猫
~暗黒暦6606年 4月13日 冥曜日~
この世界の暦は便利だ。日付が分かっていれば、それを8で割った余りの数で曜日が分かるからである。今日は13日で余りは5であるから、曜日は冥だ。その便利さと引き換えに閏年の調整がずぼらなようではあるが、天文学で国の趨勢を占おうというのでもなければさしたる程大きなズレが生じるわけでも無いので気にはならないのだろう。神やら悪魔やらがいて魔法の溢れる世界で、一々夜しか見れない星々に国の運命を見定めようとは思うまい。尤も、ここは冥界なのでこっちの世界の星なんて見たこと無いが。
俺は目が覚めると、巣の端をよじ登って外側へ降りる。空を見てみたが、いつも通りだ。冥曜日は冥属性が活性化するという話だから、冥界全体に何か変わった事でも起こるんじゃないかとちょっと期待していたのだが。
辺りを見回すものの、ブランカの姿は見えない。まあ、俺が寝ている時に常時張り付いているわけにもいかないだろうから、おかしな事では無いか。
時を示す銀の尖塔の方を振り向く。時間の塔には数字の6が示されている。つまり、今は午前6時から7時の間の時間帯と言うことだ。ひょっとするとブランカは未だどこかで寝ているのかもしれない。
俺は巣から伸びている白色の森の中の小道を進む。さほど歩かないうちに、いつもの湖畔へと出た。湖は銀色の光を反射して輝いている。太陽があるわけでもないのに、冥界の光源はどこから来ているのだろうかと不思議に思う。
それにしても暇だ。此処に連れて来られてから訓練と気絶と休眠の繰り返しだったから、今初めて俺は何もしない時間を過ごしているわけである。
とても、静かだ。俺が歩く度に俺の素足の下で鳴る白砂の音がハッキリ聴こえてしまう程に。森の方へと耳を傾けてみるが、鳥の鳴き声すら聞こえない。此処に来てからブランカとスーノ教官以外に生き物には出会っていなかった。この大地には動物はいないのかもしれない。であれば、この森は美しく輝き芸術的造形美を体現しているが、大理石の彫像群と同じで生き物を育む機能を持ち合わせない単なる芸術作品に過ぎない。命と切り離された死の森である。いや、死と言う表現はよくないか。ここはそもそも食物連鎖などに代表される生と死の循環の存在しない場所であろうから。
俺は湖へと眼を向ける。おそらく、あの湖面の下にも魚は泳いでいないだろう。もしかしたらいるかもしれないが、命を感じられるような存在としてではないだろう。
食物連鎖で今更気付いたが、悪魔は物を食べないのだろうか? 俺は生まれてから何かを口にした事が無い。水も飲んでいない。ブランカやスーノ教官がそういった類の事をしているのも見た記憶が無い。もっと言えば、食事に付随してくるはずの排泄の方も一切その欲求が無い。霊体生物にはそういったものは必要ないということか。空腹も尿意も無い。その上、貫かれても、首チョンパされても、時間が経てば元に戻っている。まるで生も死も無い様な生き物。便利なものだが・・・。
やはり、俺は悪魔というものに転生したというわけだ。人間からは程遠い。
いや、当たり前の事だし、もっと前から分かり切った事だったが。それでも、自分の手足が人間と同じように生えていて、五指がある以上、どうしても自分に人間と言う種を投影して考えてしまうので違和感があるのだ。
ああ、俺は人間では無いのだな、と実感が理性に追いついて来る。
別に悲しいとか、感動とか、そういう感情的な脈動は起こらない。そういうものは将来的に起こり得るかもしれないが、現状では認識や価値観を緩やかに変更していく必要がある事を思っただけである。
