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ご懐妊  作者: 長崎秋緒
12/12

十二

 ムツオは慎重に腕をのばし、ソファの位置を確めゆっくりと体重をかけていく。クッションがしだいに沈み、きしむ。そこには病人がベッドによこたわる時のような、弱々しさがあった。

 ここまで風邪をこじらせたら、もはや眠りこむだけだと、ムツオは心臓の鼓動を注意深く聴く。そうすることで、よく彼は寝入ることに成功していた。

 幼少からの習慣は別の記憶も呼び起こす。自らの脈を追いかけ、数える。ある回数まできたところで自然に、ムツオはそれをやめた。

 三十八度を上回る発熱でなければ、ムツオの父親は病気と認めなかった。ムツオは学校へ行った翌日に風邪を悪化させ、そこで、ようやく認められ休みをもらうことになる。一日で治らなければ、もう一日は休んでもよかったが、三日休むことは許されなかった。当時、親しい友達が四人あり、盲腸の見舞いに訪れ、ムツオをしきりに外へ連れ出そうと説得を続け、ムツオも、そろそろ行ってもいいかという気になっていたので、友達の家へみんなで向かうことになった。

 ムツオは友達のひとりの自転車を借り、ほかの四人は歩いていたが、そのうち自転車を降り、皆とともに荒い砂利道を行く。

 途中、砂塵が顔を強くかすめ、ムツオと仲間は唇を舐め、舌にざらついた感触を覚えると、一斉に地面にむけ、数回、つばを吐きだした。

 友達の家とは違うお寺の閉ざされた大きな門の正面に着き、そこでひとりが、自分はこの寺の住職の奥さんを一度見たことがあると告げ、ひとりは、まだ見たことはないと嘆き、ひとりは見たとも見ないとも言わずうつむいたままで、ムツオともうひとりは、まだ見たことはないが、いつか見てみたいと好奇心から、目を輝かせた。

 友達は、ムツオともうひとりに、おまえたちはいつか見ることができるだろうとやけに偉そうな口調で、嘲笑まじりに、でも、気をつけないと住職に怒鳴られるぞ、と彼自身住職に門の前で呼び止められた時の、恐怖をあらわし、肩を小刻みに振ってみせた。

 その帰り道にムツオと友達のひとりは家までの道を競い合って走った。ムツオは近道をするために茂みの深い林道を通ったが、ムツオの白いセーター一面に小枝がひっつき、神経質にそれを取り除こうとするのを見て友達が、服に小枝がつくのは馬鹿だけだと言い放ち、自分にはひとつもつかなかったと自慢した。

 ムツオが小枝をあらかたとり除いた時には、白いセーターはところどころほつれ、灰色に濁った汚れができ、ムツオはそのセーターを気に入っていたものの、脱ぎ捨てた。

 ムツオが玄関の扉を開けると、母親の妹がこどもを連れてきたことを、見慣れない靴から見てとった。

 居間の畳にすわり、テーブルの上にはコーヒーカップが二つ置かれただけで、ムツオは、こんな暑い日にわざわざコーヒーをださなくてもと不思議におもい、額の汗を拭いながら、冷蔵庫の麦茶を持ちだして飲んだ。        

 叔母さんが母親となにか難しい顔で話している。ムツオに気づくと叔母さんが、この子のお守りをお願いね、と千円札を手渡し、ふたりは、デパートに買い物へ行くとだけ言い残し、家の中はムツオといとこのタカコちゃんだけになった。

 最初ムツオが馬になり、タカコちゃんは彼の背中の上ではしゃいでいたが、ムツオがひざの痛みを訴えると泣き出し、タカコちゃんは癇癪から、その辺の小物を掴み投げはじめ、ハサミで、ガラスが割れ、コーヒーカップがムツオの額に当たり、ひどく腫れ、赤い血が滲み、かっとなったムツオが、叔母さんのこどもだから叩いたりしないんだからな、とタカコを口で叱りつけ、それでも治まらないくて、タカコをその場に残し、また玄関から外へ出て行った。

