後編「約束」
建物の裏側へ回り込んだ瞬間、僕は足を止めた。
「…………」
そこに、人が倒れていた。
見覚えのある、薄汚れた外套。
小柄な身体。
そして、腰に差された一本の剣。
「……サルジ、さん?」
返事はなかった。
当然だった。
サルジは、もう二度と返事のできない姿になっていたのだから。
首から胸元にかけて、四本の深い傷が刻まれていた。
まるで巨大な獣の爪で引き裂かれたかのような、恐ろしい傷だった。
彼は仰向けに倒れ、見開いた目を虚空へ向けている。
上半身の周囲には大量の血が広がり、石畳の隙間まで赤黒く染めていた。
「……ああ、なんてことだ……!」
背後でレイが呻いた。
彼はよろめくように後退し、建物の壁に手をついた。
「そんな……サルジさんまで……!」
僕は、何も言わなかった。
ただ、サルジのもとへ歩み寄った。
昨日彼は、僕にこう言っていた。
この仕事には裏がある。
ドラゴンなんかより、もっと恐ろしいものが潜んでいるかもしれない。
あの時は、そんなことを言われたせいで、ずいぶん怖い思いをしたものだ。
そして今。
その本人が、目の前で死んでいる。
「……サルジさん」
僕は、そっと膝をついた。
怖くないわけではなかった。
ボルドの最期を見た時と同じように、胃の奥が重くなり、指先が冷たくなる。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
確かめなければならないことがあったからだ。
サルジの傷は、首元から胸に向かって四本、ほぼ均等な間隔で並んでいた。
傷の深さにも、大きな違いは見られない。
右手は左腰の剣に伸ばされたまま、固まっている。
しかし、剣は鞘から抜かれていなかった。
……不意を突かれたのだろうか。
それとも。
「……見てください、ロイドさん」
背後でレイが震える声を上げた。
「あの傷……あんなもの、人間につけられるはずがありません……!」
僕は答えなかった。
「やはり、そうだったんです……!」
レイは頭を抱え、地面に崩れ落ちた。
「ドラゴンが……本当に、この山にいるんですよ!」
彼は怯えたように僕を見上げた。
「このままでは、私たちまで殺されてしまう……!」
「…………」
僕はゆっくりと立ち上がった。
そして、レイの方へ歩み寄った。
その男は、相変わらず地面にうずくまっていた。
最初に会った時の、あの冷静で知的な姿からは想像もできないほど、取り乱している。
……そう。
あまりにも、取り乱していた。
僕は一度、深く息を吸った。
そして。
腰から、剣を抜いた。
鋼の刃が、朝の薄い光を受けて鈍く輝く。
その切っ先を、目の前の男へ向けた。
「……え?」
レイが顔を上げた。
「ロ、ロイドさん?」
僕は答えなかった。
「……何の、冗談ですか?」
その声が、わずかに強張っている。
「こんな時に、悪ふざけはやめてくださいよ……」
「……レイさん」
僕は静かに口を開いた。
「あなたが、二人を殺したんですよね」
風が吹いた。
石壁の隙間を抜ける風が、僕たちの間を通り過ぎていく。
レイは、しばらく呆然と僕を見つめていた。
「……は?」
信じられない、と言いたげな表情を浮かべていた。
「何を……何を言っているんですか、ロイドさん!」
彼は声を荒らげた。
「あなたも見たでしょう!? ボルドさんが炎に包まれていたのを!」
「……はい」
「そして、サルジさんの遺体も! こんな傷を人間がつけられるとでも思っているんですか!?」
僕は剣を下ろさなかった。
「思っています」
「……なっ!」
「僕は、ボルドさんが亡くなった時から、ずっと考えていたんです」
目の前の男を見据えたまま、僕は続けた。