前世の価値観を引き摺ったまま、まるで自分が人間であると勘違いして生きていけば、現実の俺、即ち悪魔である所の俺とズレが生じていくだろう。訓練ばかりでこういった事をユックリ考える時間が無かった。今、これに気付けたのはよい事だったと思う。とはいえ、じゃあ具体的にどうすべきか、あるいはどう価値観を改めるべきかはさっぱり分らないが。
尤も、そういった問題には答えなんて永遠に出ない事も珍しくは無いだろうが。人間、自分自身を正確に知ることは大変難しい事なのだから。・・・いや、今は悪魔か。
そう言えば、自分自身を知るという言葉で思い起こしたが、俺は未だ転生後の自分の顔を確認していなかった。転生物と言えば、やはり容姿の醜美が気にかかる所だ。今まで猫兵の事ばかりで、頭の片隅にも無かったが。
丁度良い機会だ。あの湖の銀色は鏡のように働いてくれるだろう。赤茶けた空間と同化して、赤い色を放っていない所に問題を感じるが、きっと何か魔術的作用のせいなのだ。ファンタジーに物理法則云々を言っても仕方ないだろうし。あれ? でも、そうなったら、あの湖面が俺の容貌を映し出してくれない可能性があるのでは。
考えていても仕方ない。湖面を覗けば確かめられる事だ。
俺は波一つ立てない湖面へと近づくと、岸の淵にしゃがみこんで覗きこんでみた。
「え?え?え?」
俺は驚いて思わず声を出す。無音の湖畔に俺の間抜けな声が響く。
白銀の湖面は天の赤を映していないにも関わらず、しっかりと俺の顔を明瞭な色遣いで映す。
湖面に映っていたのは、想像通り6歳ぐらいと思われる幼児の顔だった。全体的に丸っこくて、黒目黒髪で可愛らしい。少なくとも俺が6歳だった頃よりは可愛いと思う。これが他人の顔だったら俺の中のショタコンスイッチが入ってしまっていた事だろう。流石に、自分の顔相手にそういう想いは抱かなかったが。
まあ、顔は別に良いのだ。幼児の顔に幼児特有の可愛らしさがあったというそれだけの事だ。
俺が驚いたのはそんな事では無い。
俺は湖面に映っている物が真実か否かを確かめるために、ソロソロと手を頭の上に伸ばす。湖面の中の俺も手を上に伸ばしているので、やはり映っているのが俺である事は間違いないらしい。
そして、俺は頭上まで伸ばした手を頭の上に付いている不可解な二つの物に触れさせる。手から感触が伝わってきた。そして、同時に今まで全く俺の意識と共有されて来なかった神経から、別の刺激が脳へと駆け下りてくる。
うむ。間違いない。これは幻覚ではなく本物だ。
正真正銘の『猫耳』である。
黒い髪を掻き分けて、二つの黒い猫耳が立っている。
衝撃の事実だった。
俺は今日まで訓練という名の地獄を生き抜く事に必死で、自分の頭の上にもう一対の耳が生えている事に気付いていなかった。人間の耳が生えていた為、無意識に前世の常識に縛られてそちらの聴覚ばかりを使っていたのだろう。ちょっと頭が重いとか思った様な事があったかもしれないが、それも幼児体型で説明がつくと思っていた。人間としての意識が俺に猫耳が生えている可能性を疑う事を封じていたのだ。そう、俺の人間の価値観が俺の猫耳を無い物としていたのである。思えば、自身の顔を確かめようとしたのは、悪魔としての自分を受け入れるようにせねばならないと考えた後じゃなかったか? これは果して偶然であろうか。いままで、ずっと湖畔にいたのだ。確かめようと思えば何時でも出来た事だ。それを俺は何故してこなかったのか。もしかすると、俺の頭に猫耳が生えている事を無意識下で本当は知っていて、それを認める勇気が無かったのではないか?
