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自己暗示の異世界無双 〜信じ込めた力だけが、俺の武器になる〜  作者: あちゅ和尚


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第39話 紙の道を逆に流す

 名紙箱は、朝から机の横に置かれていた。


 ただの木箱だ。


 蓋がある。


 横に赤黒の線が引かれている。


 そこに、セリアの字で短く書かれていた。


 名紙は重い。


 名前のある紙は、廃紙にしない。


 患者名。


 家族名。


 支援者名。


 薬師名。


 それらが書かれた紙は、すべてこの箱へ入れる。


 墨で潰すか、裂くか、燃やすか。


 処分前に、必ず2人で確認する。


 昨日、偽の薬順名簿が西市場に貼られた。


 その紙には、ミラ、ラダ、ミナの名があった。


 正式な患者記録を盗まれたわけではない。


 家族確認札や青札、脅しに使われた名前が、書き損じや練習紙から拾われていた。


 廃紙の道。


 俺たちは、そこを見落としていた。


 名前のある紙を、軽い紙屑として扱った。


 欠け指は、そこを拾った。


 だから名紙箱を作った。


 ただ、それで終わりではない。


 守るだけなら、道は閉じる。


 閉じた道の外で、欠け指は別の道を探す。


 なら、今日は逆に流す。


 俺は作業部屋の机に、白紙を数枚置いた。


 セリア、マルセル、リーナ、ノルが見ている。


 ガルドは扉近くで腕を組んでいた。


「餌紙を作ります」


 俺が言うと、マルセルが眉を上げた。


「餌?」


「本物の名前は使いません。存在しない名前だけを書いた紙です。それを、廃紙に見せかけて流す」


 セリアの目が少し鋭くなった。


「欠け指側が拾えば、偽名簿か偽札にその名前が出る」


「はい。そうすれば、どの廃紙の道が使われているか見える」


 ノルが不安そうに聞いた。


「でも、それを拾う紙屑の子は?」


「危ないことはさせません。紙屑をいつもの通り渡してもらうだけ。追跡はギルドと領兵がやる。子どもに尾行はさせない」


 そこは絶対に間違えない。


 人は荷じゃない。


 紙屑拾いの子どもを、危険な餌にしない。


 危険を背負わせるなら、欠け指と同じになる。


 マルセルが帳面を開いた。


「餌紙の中身は?」


「偽の家族確認札の練習紙に見せます。名前は全部架空。場所も架空。ただし、1つだけ特徴を入れる」


「特徴?」


 俺はセリアを見る。


「同じ名前を、わざと珍しい字形で書けますか」


「できます」


「あと、紙の端に小さな切り込みを2つ。ぱっと見ではただの破れに見える程度で」


「できます」


 セリアは即答した。


「さらに、墨に少しだけ香草粉を混ぜます。匂いは強くなくていい。紙漉き職人や薬師なら気づく程度」


 リーナが頷く。


「害のないものなら、セイラ葉の粉をほんの少し混ぜられます。乾くと、紙を温めた時だけ薄く香ります」


「それでお願いします」


 ガルドが口を開いた。


「紙を追うなら、紙屑拾いから先を押さえる。昨日の少年を使うのか」


「本人が嫌がれば使いません」


 俺は答えた。


「もし協力してくれるなら、いつも通り紙を売ってもらうだけです。尾けるのはガルドさんたち。少年には、売った後すぐギルドへ戻ってもらう」


「いいだろう」


 ガルドは短く頷いた。


 俺は戻り札に触れた。


 自分が今、少し危ない道を考えている自覚がある。


 相手を引っかけるために、餌を流す。


 作戦としては正しい。


 だが、人を餌にするな。


 使うのは紙だけだ。


 そこを間違えるな。


【自己確認行動を検知】


【自己固定率:96%】


 大丈夫。


 まだ俺だ。


     ◆


 餌紙の名前を考える時、俺は少し迷った。


 あまり適当すぎると、欠け指側に見抜かれる。


 逆に本物に近すぎると、誰かを傷つける。


 だから、存在しそうだが、今の北道関係にはない名前にする。


 カイラ。


 ロッド。


 ミルノ。


 サナに似た名前は避けた。


 ノルやミナに似た名前も避けた。


 地名も架空にした。


 東井戸裏。


 旧羊小屋横。


 北畑二番。


 実在しそうで、実際にはない。


 セリアはそれを、わざと練習紙のように何度も書いた。