 自分は悪くない、叔母さんもわかってくれるだろう。ムツオは楽観した。

 外に出ると、タカコちゃんがもう少し物分りがよければ優しくしてあげるのに、ムツオはそれをひどく残念に感じた。

 家を出てすぐに、買い物帰りの母親と叔母さんに呼びとめられ、母親が、タカコがあなたに傷つけられたと言っているけれど本当かと訊ね、ムツオはあわてて否定する。叔母さんが、タカコから血が出ていることをつけくわえ、ムツオは、それはおかしい、傷はぼくの体にあるはずだ、と額に手をあてたが、痛みも脹れもなくなっていた。血も出ていないみたいで、ムツオは安心してしまい、それ以上反論できなくなってしまう。 

「とんでもないことをしてくれたな」

 母親が激しくムツオをなじり、何度もムツオの側頭部を買い物袋から出した物差しで叩き、しだいにムツオは、タカコを傷つけたのは自分なのかもしれないと思いはじめた。

 ムツオは父親の作業場へ向けて歩いている。作業場からは金づちで鉄を殴りつける連続音が鳴り響き、中へ入るのを躊躇していたら、作業場の隣に住む、糖尿病を患っているらしい、肥満体の中年男が、幼い娘を連れてムツオの前まで来て、作業場のドアが閉めてあるのをちらっと見やり確認した。

「お父さんは在宅かな」

「はい、仕事が忙しいみたいです」

 肥満体の男は、ムツオの言葉に頷くと、君の父親は大変忙しい人で、それもかなり腕の立つ職人だと褒め、「君もああいう父親をもって満足だろうな」と言われムツオは、父親が尊敬すべき人に感じられ、男の言うことを素直に嬉しいと感じた。

 男だけが作業場の父親に招かれ、ガラス戸の奥で愉しそうに笑いあっている姿が見られ、残されたムツオと、女の子は、人目につかない作業場の裏手に行き、そこで、ムツオは、まったく抵抗しない女の子の唇に好奇心から、不器用なくちづけをした。 

 空き缶が転がる音に、はっと唇を離す際、ムツオのものか、彼女のものか、唾液が細く糸を引き、首を振ったムツオの頬に生温かい線を刻んだ。その線はやけに熱かったが、ムツオにとって、汚らしいものにはならなかった。今更ながらに女の子を注意深く見る。

 長く垂らした髪の毛に隠れさっきまでは気づかなかったが、女の子はつりあがった一重まぶたで、唇も薄く小さい、あまりかわいいとは言い難い顔をしていた。

 はじめにどうして気がつかなかったのか、もしかすると別の人物にすりかわったのかなとも考えたが、たいした問題にもせず、それより、もっとその女の子と親しくなりたい気さえ起きた。

 裏手にもガラス戸はあり、そこから父親の背中が見え隠れするのをひどく恐れ、女の子の手を握り、ムツオは、海岸へ向かおうと思い立ち、もうすでに外灯のともる、夕暮れをとっくにすぎた家並みに沿って海岸へ向かい、手をつないぎ歩く幼いふたりを、いつの間にか大人になったムツオが後ろからじっと眺め、二人の姿が夜の暗がりに消えてしまうまで、そこにいて見守り続けた。

 港のそばの海岸では半分消えかかった焚き火の白煙が、その源から上空へ広がりつつ昇るのを防波堤越しに確かめ、幼いムツオは人の存在を予期させる白煙の焦げたにおいが女の子を不快にさせてはいないか、それが気にかかり、鼻先で軽く手をばたつかせ振り返ると、女の子はすばやく石段を五つ降りて砂浜の焚き火のまえに身をかがめ、暖をとるように両の掌をいくらか弱まってきた火種に向け彼のことなど忘れているふうな、先程までの警戒を取り除いた、少女の微笑さえ浮かべているのを、ようやく幼いムツオが走りよりおなじようにかがみ、曲げた膝のぶつかり合う距離にきて、女の子の顎に手をのばす。

