するという。
仕掛け槍罠は、繰り返し畑を襲ってくる獣に対して設置する。まず畑を柵で囲い、獣の通り道だけを広めに開けておく。そしてそこに細い紐を張り、槍を紐に取り付けた留め金で固定する。やってくる獣に応じて、槍の配置する高さを調整する。そうして獣が柵の開口部を通るときに紐に触れると、留め具が外れて槍が勢いよく飛び出して獣に突き刺さるという。
ただ仕掛けられた囲い地へと獲物を追い込んで捕らえること自体は、巧みな技術として扱われる。上記の罠が卑劣とされるのは、自らの手で獲物を捕まえたり殺したりしないからだろう。
またカスティーリャ王アルフォンソ11世もその狩猟書Libro de la Monteríaで、猟師の熊狩りについて触れる。ただここに書かれるのは山間の狩りで、熊を狩るというよりも探し出す方に内容が割かれている。
武器には少なくとも槍が使われていて、そのほかに角笛や解体用のナイフ、鍋、狩りが夜まで続いた際の犬用のパンを携帯していた。狩りは基本的に集団で行われ、それぞれが犬を複数連れていた。猟師には風向きや足跡を判断する知識や角笛を吹く技能、犬との信頼関係やその訓練が求められるものの、捜索の主役は明らかに犬で、著者は一日二回の散歩や、一日一回の餌やり、犬が熊と戦って怪我をしたときの治療法にまで触れ、縫合用の針も持ち歩くように指示している。
領主や騎士の狩りに同行する場合や、あるいは同じ場所で狩りをする際には、出発や獲物発見の合図をしたり猟犬を放ったりと、そのサポートに回った。
騎士の熊狩りについて、ガストン・ド・フォアは決して一人で狩ってはならないと書く。そして熊を狩るのであれば(※番犬あるいは闘犬である)マスティフ犬を連れて行くのが良い。小麦の実る夏から初秋にかけては畑で狩る、秋になって葡萄やブナなどが実ればそこで狩るといったように、狩場は調整する。
熊狩りの武器としては罠を除くと、弓arc、槍lance(※馬上槍)、槍epieu(※柄の長い槍)、剣epéeが挙げられている。
マスティフ犬は熊と対峙しても決して逃げないから、容易に熊を狙うことが出来るといい、その隙に何人かで優れた槍を使って協力して攻撃する。もし乗馬していれば槍は投げるべきで、弓使いやクロスボウ使いも必要であるという。
また熊は傷つけられればそちらを追いかけるので、仲間意識の強い二人が注意深く熊を観察しながら交互に攻撃することでも倒すことが出来るといった。
捕らえた熊が送られる先の一つとして動物園がある。ローマ皇帝フリードリヒ2世は前述の白熊だけでなく様々な動物をパレルモの城で飼っていたし、デンマーク王スヴェン2世やホラント伯ウィレム4世も多種の動物の飼育場で熊を飼っていた。
食用としての熊の肉については意見が分かれる。
ネガティヴな意見が古典に由来する一方、好意的な意見は彼ら自身の知見に拠るように見える。
ヒルデガルド・ビンゲンは、熊肉を食べると情欲を掻き立てられるようになるので良くないと書く。一方、熊の脂肪や胆は軟膏に使えるとし、育毛剤としては熊のうんこをライ麦の灰に混ぜて頭に塗ってしばらく頭を洗わなければよいと書いた。
ガストン・ド・フォアも基本的には不味いと書くが、熊の足は熊のほかのあらゆる部位と比べて食べるに値するものとしている。
またコンラート・ゲスナーは、動物誌において熊肉は食べる者も食べない者もいるという。ただ熊の足は繊細な味付けをされた甘みのある料理として、ドイツの君主によく食べられていたという。
パレルモのギヨームは、逃避行する恋人たちが獣に扮するために熊の毛皮に身を包む場面を描く。ここで熊の毛皮は王家のキッチンに干されている。また料理人たちが皮を剥いで肉を調理していた。熊肉は食用にしたのだろう。
前述したベルヒルト公がベルンを創設したときに出会った熊も祝いの宴でお肉になった。
薬の用途としての提案はビンゲン以外にもタッデオ・アルデロッティがてんかんの薬の材料として熊の睾丸を挙げている。
サレルノのトロトゥーラも軟膏やてんかんの薬、毛生え薬について触れているが、てんかんの薬の材料は熊の胆汁、毛生え薬の方は熊の脂と塩とパン粉を塗ればよいとしていて、ちょっとマシである。
熊の毛皮の立ち位置も一定ではない。
ランゴバルト王国史には、逃亡するために奴隷の変装をする目的で国王ペルクタリトに熊の毛皮を担がせるinposuit場面があるが、ミラノの起源の歴史Historia continente da l'origine di Milano tutti li gestiでは、熊の毛皮を着せられている。
出土史料によれば初期中世において熊の毛皮は貴族たちの所有物だった。アングロサクソン時代には富者の葬儀に使用されたと見られている。
中世盛期イングランドでは貧しい人々のことを、その服装から、熊の毛皮を着る者と呼ばれることがあった。
モンテカッシーノ修道院の年代記chronica monasterii Casinensisには、修道院長に熊の毛皮を着せて市中の見世物にして辱める描写がある。
デカメロンの4日目の第二話では、広場で熊の格好をした男を狩る祭りが行われるが、それと同類だろう。
一方、アルフォンソ11世は、熊の毛皮を熊狩りが成功したときの報酬に位置づけ、獲物の発見者、最初に傷を与えた者、仕留めた者がそれぞれ毛皮の1/3ずつを受け取り、それを狩猟の主催である領主や騎士が買い取った。
ミレフスコのゲルラッハによる年代記の続きContinuatio Gerlaci abbatis Milovicensisによれば、熊の毛皮は教会において簡素な寝床として使われていた。
フランスで捕らぬ狸の皮算用を、熊を殺す前に毛皮を売るIl ne faut pas vendre la peau de l'ours avant de l'avoir tuéと言うように、熊の毛皮は取引の対象ではあったが、確認した文献においては限られた用途が示されていた。




