第8話 俺は、俺の身体を運ぶ
夜の商人ギルドは、昼間とは別の顔をしていた。
客の声は消え、帳面をめくる音も少ない。
代わりに聞こえるのは、遠くの酒場の笑い声と、廊下を急ぐ職員の足音。
俺は作業部屋の長椅子に横になりながら、天井を見ていた。
眠れるはずがなかった。
薬草急送隊は、今も道の上にいる。
ラウル。
トマ。
ニコ。
ミロ。
4人と馬2頭。
そして薬草箱2つ。
俺が組んだ段取りで、彼らは領都を出た。
その後、古渡しの船頭がいないことがわかった。
小舟は1艘破損。
もう1艘も繋ぎ縄が危ない。
北岸の小屋には、不審な札。
どう考えても、ただの不運ではない。
道が詰まりかけている。
荷が止まりかけている。
わかっているのに、俺はここで横になっている。
それが、たまらなくもどかしかった。
「くそ……」
小さく呟いた瞬間、横から声がした。
「起きていると思いました」
リーナだった。
いつの間に戻ってきたのか、薬箱を持って部屋に入っている。
「寝てました」
「目を開けたまま?」
「……寝る努力はしてました」
「それは寝ているとは言いません」
返しが冷静すぎる。
俺は苦笑しようとして、背中の傷が引きつった。
「痛みますか」
「まあ、少し」
「少しでその顔はしません」
「リーナさん、顔色鑑定スキルでも持ってます?」
「薬師見習いですから」
それで通るらしい。
リーナは俺の横に膝をつき、包帯を確認し始めた。
薬箱から小さな灯り石を取り出すと、柔らかい光が傷口のあたりを照らす。
俺は動かないように息を止めた。
リーナの手は相変わらず迷いがない。
若いのに、こういう時の彼女は妙に頼もしい。
「……やはり、早いです」
リーナがぽつりと言った。
「何がです?」
「傷の塞がり方です。普通ではありません」
俺は黙った。
自己暗示。
不屈系統。
身体維持。
そのあたりが、やはり影響しているのだろうか。
リーナは俺の表情を見て、少し声を落とした。
「私は、あなたの固有スキルが『自己暗示』だということは知っています。鑑定官のエルザ様もそう言いました」
「はい」
「痛みに耐える。恐怖を抑える。身体を無理に動かす。それだけだと思っていました」
「俺も、そう思ってました」
「でも、傷の治り方を見る限り、それだけではないかもしれません」
リーナは包帯を少しだけ持ち上げ、傷口を見せた。
裂かれた背中の傷は、まだ痛々しい。
だが、最初に負った怪我の深さを考えれば、たしかに塞がり始めているのがわかる。
完全に治るには遠い。
けれど、死にかけた人間の傷ではない。
「自己暗示が、身体の治ろうとする力にも影響している可能性があります」
リーナは慎重に言った。
「ただし、勘違いしないでください。傷が消えるわけではありません。失った血も、体力も、すぐには戻りません。痛みを消して動けば、傷が開きます」
「つまり、調子に乗るなと」
「はい」
即答だった。
まあ、当然である。
「でも、治ろうとしてるのは本当なんですね」
「はい。あなたの身体は、かなり強く治ろうとしています」
治ろうとしている。
その言葉が、妙に胸に残った。
あの森で死にかけた時、回復系の能力は使えなかった。
癒しの魔法。
超再生。
不死身の肉体。
頭の中にはいくらでもあった。
でも、俺は信じ込めなかった。
自分が不死身だなんて思えない。
傷が一瞬で消えるなんて思えない。
だから発動しなかった。
けれど今は違う。
リーナの治療を受けている。
実際に傷は塞がり始めている。
俺の身体は、治ろうとしている。
なら。
俺は、それを邪魔しなければいい。
いや、少しだけ押してやればいい。
無茶な再生ではない。
不死身でもない。
ただ、身体が本来持っている治る力を信じる。
俺は目を閉じた。
「アスト?」
リーナの声が聞こえる。
「少しだけ、試します」
「無茶は」
「しません。たぶん」
「その“たぶん”が一番信用できません」
わかる。
俺もそう思う。
だが、今はやる。
俺は胸の奥で、自分を確認した。
俺。
51歳。
大型トラック運転手。
日本で事故に遭った。
今はアスト。
固有スキルは自己暗示。