さてと、難しい考察は一旦やめにして、俺はもう一つの可能性を先に検証しなくてはならない。
猫耳が生えているのだ。
確かめねばならぬ事は、ただ一つ。
俺はゴクリと唾を飲み込む。俺はまず膝辺りまである貫頭衣の後部を捲る。出来るだけ首を捩じって後背を見ながら捲り上げる。すると、真っ白く柔らかいカボチャパンツさんが現れる。そして、俺はユックリと右手を背中側へと回し、カバチャパンツ様の中へと上から差し入れる。軟肌に触れながら俺の右手は尾骶骨の辺りへと到達する。そして、ついにその存在に触れた。掴んだ。カボチャパンツ様から掴みだす事に成功した。
奇想天外。不思議発見。珍獣、猫の尻尾様との対面である。
尻尾も耳とお揃いで黒だ。短くてフサフサしている。触れる度に、右手から伝わる幸せな感触と、これまた今まで使用されて来なかった神経回路から脳へと殺到する快楽信号が混線する。
気持ち良い。
なんだろう。気持ち良過ぎて、なんだか、とってもイケナイ事をしているような気分に為る。なぜ、今まで尻もちをついたりもしていたのに気付かなかったのか等と不可思議なポイントもあるが、どうでもよろしい。尻尾はとても気持ち良いのだ。その事が重要だ。
そう言えば、さっきはパニクっていてちゃんと感触を楽しむ余裕が無かったと思って、俺は左手で猫耳を弄る。これも気持ち良い。尻尾とは違ったまどろむ様な快感を与えてくれる。対する尻尾の方は蕩けそうな快感なのだ。どっちも異なる種類の快楽であり、優劣付けがたい。
思えば、俺は此処に連れてこられてから3日間、悦楽を感じることなど唯の一度も無かった。ずっと訓練をしっぱなしだったのだ。腹を貫かれたり、首チョンパされたり、串刺しにされたり、薬で苦痛にのた打ち回ったりしてばかっりだった。たまには自分に御褒美をあげても良いではないか。こんな便利な癒しの手段があるのだ。使ってならないはずがない。いや、是非使うべきだ。
俺は尻尾と耳を同時に触り易いように湖畔に座り込む。右手で尻尾をユックリと撫で回しながら、左手で猫耳をソワソワと指で優しく触れる。二種類の快感が全身を痺れさせて頭の中がフワフワとし始める。
なんか、やみつきになりそうだ。
俺はちょっとだけ右手を動かすのを速めて、左手に力を加えてみる。
「あっ。」
気付くと、俺の口から声が漏れていた。急にやってきた悦楽に不意を打たれた為か。背中を何かが走り抜けるような感覚がして、俺は姿勢を保っていられなくなり地面に横倒しに倒れる。それでも、両手は離れない。止まらない。もう自分では止められそうにない。脳味噌が理性の放つ停止命令を全て却下している。
「あっ。あ。はぁぁ。うぅ。あ。」
白砂の上に横倒し状態の俺は貫頭衣を腰の上まで捲り上げて外側に露わになったカボンチャパンツから抜き出した尻尾を右手で虐め抜き、左手は両方の耳を交互に攻め倒す。甘い吐息が漏れてしまうがどうしようもない。制御なんかもはや不可能なのだから。更にはだらしなく空いた口からは涎まで垂れてきた。悪魔にも涎なんかあったのか、っていうか、このままいくと廃人になっちゃうんじゃないか。と、俺の残り僅かな理性が俺を止めようとするが無駄な努力である。
悦楽に支配され、もうこのまま死んじゃっても良いかもしれない等と考え始めた時、ふいに走り抜けた快楽で背中が動くと、俺の首も角度を変える。と、俺の視界に何かが映った。
無表情のスーノ教官がいた。
俺は停止した。
全く止まる気配のなかった両手は完全停止した。俺の顔は多分青ざめている事だろう。血の気が引くってやつだ。
一瞬、世界全体が停止した様な錯覚に陥る。ほどなく、俺は徐に立ち上がるとカボチャパンツの中にしっかりと尻尾様をしまい込み、貫頭衣についた白砂を払い、涎をぬぐい、んんっと小さく咳払いする。
「お早うございます。スーノ教官。」
俺はスーノ教官に至って真面目な表情を作って挨拶した。
「ああ。今日は早いんだな。」
スーノ教官は俺の挨拶に普通に返答する。無表情のまま。
「眼が覚めてしまったものでして。」
「そうか・・・。」
重苦しい沈黙がやってくる。