「これは本当に、ドラゴンの仕業なんだろうかって」
「…………」
「…………ロイド、説明していただけますか?」
レイの声が、少しだけ低くなった。
先ほどまでの取り乱した様子とはまるで違う。
僕はその変化を感じ取りながら、話を続けた。
「まず、ボルドさんのことです」
あの凄まじい炎。
何度水を浴びせても、なかなか弱まらなかった火柱。
そして、燃え尽きた仲間の姿。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
けれど、僕は言葉を止めなかった。
「ボルドさんが亡くなったあと、僕が一人で現場を調べたことを覚えていますよね?」
「……ええ」
「あの時、気になるものを見つけたんです」
僕は空いている方の手を、外套のポケットへ入れた。
取り出したのは、小さな布切れに包んでおいた灰だった。
その中には、黒く焦げた植物の繊維が残されている。
「……これです」
レイは眉をひそめた。
「ただの灰、ですか?」
「はい。燃えた植物の残骸だと思われます」
「……はっ! それが何だと言うんです?」
彼は鼻で笑った。
「あの辺りには植物なんていくらでもあったでしょう。燃え残っていたとしても、不思議ではありませんよ」
「もちろん、それだけなら僕も気にしませんでしたよ」
僕は手元の灰を見つめた。
「でも、これは炎の中心から少し離れた場所に、まとまって残されていたんです」
「…………」
「枯れ草や植物の繊維を束ねたものが、燃え尽きたように見えました」
僕は顔を上げた。
「だから、火をつけるために用意されたものだったんじゃないかと思ったのです」
レイの眉が、わずかに動いた。
ほんの一瞬だった。
しかし、僕はそれを見逃さなかった。
「……なるほど」
彼はゆっくりと頷いた。
「ですが、仮にそれが火種だったとしても、あれほどの炎を起こせるとは思えませんね」
「はい。その通りです」
「それに、あなた自身が現場を調べたのでしょう? 大量の油や燃料が使われた痕跡など、見つかりましたか?」
「……いいえ」
「でしょう?」
レイは、少しだけ余裕を取り戻したように微笑んだ。
「火種だけで人間があれほど激しく燃えるはずがありません。やはり、あれは普通の火では――」
「でも、燃料はあったんですよ」
僕は彼の言葉を遮った。
「……何ですって?」
「酒ですよ」
レイの表情が止まった。
「……酒?」
「はい。正確には、アルコールです」
僕は続けた。
「あの日、ボルドさんは身体を洗おうとして、樽を持っていったんですよね?」
「……ええ」
「あなたは、それが水の入った樽だったと説明しました」
「そうですよ。それが何か?」
「もし、その中身が水ではなかったとしたら?」
レイは黙り込んだ。
「もし、あの樽に入っていたのが、燃えやすいほど純度の高いアルコールだったとしたら……」
僕は緊張で乾いている喉を鳴らした。
「ボルドさんは、何も知らずにそれを身体へ浴びてしまったかもしれません」
そう、あの人なら。
頭が痛い、身体を洗うと言いながら、樽の中身を確かめもせず使ってしまいそうだった。
そして、酒の匂いにも慣れていたはずだ。
「その直後に、火のついたものを投げ込まれたら……」
僕は、言葉を切った。
「少なくとも、あれが人間の仕業だった可能性は出てきます」
もちろん、それだけであの炎のすべてを説明できるわけではない。
燃料の量も、火の広がり方も、僕には正確には分からない。
けれど、重要なのはそこではなかった。
「……レイさん」
僕は剣を握り直した。
「食料や水、酒の管理を引き受けたのは、あなたでしたよね」
「…………」
「僕たちは、あなたに全部任せていました。樽の配置も、中身も」