役割は運び手。
信じ込めた力だけが、俺の武器になる。
俺は不死身ではない。
傷は消えない。
血は戻らない。
だが、俺の身体は治ろうとしている。
裂けた肉は塞がろうとしている。
熱は引こうとしている。
血は止まろうとしている。
筋は、もう一度動こうとしている。
俺はそれを信じる。
邪魔しない。
焦らせない。
だが、止めもしない。
俺は、俺の身体を目的地まで運ぶ。
【自己暗示候補:自然治癒促進】
【条件:治癒過程への理解・回復への確信・身体維持意思】
【起動しますか】
来た。
俺は心の中で頷いた。
起動。
【自己暗示:自然治癒促進】
【適合率:42%】
【効果:止血促進・炎症抑制・筋肉修復補助】
【注意:失った血液と体力は戻りません】
【副作用:強い空腹・眠気・疲労】
身体の奥が、じわりと熱を持った。
痛みが消えたわけではない。
むしろ、一瞬だけ傷の存在が強くなった。
背中。
太腿。
腕。
そこに熱が集まり、身体が内側から忙しく動き出すような感覚がある。
「っ……!」
「何をしました」
リーナの声が鋭くなる。
「自己暗示。たぶん、治癒促進です」
「たぶんでやらないでください」
「すみません」
「今、熱が上がっています。痛みは?」
「あります。でも、変な痛みじゃないです。身体が……壊れた道を直してる感じ」
「道を?」
「穴を塞いで、板を渡して、まず通れるようにする。そんな感じです」
完全修理ではない。
でも、通行止めを解除するための応急復旧。
それが一番近かった。
リーナは俺の脈を取り、額に手を当て、傷口を見た。
その顔は真剣だった。
「出血は増えていません。熱は上がっていますが、危険な上がり方ではなさそうです」
「成功ですかね」
「まだわかりません」
「厳しい」
「あなたが自分に甘いので」
返す言葉がない。
身体の熱はしばらく続いた。
そして、そのあと強烈な眠気が来た。
目を開けていられない。
腹も鳴った。
ものすごく腹が減っている。
「……副作用、正直すぎる」
「何か見えたんですか」
「強い空腹、眠気、疲労って出ました」
「では寝てください」
「報告が」
「来たら起こします」
「でも」
リーナが俺の目をまっすぐ見た。
「待つのも仕事なら、休むのも仕事です」
自分が言われたかったのか、言われたくなかったのか、よくわからない正論だった。
反論できない。
「……わかりました」
「あと、起きたら食べてください。治るには材料が必要です」
「身体も荷みたいですね」
「はい。空の荷車は走れません」
うまいことを言う。
俺は少し笑った。
そして、そのまま眠りに落ちた。
◆
起こされたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
作業部屋の灯りは落とされている。
机の上の地図だけが、小さな灯り石で照らされていた。
俺の身体は重い。
だが、妙なことに、痛みの質が変わっていた。
鋭い痛みが少し減り、代わりに重だるさが増している。
疲れている。
腹も減っている。
けれど、身体の芯は少しだけ戻っていた。
「起きられますか」
リーナが聞く。
「たぶん」
「ゆっくりです」
俺は長椅子から身体を起こした。
背中は痛む。
太腿もまだ怖い。
だが、前より動かせる。
ほんの少し。
けれど、確かに違う。
「報告ですか」
「はい。西の古道へ向かった伝令が戻りました」
俺は一気に目が覚めた。
机の前には、マルセルとガルドがいた。
若い伝令もいる。
汗と泥にまみれているが、怪我はなさそうだ。
「急送隊に会えたんですか」
俺が聞くと、伝令は頷いた。
「はい。炭焼き小屋の手前で追いつきました。ラウルさんたちは、指示通り小屋で停止しています」
よし。
まず、渡し場へ突っ込む前に止められた。
「薬草箱は?」
「無事です。馬も疲れはありますが、ニコさんが問題ないと」
「不審者は?」
「渡し場の北岸に、火が見えたそうです。ラウルさんが遠目に確認しました。3人、もしくは4人。武器あり」
部屋の空気が重くなる。
やはりいる。
「札の件は伝えましたか」
「はい。ラウルさんは、夜明けまで動かないと」