 字形を少し崩し、ところどころ墨をかすれさせる。


 その紙を一度くしゃりと丸め、広げる。


 端に小さな切り込みを2つ。


 さらに、別の本物の廃紙を何枚か混ぜる。


 もちろん、本物の名前がないものだけだ。


 破れた依頼札。


 古い数え札。


 荷縄の長さを書いた紙。


 そこに餌紙を紛れ込ませる。


 見た目はただの紙屑だ。


 だが、こちらにはわかる。


 切り込み。


 珍しい字形。


 セイラ葉の薄い匂い。


 餌紙だ。


 セリアが紙束を見て、静かに言った。


「嫌な気分ですね」


「はい」


「名前を餌にするのは」


「本物ではありません。それでも、少し嫌です」


「その嫌さは、残しておきましょう」


 セリアの言葉に、俺は頷いた。


 そうだ。


 嫌だと思えるなら、まだ線を越えていない。


 これを何とも思わなくなれば、欠け指に近づく。


 紙屑拾いの少年は、ピトという名だった。


 昨日、紙を青い袖紐の女に売った少年だ。


 ガルドに連れられて作業部屋へ来た時、ひどく怯えていた。


 自分が悪いことをしたと思っている顔だった。


 俺は椅子から彼に言った。


「怒るために呼んだんじゃありません」


 ピトは小さく頷いたが、目はまだ泳いでいる。


「昨日の紙は、名前が書かれていました。だから悪用されました。でも、あなたは中身を知らなかった」


「……紙を売っただけだ」


「はい。だから、これからは名前がある紙を見つけたら、ギルドへ持ってきてください。買います」


 ピトが驚いた顔をした。


「買うのか?」


「買います。ただし、名前がある紙は紙漉き職人や知らない人に売らない。ギルドへ」


「高く買ってくれる?」


 マルセルが横で渋い顔をした。


「普通の紙屑より少しだけだ」


「少しだけか」


「少しだけだ。大金だと、お前が危なくなる」


 ピトは少し考え、頷いた。


 子どもは現実的だ。


 大金が危ないことも、たぶん知っている。


 俺は餌紙の入った紙束を見せた。


「今日は、いつも通り紙屑を売ってください。ただし、売った後はすぐギルドへ戻ること。後を追わない。誰かに話しかけられても、何も知らないと言う」


「何も知らない」


「そう。本当に知らなくていい」


 ピトは紙束を受け取った。


 その手は少し震えている。


 ノルが横から言った。


「終わったら飯券あるぞ」


 ピトの目が少しだけ明るくなった。


「本当か」


「本当や。でも寄り道すんな」


「しない」


 そのやり取りを見て、俺は少し息を吐いた。


 ノルが子どもに声をかける側に回っている。


 前は彼自身が危険荷に釣られていたのに。


 人は変わる。


 戻る道があれば。


     ◆


 ピトは、いつもの紙屑回収の道へ出た。


 もちろん、ガルドたちが距離を置いて見ている。


 ピト本人には尾行させない。


 彼はただ紙を売るだけだ。


 紙屑は、最初に紙漉き職人へ持ち込まれた。


 だが、そこでは全部を買わなかった。


 混じっている紙の一部を、いつものように燃料屋へ回せと言われた。


 ここまでは普通。


 次に燃料屋。


 ここで動いた。


 燃料屋の裏口に、青い袖紐の女が現れた。


 サナかどうかはまだ不明。


 彼女は燃料屋から紙束の一部だけを買い取った。


 その中に、餌紙が入っていた。


 ピトは言われた通り、売った後すぐギルドへ戻った。


 飯券を握りしめ、ノルに「寄り道してへん」と報告したらしい。


 よし。


 子どもは道から外した。


 ここから先は、大人の仕事だ。


 ガルドは青い袖紐の女を追わなかった。


 追えば、また撒かれる。


 代わりに、燃料屋の裏手から伸びる道を見た。


 女は南水路へは行かない。


 職人通りでもない。


 彼女が向かったのは、旧印刷所だった。


 印刷所、と言っても大きなものではない。


 木版で商店札や祭りの貼り紙を刷っていた小さな工房だ。


 今はほとんど使われていない。


 だが、偽名簿を何枚も作るには向いている。


 紙を切り、同じ見出しを写し、印らしきものを押す場所。


 俺は報告を聞いて、地図に札を置いた。


「乾物倉は中継点。旧印刷所が作業場」


 セリアが頷く。


「偽名簿の刷りかけが乾物倉にあったのは、作った後の保管か移動途中だった」


「はい。作る場所は別にあった」