「それが、私を疑う理由だと?」
「それだけじゃありません」
僕は首を振った。
「昨夜、見張りをしていた時に、備蓄の樽を確認したんです」
レイの表情から、少しずつ不敵な笑みが消えていった。
「最初の夜、あなたはボルドさんにこう言いましたよね」
僕は、一言ずつ確かめるように続けた。
「酒は、右から三番目と四番目の樽にある、と」
「……ええ」
「でも、三番目の樽には水が入っていました」
「…………」
「ほかの樽も確認しました。けれど、酒の樽が移されているわけでもなかった」
僕は唇を噛んだ。
「一本分の酒が、丸ごとなくなっていたんです」
「……ボルドさんが飲んだのでしょう」
「二日で樽一本分を、ですか?」
「彼なら、あり得なくもないでしょう?」
「……そうかもしれません」
僕は小さく頷いた。
「でも、もうひとつ気になることがありました」
レイは黙っていた。
「残されていた酒を、少しだけ口にしてみたんです」
僕はその時を思い出していた。
舌を刺すような、強烈な刺激。
喉の奥が焼けるような感覚。
普通の飲用酒とは、明らかに違っていた。
「僕が知っている酒より、ずっと強いものでした。普通に飲むためのものとは思えないほどに」
「……酒の種類が違っただけでは?」
「ええ。そういう可能性もあります」
僕は答えた。
「だから、僕は樽のことだけで、あなたが犯人だとは決めつけませんでした」
そう言いながらも、僕は少しだけ剣先を上げた。
「でも、少なくとも、ボルドさんの死には人間が関わっているかもしれない。そう考える理由にはなったんです」
レイは、しばらく何も言わなかった。
やがて、口元を歪めた。
「……実に、興味深い推理ですね」
先ほどまでの怯えた声ではなかった。
冷たく、落ち着いた声だった。
「ですが、ロイドさん」
彼はゆっくりと視線を上げた。
「サルジさんは、どう説明するんです?」
「見てくださいよ、彼の有様を」
レイは、少し離れた場所に横たわるサルジの遺体を指差した。
「あの傷を。あれほど巨大な爪痕を、人間がつけられるとでも?」
僕は、再びサルジの方を見た。
首から胸にかけて刻まれた、四本の傷。
その姿を目にすると、胸が痛んだ。
けれど、目を逸らすわけにはいかなかった。
「……あの傷には、不自然なところがあるんです」
「不自然ですって?」
「はい」
僕は続けた。
「四本の傷は、ほとんど同じ間隔で並んでいました。それに、深さや幅もよく似ていたんです」
「だから? 何だと言うんです?」
「もし巨大な獣が一度に爪を振るったのなら、爪の長さや指の位置、身体の動きによって、傷のつき方に多少の違いが出てもおかしくないはずです」
僕はサルジの傷を思い浮かべた。
「でも、あの四本は、まるで同じ刃物を使ったかのようによく似ていた」
「……そんなこと、分からないでしょう」
「ええ。実際にドラゴンの爪を見たわけではありませんから、断定はできません」
僕は頷いた。
「それでも、人間には絶対につけられない傷だとも言えないはずです」
「……ふん」
レイは不愉快そうに鼻を鳴らした。
「では、あなたは人間があの四本の傷をつけたと言うんですか? 一度の攻撃で?」
「いいえ」
僕は首を横に振った。
「一度につける必要なんて、ないじゃないですか」
「……何?」
「サルジさんは、剣を抜いていませんでした」
僕は彼の遺体に目を向けた。
「右手は剣に触れていたのに、鞘から抜かれていなかったんです」
僕の声が、自然と低くなった。
「きっと、不意を突かれたんだと思います」
「…………」
「最初に首を斬られて、抵抗もできなくなった。そして、その後で残りの傷をつけられたのだとしたら……」