「正解です」
夜に渡し場へ向かえば、不審者に先手を取られる。
暗い川。
傷んだ船。
不慣れな渡し。
そこに武器を持つ相手。
最悪だ。
止まる判断ができる人でよかった。
「修理道具と肩紐は?」
「渡しました。トマさんが箱に肩紐をかけられるよう、準備しています」
「よし」
俺は木札に情報を足した。
手が少し震える。
空腹と疲労のせいだ。
だが、頭は動いている。
「北道の伝令は?」
マルセルが答えた。
「まだ戻らん。橋を通るから時間がかかる」
「わかりました」
つまり、北岸集落の支援が得られるかはまだ不明。
朝までに間に合う保証はない。
薬草急送隊は炭焼き小屋で待機。
北岸に不審者。
船は1艘だけ使えるかもしれない。
馬を渡せるかは不明。
どうする。
俺は地図を見た。
西の古渡し。
北岸の番小屋。
その先の集落。
鉱山町。
不審者は北岸にいる。
つまり、渡った直後が危ない。
薬草を渡しても、そこで奪われれば終わりだ。
なら、選択肢は3つ。
1つ。
金を払って通る。
ただし、相手が本当に通す保証はない。
薬草だと気づかれれば、さらに奪われる。
2つ。
戦って排除する。
急送隊は少人数。
地形も相手有利。
危険が大きい。
3つ。
相手を渡し場から動かす。
こちらが渡るのではなく、相手の注意を別へ向ける。
「ガルドさん」
「何だ」
「北岸の小屋にいる連中は、渡し賃目当てですよね」
「おそらくな」
「なら、荷が来るのを待っている。夜明けに、こちらが渡ると思っている」
「そうだろうな」
「逆に言えば、渡し場から離れたくないはずです。そこが金になる場所だから」
ガルドの目が細くなる。
「何を考えている」
「囮です」
マルセルが眉をひそめる。
「囮?」
「空の荷を、渡し場へ向かわせる。本命の薬草とは別に」
「そんな余裕はない」
「人間は増やせません。だから、見せ方だけです」
俺は木札を動かした。
「夜明け前、ラウルさんが遠目から様子を見る。もし不審者が北岸の番小屋にいるなら、まず小舟をこちら岸に引き寄せる必要がありますよね」
「そうだ」
「その時、薬草箱をすぐ渡さない。代わりに、重そうに見せた布袋か空箱を先に船へ載せる。相手が荷に注目するなら、それを見て動くかもしれない」
ガルドが考える。
「相手が船を奪いに来れば?」
「薬草はまだ南岸にある。奪われるのは囮です」
「なるほど」
「その隙に、薬草は肩紐で人が担ぎ、少し上流か下流に移動できませんか。浅くなっている場所があれば、別に渡る」
ガルドは伝令を見る。
「ラウルは浅瀬を知っているか」
伝令は首をかしげた。
「西へ少し行けば、川幅が広がる場所があると言っていました。ただ、馬は厳しいかもしれないと」
「人と箱なら?」
「水量次第だと」
水量。
雨は降っていない。
なら可能性はある。
だが危険だ。
薬草を濡らせば終わる。
人が転べば流される。
俺は考えた。
「浅瀬案は、最終手段です。まずは北岸の支援を待つ。集落から人が出れば、不審者も強気に出にくい。もし支援が間に合わないなら、囮で相手の動きを見る」
「戦う判断は?」
ガルドが聞く。
「現場のラウルさんとトマさんに任せます。こっちから戦えとは言わない。荷を届けるのが目的です」
「よし」
ガルドは頷いた。
「伝令をもう一度出す。今の指示を持たせる」
マルセルが渋い顔をする。
「伝令を出しすぎると、人が減る」
「でも、情報がないまま薬草隊が動く方が危ないです」
俺は言った。
「それに、この指示は細かすぎる。口頭だけでは危ない。木札に書いて持たせます」
リーナがすぐに筆を取った。
「私が書きます。内容を言ってください」
「お願いします」
俺は一つずつ伝えた。
渡し場へ突入しない。
夜明け前に偵察。
北岸支援が来るまで可能なら待つ。
不審者が動く場合、囮荷で反応を見る。
薬草箱は最後まで隠す。
戦闘判断は現場優先。
目的は、敵を倒すことではなく、薬草を鉱山町へ届かせること。
リーナは無駄なく書いていく。
その字は綺麗だった。
俺のぎこちない文字より、ずっと読みやすい。
リーナは書き終えると、木札を俺に見せた。
