第8話 ──「その炎は、護るために」
牙が、爪が、いくつも、迫る。
ドラゴが、とっさに大剣を引き戻そうとする。
だが、振り抜いた刃は、途中では止まらない。
無防備な背に、いくつもの牙が影を落とす。
その、刹那だった。
「——ドラゴ!」
グレンは、すでに地を蹴っていた。
石畳を蹴り、一息で距離を詰める。
迫る獣の群れと、ドラゴの背。
その狭間へ、槍を構えて割り込む。
穂先に、炎が灯る。
いつもの、朱色。スザク家秘伝の炎。
だが、その名を口にしかけて——グレンは、目を閉じた。
頭の奥で、あの声が囁く。
完璧に。スザクの名に恥じぬように。
いつもなら、この声が手を縛った。
だが、今は違う。
背中を預けてくれたドラゴ。
離れていても、気にかけ、助けてくれたトジ。
そして、笑えと言ってくれた、ミーナ。
その声が、その手触りが、頭の奥の冷たい声を、優しく塗り替えていた。
——力を、抜いていい。笑って、いい。
グレンは、目を開いた。
「……自分は、もう、家には縛られない」
槍を握る手に、力が満ちていく。
けれど、強張りではない。
熱だ。
胸の奥から込み上げる、自分だけの熱。
「自分は——グレン。人々を護る、一人の守護者だ!」
その瞬間。
穂先の炎が、色を変えた。
慣れ親しんだ朱色が、内側から燃え上がる。
渦を巻き、やがて——目を焼くような、真紅へと変わっていく。
立ち昇る熱気に、周囲の景色がゆらりと歪んだ。
夜気が、じりじりと焼ける音を立てる。
荒れ狂うのではない。
研ぎ澄まされた刃のように、鋭く、静かに。
「『紅蓮炎武』——!」
槍を、振り抜いた。
真紅の刃が、迫る獣の群れを、一息に薙ぎ払う。
敵だけを、正確に焼き尽くし、ドラゴや周りの民家には、火の粉ひとつ届かない。
炎に呑まれた獣たちが、次々と地に伏していく。
あとに残ったのは、石畳に刻まれた、真っ赤な軌跡だけだった。
朱雀炎武とは、まるで別物だった。
熱も、速さも、届く距離も。
ドラゴが、目を見開く。
「……お前、それ」
「すまない、遅くなった」
グレンが、槍を引いて、にっと笑った。
汗を光らせながら、けれど、その顔に強張りはない。
「後ろは、任せて!」
「……はっ。上等だ!」
ドラゴが、笑って、大剣を握り直す。
二人は、背中を合わせた。
グレンの真紅の炎が群れを焼き払い、ドラゴの大剣が、そのあいだを縫って敵を砕く。
背中越しに、互いの熱が伝わってくる。
振り向かなくても、そこにいると分かる。
だから、前だけを見ていられた。
「『銃連弾』!」
トジの弾が、横から回り込もうとした一頭の足を払う。
「こっちだニャー!」
ミーナが屋根の上で跳ね、獣たちの視線を、住民から引き剥がしていく。
新たな炎は、仲間を護るための、鋭い一閃となって、戦場を駆けた。
——その戦いを、避難する住民の中から、じっと見つめる者がいた。
グレンの、母だった。
彼女は、立ち尽くしていた。
真紅の炎を操り、迫る獣を薙ぎ払っていく息子。
だが、彼女の胸を打ったのは、その力ではなかった。
「大丈夫ですよ! みんな、こっちへ!」
怯える人々に、そう声をかけながら——グレンは、笑っていた。
汗だくで、息を切らしながら。
それでも、周りを安心させるように、明るく。
その顔を見た瞬間、母の記憶が、遠い昔へと、引き戻された。
まだ、夫が生きていた頃。
庭に花の種を埋めながら、泥だらけの手で駆け寄ってきた、小さな身体。
あの子は、いつも、あんなふうに、笑っていた。
……いつから
いつから、あの子の、あんな笑顔を見ていなかっただろう。
夫を失い、家を護らねばと、必死だった。
優秀な兄たちと比べ、完璧であれと、そればかりを言い続けて。
……あの子から、あの笑顔を奪ったのは——
厳しく結ばれていた口元が、小さく、震えた。
完璧な守護者に。
スザクの名に恥じぬように。
そう言い聞かせるばかりで、自分は一度でも、あの子のことを気にかけただろうか。
母は、そっと、口元を手で覆った。
滲んだものを、拭うこともせず、ただ、立派に戦う息子の背中を、見つめていた。
グレンは、それに気づいていない。
ただ、目の前の人々と、背中を預けた仲間のことだけを、見ていた。
戦況は、確かに、こちらへ傾いていた。
群れは数を減らし、住民の避難も、ほとんど終わっている。
あと少し——誰もが、そう思った、その時。
地の底から響くような、重い音が、大地を揺らした。
足元の小石が、ぱらぱらと跳ねる。
崩れかけた家屋の瓦が、音を立てて滑り落ちた。
生き残っていたイノシシたちが、一斉に動きを止める。
まるで、何かに怯えるように、じりじりと後ずさっていく。
咆哮とも、地鳴りともつかない、異様な低音。
ドラゴの顔から、笑みが消えた。
「……おい。まだ、終わってねえみたいだぞ」
崩れた家屋の、さらに奥。
立ち込める土煙の向こうで、何か、巨大な影が、ゆっくりと起き上がろうとしていた。