 ガルドへの指示は、すでに出ている。


 すぐ踏み込まない。


 出入りを見る。


 紙が入る。


 何が出るか。


 誰が受け取るか。


 道を見ろ。


 しばらくして、旧印刷所から小さな束が出た。


 運び手は、片目に布を巻いた男。


 青い袖紐はない。


 黒い輪も見えない。


 だが、紙束を持つ手つきが慣れている。


 男は紙束を、西市場ではなく東門方面へ運ぼうとした。


 東門。


 今まで少なかった方向だ。


「広げる気ですね」


 俺は言った。


「西市場だけじゃなく、東側にも偽名簿を貼るつもりです」


 マルセルが顔をしかめる。


「領都全体に広げられると厄介だ」


「ここで押さえましょう」


 ガルドへ伝令を出す。


 紙束を持った男を、東門へ出る前に止める。


 ただし、群衆の前ではなく路地で。


 紙束を確保。


 男が騒げば、紙をばらまかれる。


 だから、紙を先に押さえる。


 ガルドは短く実行した。


 片目の男は捕まった。


 紙束も確保。


 そこには、餌紙の名前が混じった新しい偽名簿があった。


 カイラ。


 ロッド。


 ミルノ。


 存在しない名が、薬順に並んでいる。


 餌は食われた。


 そして、道は見えた。


     ◆


 旧印刷所へ踏み込んだのは、夕方前だった。


 ガルドと領兵が入った時、中には2人いた。


 1人は版木を削っていた男。


 もう1人は、青い袖紐の女。


 女は逃げた。


 窓から裏の水路へ飛び降り、あらかじめ用意していた小舟へ乗ったらしい。


 サナかどうかは、まだ確定しない。


 だが、動きはサナに近い。


 版木の男は捕まった。


 彼は欠け指本人を知らないと言った。


 いつものことだ。


 ただし、版木と紙は残っていた。


 薬師印に似せた印。


 ギルド印に似せた印。


 黒い輪の印。


 そして、切れた鎖。


 それらが並んでいた。


 さらに、机の下から木片が出た。


 黒い輪。


 切れた鎖。


 文字。


 名を守るなら、名を増やせ。


 偽の名が真の名を押し流す。


 俺はその言葉を読んで、嫌な感心を覚えた。


 欠け指は、こちらが名前を守ろうとすると読んでいた。


 だから、偽名も混ぜる。


 本物の名前と偽物の名前を混ぜれば、確認の手間が増える。


 家族は混乱する。


 ギルドは疲弊する。


 名紙箱があっても、偽名の山で潰すことができる。


 だが、今回は餌紙のおかげで旧印刷所までたどれた。


 向こうの手を、こちらの手に変えられた。


「勝ちです」


 俺は言った。


 マルセルが少し笑う。


「最近、逃がしても勝ちと言うようになったな」


「全部捕まえるまでは負け、と考えると動けなくなります」


「商人向きの考え方だ」


「運び手です」


 いつもの返しをすると、マルセルは鼻を鳴らした。


     ◆


 旧印刷所の押収品は、商人ギルドへ運ばれた。


 版木。


 偽印。


 紙束。


 刷りかけの偽名簿。


 そして、餌紙。


 セイラ葉の匂いは、リーナが確認した。


 紙の端の切り込みも一致。


 字形もセリアの餌字と一致。


 証拠としては十分だ。


 問題は、これをどう出すか。


 全部を見せれば、欠け指側に手の内が漏れる。


 隠しすぎれば、また噂になる。


 俺は考えた。


「掲示には、旧印刷所を摘発したことだけ出します」


 セリアが筆を取る。


「偽名簿の作成場所を確認。偽印を押収。薬師・ギルドの名簿ではない、と」


「はい。餌紙やセイラ葉のことは内部記録だけ」


 リーナが頷く。


「匂いの仕掛けは、まだ使えます」


「名紙箱と廃紙処分の決まりは公開しましょう」


「なぜですか」


 マルセルが聞く。


「名前を雑に捨てないと見せるためです。今日の偽名簿で不安になった人に、対策が見える」


「なるほどな」


 セリアが短い掲示文を作る。


 偽名簿は旧印刷所で作られたもの。


 薬師とギルドの正式名簿ではない。


 名前のある紙は、今後名紙箱で管理し、処分前に潰す。


 偽名簿を見た者は、走らず確認へ。


 責めるためではなく、止めるために。


 いつもの言葉が最後に入る。


 もう合言葉になりつつある。


 悪くない。


     ◆


 掲示を出すと、人々の反応は昨日より落ち着いていた。