「これでいいですか」
「完璧です」
「では、あなたは少し食べてください」
「今?」
「今です。顔色が悪くなっています」
そう言われて、腹が鳴った。
かなり大きく。
部屋の空気が一瞬だけ緩む。
マルセルが笑いを堪えた。
「自然治癒促進とやらは、飯代がかかりそうだな」
「日当上げてください」
「まだ早い」
「厳しい」
だが、食事はすぐに用意された。
固いパン。
薄いスープ。
干し肉を細かくしたもの。
豪華ではない。
だが、今の俺にはごちそうだった。
身体が材料を欲しがっているのがわかる。
食べながら、俺は地図を睨む。
薬草急送隊は止まった。
止めたからこそ、次の手が打てた。
走り続けるだけが正解ではない。
止まるべきところで止まる。
確認する。
修正する。
そして、また動く。
それは俺自身の身体も同じだった。
無理に走れば壊れる。
だが、止まりすぎれば届かない。
必要なのは、身体の声を聞きながら進むこと。
俺は俺自身を、目的地まで運ばなければならない。
◆
伝令が再び出ていった後、俺は少しだけ立ってみた。
リーナがものすごく嫌そうな顔をしたが、止めはしなかった。
「数歩だけです」
「はい」
「痛みが強くなったら座ってください」
「はい」
俺は机に手をつき、ゆっくり立ち上がった。
背中に痛み。
太腿に重さ。
だが、昨日より足に力が入る。
1歩。
2歩。
3歩。
部屋の端まで、ゆっくり歩いた。
杖なしでは危ない。
走るなど論外。
戦闘なんてもってのほか。
それでも。
歩けた。
「……よし」
小さく呟く。
それだけで、胸の奥が熱くなった。
リーナは険しい顔のまま、少しだけ息を吐いた。
「歩けますね」
「はい」
「でも、治ったわけではありません」
「わかってます」
「わかっている人の顔ではありません」
「ちょっと嬉しかっただけです」
「それは……まあ、いいです」
珍しく許された。
俺は椅子に戻りながら、深く息を吐いた。
身体はまだ荷だ。
壊れやすい荷。
だが、梱包し、補強し、休ませ、必要な時だけ動かせば、運べる。
俺自身も、運び手である前に、運ばれる荷なのだ。
そう思った瞬間、頭の奥に表示が浮かんだ。
【自己暗示:自然治癒促進】
【状態:安定】
【行動制限:長距離歩行不可・戦闘不可・過負荷禁止】
【推奨:栄養補給・睡眠・段階的運動】
【役割固定:運び手】
【補足:自身の身体管理も、運び手の役割に含まれます】
説教くさい。
でも、正しい。
「自分の身体も荷扱いか」
俺が呟くと、ガルドが腕を組んだ。
「いい考えだ。壊したくない荷なら、雑には扱わん」
「俺、高価な荷ですかね」
「今のところ、扱いに困る荷だ」
「評価が渋い」
「高価かどうかは、薬草が届いてからだ」
たしかに。
俺の値札は、まだ仮だ。
初仕事は、まだ終わっていない。
夜はさらに深くなっていく。
急送隊は炭焼き小屋で待機。
伝令は再び道へ。
北岸の支援は未確定。
不審者は番小屋にいる。
薬草はまだ届いていない。
でも、状況は止まっていない。
動いている。
俺の身体も、少しずつ動き始めている。
なら、まだ戦える。
剣ではなく。
魔法でもなく。
段取りと、治りかけの身体で。
俺は木札を1枚取り、そこに新しく書いた。
――目的は、薬草を使える状態で届けること。
その下に、もう1行。
――俺自身も、使える状態で残すこと。
リーナがそれを見て、小さく頷いた。
「それを忘れないでください」
「忘れたら怒ってください」
「すでにそのつもりです」
「頼もしい」
俺は笑った。
今度は、背中の痛みは少しだけましだった。
窓の外では、領都の夜が静かに沈んでいる。
だが、道の上ではまだ人が走っている。
荷が動いている。
命が待っている。
俺はその全部を、ここから追いかける。
走れないなら、道を作る。
治っていないなら、治しながら進む。
信じ込めた力だけが、俺の武器になる。
なら今は、こう信じる。
俺は治る。
俺は動けるようになる。
そして、俺はこの荷を届かせる。
夜明けまで、あと少し。
最初の急ぎ便は、まだ道の途中にある。
第8話─了