スーノ教官がふいっと顔を脇に逸らせた。困惑した表情になっている。しかも、手で頭を掻き始めた。チラチラとこっちに視線が飛んでくる。
「まあ、その、なんだ。まだ、生まれたばかりでだな。そういうのに耽るというのは、なんというか、その、あれだな。まあ、やるなとは言わないが。いや、できれば、そういうことはだな。もっと大人になってからというか。少なくとも、こんな開けた場所とか、人前でやるのは、あー、止めておいた方が良い。もちろん、そういうのが趣味という奇特なタイプだというなら仕方ないが。いや、そんな理由でやられては困るが。要するに公序良俗に反する行為というものは止めておくようにと言う事だ。」
スーノ教官が歯切れの悪い話し方で要領の得ない説明をする。しかし、幾ら要領が得なくとも事態の把握はキッチリ出来る。俺のあの行為がどういうもので、どう受け取られたかが。
俺はスーノ教官に対してブンブンと何回も首を縦に振った。
その後、ほどなくしてブランカが現れたので俺達は何事も無かったかのように、訓練を開始した。今日はレベル1猫兵相手に純粋に俊敏さを鍛える訓練をした後、槍を構えるレベル8猫兵5体に対してレイピアとソードブレイカーの二刀流で戦った。それを殲滅するとレベル8猫兵10体と戦わされ、戦っている最中に弓を構えるレベル6猫兵10体の追加投入をされたが、俺は文句も愚痴も言わずにひたすら戦った。真面目に。大真面目に頑張った。開けた場所でイカガワシイ事をするような奴には見えないほどに大変真面目に、真摯に訓練を受けた。おかげで殲滅一歩手前までいったが、最後は全身の関節を弓で射抜かれて動けなくなった所を前後から挟み込む2本の槍に貫かれて強制シャットアウト。
俺は真摯アピールを十分出来たと満足しながら一時間のブラックアウトをした後に、ブランカの授業を受ける事になった。昨日の壮絶な苦悶のおかげで、魔力の認識がすんなり出来るようになっていた。もし、手間取るようだったら又あれを打ち込まれていただろうと思うと寒気が走る。
俺が時間が掛りながらも順調に魔力と霊力の紐を縒り合せて紡ぎだすのをブランカは興味深げに観察していた。なんでも、普通魔力やら霊力を糸や紐のイメージで把握する人はいないそうだ。流れとして一筋の力として把握はしても、取り出したり魔法を行使する段階では塊や気体状の物として扱うらしい。俺としては紐にしないと逆に絡ませるためのイメージが思い浮かばなかったのだが。
因みに、この霊力と魔力の絡まった紐だが、俺は梵糸と名付ける事にした。梵術を発動するためのエネルギー源だからという単純な理由である。
今日もブランカの梵術をお手本にしながら練習してみるが、相変わらず俺の掌から零れ落ちるのは泥である。使う梵糸の量を色々変えてみたがダメだった。
「ところで、ハクアちゃん。スーノと何かあったかしら?」
俺が梵糸の形状や結び型を変えてみようかと、輪っか、八の字、メビウス環などに梵糸を変形させていた所、急にブランカが質問を投げかけてくる。
「いえ、別に何もありませんが。」
俺は至って冷静なフリをする。蝶結びしようとした梵糸が真結びになってしまったが、ちゃんと冷静なフリが出来ていると信じたい。
「なら、良いんだけど。ちょっと貴方達の間がぎこちなかった様に思えて。考え過ぎかしら。」
「きっと、そうですよ。」
「でも、お互い眼を合わそうとしていなかったみたいだし。」
「偶然ですって。」
俺はその後もヘドロを量産しながらブランカを誤魔化し続けたのだった。明日からの訓練ではちゃんと、スーノ教官の眼を見る事にしよう。誤魔化しきれなくなってブランカに俺の痴態を知られてしまうのはどうしても避けたい。
かくして、その決心の下、俺は次の日からはスーノ教官と眼を合わせ、内心で愚痴を零しながらも真面目に訓練を受け、滅多切りにされ、四肢をチョンパされたり、腹を串刺しにされたり、ペシャンコにされたりする日常をキチンと過ごす事に成功した。
ブランカには未だに俺が純粋無垢な新生児だと信じて貰えていると思う。たぶん・・・。