 微かな抵抗を指の間に感じ、ムツオは多少むきになり、女の子を力ずくでもこちらに向けさせたく肩のあたりを数回叩き癇癪でも起こしそうな勢いをみせた。

 父親の呼ぶ声が聞こえ上半身をひねり女の子はすぐにムツオのもとを離れ駆け出し、石段を昇りきったところの父親のたるみきった下腹に鼻をうずめ、小声でなにか言っているのが、ムツオに都合の悪いことを告げ口しているのではないかとこわがらせ、もし父親に訪ねられたらどう切り抜けようか、姑息な考えをいろいろめぐらせては、はたして大人の理知に通用するものかうたがわしく、適当な答えもだせないままいるうちに、女の子はさっさと父親に抱きかかえられながら防波堤の後ろに身を隠してしまった。

 立ち上がって女の子を追いかけようと焚き火からすこし離れた場所に茫然としていたので、しだいに寒さが肌に感じられ、ムツオはズボンのポケットに手をつっこみ、小銭のいくつかに当たると、掌の上に置いて数えてみた。

 百七十円と一円玉が六つだけで、一円玉を数えた時、なぜかここまで数えるのはひどく情けないと自分を恥じた。この小銭を使いきったらどうやって生活すればいいのか、不安は最高に達した。

 唐突なかたちで女の子と別れたくやしさと手持ちの金のたよりなさとから、ムツオは狂ったように砂を蹴りつけ、焚き火の白煙を種火ごと夜空に散らした。

 火が消えた瞬間にムツオはいきなり寒気を肌に感じ、鼻腔にこそばゆく刺激を与える浜風の冷たさに堪えきれず唾液ごと派手なくしゃみをふきだすと同時に大きく体勢をくずし、おもわず片手をついた先の柔らかなソファの沈み込む手触りに、重力のあることを今思い出したかのような息苦しさが全身にのしかかってきた。、ムツオはいつのまにか器用にソファの上でうつぶせに体をいれかえ、枕代わりのクッションによって息苦しさを引き起こされたことを理解した。

 クッションから顔をひきぬき、呼吸さえもたった今はじまったのかというほど、深く、長く、胸を前後になんども動かしながら、ようやく暗闇の中にぼんやり視界が開けてきた。

 まだ眠りのふちを行き来する、不確かなムツオの脳が、窮屈な体勢でソファに体を詰め込んだ格好の体の節々に痛みを伝えてくる。

 寝室のベッドで寝入っているはずのエイコが、ドアを開け、なにか抱え暗闇の中を正確に彼のいるソファまで来たところで、毛布を一枚無造作にムツオの膝もとに落としていった。

「もう今日はここで寝なさいよ」

 ムツオはもとからそのつもりだとなんども言っていただろうと、命令口調のエイコを軽くつきはなすつもりで毛布を蹴りあげてみせた。

「なによ、それどういう意味。あんたって本当、わがままよね。自分のことしか問題にないみたい」

「だから連れて行くって、そのうちに」

「明日よ、行くなら」

「風邪ひいて無理」

 それなら病院のあとにでも構わないから連れていってよね、先延ばしにはさせないから。 

 そう頑なに彼女は、明日自分の実家を訪れることを強要した。

 ムツオは車の運転ができそうもないことを理由に拒否したが、すばやくエイコは、わたし、まだ運転はできるから大丈夫、心配はいらないから。

 まだぼんやりとしかおたがいの顔は見えないのに、それでもエイコがしてやったりのにやけ顔をする様子が、まざまざとムツオの眼に浮かんできた。

 くやしいけど、眠気を振り払えずにいるおれの発熱で弱りきった頭では、こいつの執拗なやり方に抗うことは難しい。いっそ今日のところはなんでもいいから約束だけ済ませ、明日また理由をつけて先延ばしにすればいいことだ。なにもこんな状態でわざわざ疲労の種を増やすこともない。せっかく毛布までくれたのだから、望みどおり今夜はこのまま眠るとするか、などとムツオが半ば投げやりな考えを起こす間も、エイコは立ち去らずそこに止まり見下ろし、まだなにか胸のつかえがありはしないか思案するようでもあった。やがて何を言おうか固まったらしく、