 旧印刷所で偽名簿が作られていた。


 それが見えたからだ。


 偽名簿は、どこか見えない薬師の奥から出たものではない。


 紙と版木と偽印で作られたもの。


 そう見えるだけで、少し冷静になれる。


 ノルは掲示板の横で、ピトと話していた。


「名前のある紙は、ギルドへ。紙屑屋に売るな。飯券が出る」


「毎回?」


「毎回ではない。変な紙だけや」


「変な紙って?」


「名前がある紙や。人の名前」


 ピトは真剣に頷いた。


 子どもにも、少しずつルールを渡す。


 ただし、背負わせすぎない。


 名前のある紙を見つけたら持ってくる。


 それだけでいい。


 オルノも来ていた。


「偽名簿、また俺の叔母の名前があったら教えてくれ」


「確認します」


「俺も桶屋通りに言っとく。変な紙貼ってあったら剥がさず呼べって」


「助かります」


 人が道の見張りになり始めている。


 ギルド職員だけでは届かない場所を、街の人が見る。


 もちろん、危険はある。


 だから、無理に剥がすな。


 追うな。


 見つけたら知らせる。


 ここも徹底する必要がある。


     ◆


 夜になって、ガルドが戻った。


 青い袖紐の女は逃げた。


 だが、版木の男の供述から、新しい言葉が出た。


「サナ」


 ガルドが言う。


「版木の男は、青い袖紐の女をサナと呼んでいた」


 ようやく確定した。


 サナ。


 黄色い布の女。


 青い袖紐の女。


 欠け指の言葉を運ぶ役。


 そして、偽名簿や偽札の現場に現れる中継者。


「サナは欠け指の近くにいますね」


「ああ。かなり近い」


「捕まえれば、欠け指へ届く」


「だが、逃げ足が速い。水路も裏道も知っている」


 俺は地図を見る。


 南水路。


 西市場。


 職人通り。


 水車小屋。


 旧印刷所。


 乾物倉。


 サナが動いた線。


 線は、領都の中で一つの輪を描き始めている。


 黒い輪。


 切れた鎖。


 欠け指の印。


 その印と同じように、彼らの道も輪になっているのかもしれない。


「次は、サナの輪を切ります」


 俺は言った。


 ガルドが口元を上げる。


「攻めるか」


「追いかけるんじゃありません。輪の結び目を一つ押さえます」


「どこだ」


 俺はまだ答えなかった。


 答えは見えかけている。


 だが、確信には少し足りない。


 水路。


 紙。


 染料。


 偽印。


 薬瓶。


 靴。


 喉薬。


 それらが交わる場所。


 たぶん、そこがサナの輪の結び目だ。


 欠け指本人の前に、サナを押さえる。


 次の段階へ入る時が来ている。


     ◆


 下宿へ戻ると、俺はベッドに座り、戻り札を手に取った。


 今日は少しだけ、勝った実感があった。


 偽名簿に振り回されるだけではなく、餌紙で道を逆にたどった。


 旧印刷所を押さえた。


 偽印と版木を回収した。


 サナの名も確定した。


 それは大きい。


 ただ、頭は重い。


 文書経路解析を何度も使った。


 低出力でも、積み重なると疲れる。


 俺は札を読む。


「俺はアスト。役割は運び手。戦闘も推理も解析も目的じゃない。道を守る手段。情報も荷。善意も荷。礼も荷。人は荷じゃない。患者の名は重い荷。名は奪うものじゃない。使ったら戻る」


【戻り札:有効】


【自己固定率:96%】


【文書経路解析残滓:低下】


【状態:疲労大・安定】


 安定。


 その表示を見て、目を閉じる。


 紙の道を、今日は逆に流した。


 捨てたはずの紙が、偽名簿になる。


 なら、こちらが流した紙も、相手の道を照らす。


 道は、必ず両方向にある。


 運ぶ道は、たどる道にもなる。


 欠け指は、人の名を奪って運ぼうとした。


 こちらは、偽の名を流して、奪う手を見た。


 嫌な作戦だった。


 でも、必要だった。


 その嫌さを忘れずにいれば、まだ戻れる。


 信じ込めた力だけが、俺の武器になる。


 なら今夜は、こう信じる。


 俺は、紙の道も逆に読める。


 奪われるだけでは終わらない。


 流された道を、こちらからたどり返せる。


 次はサナ。


 欠け指の輪を、ひとつ切る。


第39話─了

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