はじまりのはじまり
雄太と出会った頃の葵はいくつか悩みを抱えていた。
その1つが妹、杏に関することである。
雄太の視線に耐えられずに、杏は自分の部屋へと逃げ出してしまった。
雄太は何かしてしまったのかと不安な顔で、葵に申し訳ないと視線を向ける。
「気にしなくて大丈夫。あの子、極度の人見知りだから」
「そうですか……」
杏はここ1年学校に行っていない。
いわば不登校ということになる。
そんな妹に世間体を気にした両親は腫物のように扱った。
学校に行くことは当たり前で、それが出来ない杏は異質な存在。
理解されずに毎朝怒鳴り声が響いていた。
そのこともあって、葵は杏と2人暮らしを始めたのだ。
だからと言って、葵にそれ以上妹を助けるすべがあるわけでもなかった。
杏からは学校に行かない理由は告げられていたが、ただそれを聞いても、葵にはどうすることも出来なかった。
葵は学校に行くことを恐れたことがない。
もちろん陰口などは言われたことはあるだろうが、自分にとってそれがいかない理由にはならないので、その状況を好転させる助言を言ってあげることが出来なかった。
経験していなければ説得力は薄く、変化させる力を生むことは出来ない。
それでも、葵は味方だと言うことは伝えたし、行動でそれを示してきた。
学校のことは妹の前では話題に出さず、友達を家に呼ぶこともやめる。
それくらいしか出来ない自分が歯がゆかったが、他にどうしていいのかわからなかった。
葵はそんなことを考えながらも、リビングへと移動し雄太と勉強を始める。
周りを気にせず雄太は何度もわからないところは質問し、わかるまで葵は教えた。
結果として葵の自宅での勉強は雄太にとって大いに捗った。
葵は時折、杏の部屋を気にしながらも時間は過ぎ――
勉強がひと段落して、葵がお茶の用意をしていると杏が部屋から出てくる。
「……」
雄太にはペコリとお辞儀だけして、台所にいた葵に泣きつく。
「お姉ちゃん、勉強教えて」
「雄太君と一緒ならいいわよ」
「そ、そんなあ……」
「真剣に彼は勉強してくれるからね。杏にも相乗効果あると思うわ」
「くっ、いいもん」
杏はべそをかいて、部屋へとまた戻っていく。
「あのう、僕、お暇しましょうか?」
「いいのよ。あの子、籠りっきりで刺激が足りないから」
この日、杏はもう部屋から出てこなかった。
雄太は自宅ではなく近隣に住んでいる叔母の家に寝泊まりし、朝早くにまた葵の家へと来ることを約束し玄関で靴を履く。
「お疲れ様。詰め込みすぎはよくないから、早く寝ること」
「はい。ありがとうございました」
「それから、妹のこと少し話しておきたいんだけど」
話すべきか悩んだ末、伝えるべきだと判断したのは――
彼なら杏の気持ちがわかるんじゃないかと思ったからだった。
雄太に勉強を教える過程で、どんな学校生活を送ってきたのかは大方聞いていた。
雄太もまた不登校になっていたことも、それを何度か繰り返したことも耳にしている。
杏の件は簡単に行くとは思っていないが、彼女も受験生だ。
後悔するようなことはさせたくなかった。
そのことが彼に口を滑らせた原因だったのかもしれない。
「葵先輩は優しいですね」
葵の話を聞いていた雄太は話が終わると柔らかい微笑みを浮かべた。
「う、うるさい……なに、名前で呼ぶ気?」
「いけませんか?」
「別にいいけど……」
「妹さんのことは僕でも役に立てるかもです」
「期待しないで、期待してる」
その翌日も雄太は勉強をしに葵のマンションへやってきた。
お昼が近づくと、葵は課題を出して冷蔵庫に何もないのでお昼の買い出しに外へ出る。
雄太が英語の勉強をしていると、このタイミングでゆっくりと杏の部屋のドアが開いた。
少し不機嫌に、頬を膨らませた杏がウサギの大きなぬいぐるみを抱え、雄太に近づいてくる。
「……」
何も言わずに、ぬいぐるみを押し付けるようにして無言の意思だけは伝えてきた。
「えっと、一緒に勉強する?」
「……」
「何か話をするか?」
雄太は決しておしゃべりが嫌いなわけではないが、教室ではあまりしゃべらずおとなしいグループに属していた。
その彼にとって、あまり言葉を交わしていない杏と2人きりのこの状況はすごく緊張するものである。杏はあまり反応を示さないので余計に言葉が出てこない。
それでも雄太はしゃべろうとした。
しゃべらなければ、伝えなければならないと本能で感じていたのだ。
「……」
「じゃあ僕が話すからそこで聞いていて……僕は何度も不登校を繰り返してた」
「……えっ……」
「いじめられていたこともあるし、担任が大嫌いで行きたくないと絶対的に拒絶してた時期もあるんだ。今だって学校に行きたいとか思ってないし、担任の先生もいい人だとは思わない。周りのクラスメイトも話をしたくない人も多い」
「……今は行ってるんですか?」
「一応はね。気が合う人もいるしその子たちと話してる」
「……もし、裏で陰口など叩かれたり、知らないうちに仲間外れにされていたら?」
雄太は反応してくれたことにほっとし、質問をしてくれたことに感謝をする。
「僕ならすべて無視するか、そんな人たちを憐むか、味方づくりに精を出すかな。何が正解かなんてわからない」
「味方づくり……」
「人をいじめるなんていわば悪人だ。よく思ってない人は必ずいるし、僕でも味方がいるんだ。仲間がいるはず……中学が嫌なことがあっても、高校なら全く違うかもしれないしね。最悪そこまで我慢するなら行かない選択肢もあると思う。1人で悩むより、味方に話した方が溜めこまずに済むよ」
「……なるほど」
「誰も味方がいないなら、僕が味方になってあげる。こっちじゃ知ってる人はいないし、あとで何を言われようが全くかまわないし」
「……なんで、そんなこと?」
「葵先輩に助けてもらってる。そのくらいお安い御用だ」
杏はこれ以降、たびたび部屋から出てくることになった。
雄太ともだんだんと話をしてくれるようになり――
2週間後には一緒に勉強し始め、12月になるころには――
「お姉ちゃん、あたしも開王学院受験する!」
杏は志望校を雄太と同じ場所に決める。
葵と杏が秋馬雄太を少し見直し、少し信頼したからこその出来事だった。