僕は言葉を切った。
「まるで巨大な獣に襲われたように、見せかけることもできるはずです」
レイは、わずかに唇を噛んだ。
すでに余裕を含んだ冷たい表情には、あからさまな陰りが見え始めている。
「……しかし!」
彼は声を荒らげた。
「ここまで来る途中、サルジさん以外の足跡は見つからなかったでしょう!」
「……そうですね」
「ならば、犯人はどうやってここへ来たと言うんです? 空でも飛んできたと?」
僕は静かに答えた。
「足跡が見つからなかったことと、ほかの人間が通らなかったことは、同じではありません」
「……何ですって?」
「この辺りは乾燥していて、足跡が残りにくい場所も多いです。しかも、地面は石畳や枯れ葉に覆われています」
僕は足元を見た。
「犯人が慎重に道を選んで歩いたのなら、痕跡はわずかしか残らないかもしれません。足跡を消した可能性だってあります」
「……随分と都合のいい話ですね」
「そうかもしれません」
僕は否定しなかった。
「靴を履き替えたという可能性もありますが、そこまでは確かめられていません」
そして、レイを真っ直ぐに見た。
「でも、あなたが僕に言ったことを覚えていますか?」
「……何を?」
「サルジさんがいなくなった夜、あなたは一人で野営地の周囲を探していたと言いました」
レイの目が、わずかに細くなった。
「……それが?」
「その間、あなたがどこにいたのか、僕には分かりません」
「…………」
「サルジさんが見張りをしている時間も、僕は眠っていました」
僕は、剣を握る手に力を込めた。
「ボルドさんが殺された時も、サルジさんがいなくなった時も、あなたは自由に動ける立場にいたんです」
もちろん、それだけで犯人だと証明できるわけではない。
食料の管理、消えた酒樽。
人間の手でもつけられそうな綺麗な傷。
そして、事件が起きた時の裏の取れない行動。
一つひとつは小さな疑問かもしれない。
だがそれらが重なった時、僕にはどうしても無視できないほどの強い疑いが生まれていた。
「……レイさん」
僕は静かに問いかけた。
「あなたは、どうしてサルジさんの死を、すぐにドラゴンの仕業だと言い切ったんですか?」
「…………」
「ボルドさんの時だってそうです。僕たちはドラゴンを一度も見ていないのに、あなたは最初から、その可能性ばかりを口にしていた」
レイは答えなかった。
「……教えてください」
僕は、胸の奥に込み上げる感情を抑えながら言った。
「あなたが犯人でないのなら、僕たちの知らない何かを教えてください」
本当は、信じたかった。
あの馬車の中で、僕を庇ってくれた人だった。
ボルドとの間の仲裁に入った時、僕に礼を言ってくれた人だった。
僕のことを、まともな人間だと言ってくれた。
仲間だと、認めてくれた。
……だからこそ、間違いであってほしかった。
レイは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「……まったく」
そして。
ゆっくりと、笑った。
「どうして、あの時もっと長く眠っていてくれなかったんですか?」
「……え?」
その声は、あまりにも穏やかだった。
レイの口元には笑みが浮かんでいた。
しかし、それは僕の知っている彼の笑顔ではなかった。
冷たく、歪んだ、見知らぬ残忍な男の笑顔だった。
「もう少し素直に寝ていてくれれば、余計なことを知らずに済んだものを」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
「そうすれば、せめて苦しまずに死なせてあげられたんですけどね」
「…………!」
僕は反射的に一歩下がった。
次の瞬間。
ギィンッ!