「必ず連れて行ってよ。まず教会に寄って……」

 ちがう、病院、病院に寄るの。そのあとに実家に行くからそのつもりでいなさいよ。

 エイコの顔は暗闇の中、わずかに紅潮したように、ムツオには想像された。そのちょっとした言葉の間違いは、現在のムツオにとって非情な文句の破片を、不意打ちで切りつけるような、はっきりとした印象をもたせる効果が充分あった。

 来た時と同じ正確さで歩き、寝室のドアを前ほどの力をこめずに閉め、ムツオの耳を煩わす音は聴かれなかった。

 それでもまだ、ムツオは考え渋るのをやめず結論に至ろうとはしなかった。どうしても、エイコを連れて彼女の実家に帰ることには同意しかねた。

 行き詰まりになったムツオは、エイコの持ってきた毛布を空中ではばたかせ、全身を覆うように包み、毛布の端を内側に折り少しでも温もりが逃げないように、ソファと体とでしっかりはさみこんだ。

 彼女の出産、結婚、そして家族としての生活からは逃れられないことが、ただはっきりとした形で存在が確められるばかりで、ムツオはもう眠ることができないほど意識がさえ、エイコの胎内で確実に成長しているものが、自分のこどもであることが実感され、ムツオは行き詰まり、みないふりをつづけることができなくなったいま、逃れる方法は死んでしまうやり方だけだ。

 そう考えが固まるにつれ、でもなんだかんだいいながらも、自分は生きてエイコとの結婚をするのだろうという予想は、すでに思考の隅でふくらみを増していた。

 もう自分にはのしかかる父の圧力はないのだからと、友人の職場を訪ねた際のことを思い出し、縁を切ることは法律上では不可能で、例えば、分籍といって両親と戸籍を分けることは可能だが、分籍の済んだ後でも、結局は親の扶養義務はついて回るし、あまり法的には意味のないことを、淡々と友人に教えられた時の自分の浅はかさに恥をかき、結婚すればおのずと籍は別になることもその時に知った。

 せっかく考えた会心の策も、これでは両親の目を覚ますことはできないかもしれないと諦めながらも、友人に背中を押され、おそわった通りに、扶養と相続権の拒否をするつもりがあることを二人に告げたところで、父親も表情を変えた。

 なにもそこまでしなくてもと母親と一緒になって父親がムツオを諭すが、もう彼の気持ちはうわの空で、慌てふためく父親がおもしろくって、もっとこらしめてやれといった思いで、とうとう籍を分けることを承諾させた。

 それから結婚式にも出席させることも、父親は世間体を気にしてだろうが、約束してくれ、年明けに小さな式場だが予約もとれた。父親の恨めしそうな困り顔は爽快だった。母親はようやくことの重大さに気がついてくれたらしく、そこまであなたがお父さんを嫌っていたなんて知らなかった、と泣き出し、取り乱しようは父親までもあわてさせるほどだった。

 さすがにムツオも母には刺激が強すぎたと後悔したが、そうでもしなければ自分の心を理解してはくれないだろうと割り切ることに決め、態度を崩さなかった。

 あとは、エイコの両親に会うだけだったが、母親は自分のことを嫌ってはいないらしいが、父親が大事な娘にはムツオのようなだらしのない男は不釣り合いだと憤慨していると聞かされてから、またムツオは臆病になっていた。

 ようやく一応のケリのついた親子関係の後にあったものは、義理の父との確執かと、またも彼の頭を悩ます問題が起こり、ムツオはどこまでも逃げてしまいたくなる自身の性格を恨めしく感じ、どうすれば堂々とした人間になれるのだろうかと考え、やがて熱の増した頭は疲れ果て眠りについていった。(完)


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