鋭い金属音が響いた。
レイが瞬きする間に抜いた剣を、僕はかろうじて受け止めていた。
「くっ……!」
重い。
細身のレイの身体からは想像できないほど、強烈な斬撃だった。
「……なるほど」
レイは、口元を吊り上げた。
「意外とやりますね」
「レイさん……!」
僕は剣を押し返し、後方へ飛び退いた。
彼はゆっくりと剣を構え直した。
その姿を見て、僕はようやく理解した。
目の前にいるのは、あの物腰の柔らかな元参謀ではない。
人を殺すことに、ためらいのない男だった。
「まったく、計算違いでしたよ」
レイが吐き捨てる。
「一番間抜けそうなあなたが、ここまで余計なことに気づくとは」
「……やっぱり、あなたが!!」
「ええ、そうですよ」
彼はあまりにもあっさりと認めた。
「ボルドも、サルジも、私が殺しました」
僕の胸が、強く締めつけられた。
分かっていた。
その可能性が高いことは、分かっていたはずなのに。
実際に本人の口から聞かされると、どうしようもなく苦しかった。
「……どうして」
僕は震える声で尋ねた。
「どうして、あの二人を……!」
「それが私の仕事だからですよ」
レイは笑った。
「それ以上の理由が必要ですか?」
直後、彼の剣が横薙ぎに迫った。
「っ!」
僕は身体を捻ってかわし、反撃の斬撃を繰り出した。
しかし、レイは軽く剣を傾けただけで、僕の攻撃を受け流してしまった。
「遅い!」
彼の剣が、再び迫る。
僕は必死に防いだ。
剣と剣がぶつかるたび、腕が痺れる。
力だけではない。
間合いの取り方も、剣の運びも、僕とはまるで違っていた。
この男は、戦い慣れている。
……いや。
殺し慣れているのだ。
「くそっ……!」
僕は何とか距離を取った。
呼吸が乱れ、額には汗が滲んでいる。
それに対して、レイはほとんど息ひとつ乱していなかった。
「どうしました? 衛兵さん」
彼は嘲るように笑った。
「さっきまでの威勢はどこへ行ったんです?」
「……何が、目的なんだ!」
僕は叫んだ。
「どうして僕たちを殺す必要がある!!」
レイは、一瞬だけ目を細めた。
そして…。
「……ふふ」
とても愉快そうに笑った。
「そこまで頭が回るなら、もう察しくらいついているでしょう?」
彼は剣を振り上げた。
「まあ、冥土の土産に教えてあげますよ!」
凄まじい勢いで、刃が振り下ろされた。
「うわっ!」
受け止めきれない。
僕は剣を弾かれ、後方へ転倒した。
石畳に肩を強く打ちつける。
「ぐっ……!」
右肩に、鈍い痛みが走った。
剣を握る手が、思うように動かない。
まずい……このままでは。
コツ、コツ。
レイの足音が近づいてきた。
「ドラゴン討伐など、最初から建前だったんですよ」
彼は、何でもないことのように言い放った。
「この任務の本当の目的は、ガランドにとって邪魔な人間を、秘密裏に処分することです」
「…………!」
「政治的に厄介な少数民族の衛兵。犯罪組織に関わった傭兵。そして、他国からの亡命者」
レイは、僕を見下ろした。
「公然と処刑するには面倒な連中ばかりでしょう?」
「……まさか」
「だから、ドラゴンの噂を利用したんです」
彼は笑った。
「危険な任務に送り込み、そこで全員が死亡する。実に都合のいい話ではありませんか」
頭の中が、真っ白になった。
……そういうことだったのか。
最初から、僕たちは生きて帰ることを許されていなかった。
サルジは、気づいていたのだ。
あの男は、最初からこの任務の不自然さを疑っていた。
「つまり……」
僕は、絞り出すように尋ねた。
「あなたは……」
「ええ」
レイは、薄く笑った。
「あなた方を始末するために派遣された、処刑人です」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の中で、何かが音を立てて崩れた。
馬車での自己紹介。
焚き火を囲んだ夜。
僕に向けてくれた、あの穏やかな笑顔。
全部、嘘だったのか。
「……どうして」
声が震えた。
「どうして、そんなことができるんだ……!」
「国家の安定のためですよ」
レイは冷たく言い放った。
「秩序を乱す人間を取り除く。それだけのことです」
「……秩序?」
「あなたの同胞、ウェル族もそうです」
その言葉に、僕は顔を上げた。
レイの目には、露骨な侮蔑が浮かんでいた。
「独立だ、自由だと騒ぎ立て、国内で何度も反乱やテロまがいの行為を繰り返している」
「……っ!」
「ロイド・キャルベン。あなたは衛兵の立場にありながら、同胞の犯罪を見逃していたそうですね」
僕は唇を噛んだ。
彼の言葉には、僕の知らない事情も混ざっていた。
確かに、故郷では何度も衝突が起きていた。
衛兵としての立場と、同じ民族の人々を守りたいという気持ちの間で、苦しんだこともある。
だからといって……。
だからといって、こんな仕打ちが許されるはずがない。
「……僕たちは」
僕は痛む肩を押さえながら、立ち上がった。
「僕たちは、ただ普通に暮らしたいだけなんだ……!」
レイは鼻で笑った。
「ならば、国家に逆らわなければよかったんですよ」
「……ふざけるな!」
僕は剣を構えた。
「そんな理由で、自由に人を殺していいはずがないだろ!」
レイの笑みが消えた。
「……どうやら、まだ自分の立場を理解していないようですね」
彼は剣を構え直した。
「あなたは、この国にとって不要な人間なんですよ」
次の瞬間、激しい斬撃が襲いかかった。
「ぐあっ……!」
僕は何とか剣で受け止めた。
しかし、痛めた肩に力が入らない。
受け止めたはずの刃に押し込まれ、そのまま後方へ弾き飛ばされた。
背中が、石壁に激突した。
「がっ……!」
息が詰まる。
視界が、一瞬白くなった。
僕はその場に崩れ落ちた。
全身が痛い。
右腕には、ほとんど力が入らなかった。
……勝てない。
そう確信した。
どれほど必死に剣を振るっても、この男には届かない。
経験も、技術も、何もかもが違いすぎる。
「……くそっ」
それでも僕は、歯を食いしばった。
「……絶対に」
剣を杖代わりの様に使い、身体を起こす。
「絶対に、許さない……!」
レイが眉をひそめた。
「……しつこいですね」
僕は、痛む腕に力を込めた。
「ボルドさんも……サルジさんも……!」
二人の顔が浮かんだ。
豪快に笑っていたボルド。
胡散臭い雰囲気でも、何度も僕に忠告してくれたサルジ。
あの二人は、もう帰ってこない。
「二人とも、何も知らないまま殺されたんだぞ!」
僕は叫びながら、レイに飛びかかった。
「そんなことが……許されるわけないだろうがぁっ!!」
渾身の力で、剣を振り下ろす。
一瞬、レイが後退した。
だが、それだけだった。
「……甘い!」
鋭い一撃が、僕の剣を跳ね上げた。
「あっ……!」
指から、力が抜けた。
剣が宙を舞う。
回転しながら飛んでいった僕の剣は、遠くの土に突き刺さった。
「…………!」
しまった。
もう、武器がない。
僕は呆然と、空になった手を見つめた。
目の前で、レイが容赦なくゆっくりと歩み寄ってくる。
「……終わりですね」
彼は、心底呆れたようにため息をついた。
「本当に、理解できない人ですよ」
「…………」
「仮にここから逃げ延びたところで、私たちの国はあなたを決して見逃しません」
レイは、剣先を僕へ向けた。
「どこへ逃げても追っ手が来るでしょう。結局、死ぬ運命は変わらない」
そして、首を傾げた。
「それなのに、どうしてそこまで抗うんです?」
僕は、彼を見上げた。
……どうして、か。
そんなこと、最初から決まっている。
「……諦めたくないからだ」
「……はい?」
「僕は……諦めたくないんだ」
震える足に力を込めた。
「無惨に殺された、ボルドさんとサルジさんのためにも」
僕は、真っ直ぐにレイを見た。
「故郷で、僕の帰りを待っている家族のためにも」
目の奥が、熱くなる。
怖い、死にたくない。
こんなところで、誰にも知られずに殺されるなんて嫌に決まってる。
「……僕は、帰りたいんだよ」
僕は、かすれた声で続けた。
「僕を待っていてくれる人たちのところへ、帰りたいんだよ……!」
レイは、しばらく僕を見下ろしていた。
そして、深く息を吐いた。
「……くだらない」
彼は剣を大きく振り上げた。
「なら、その願いを抱いたまま死になさい」
僕は身構えた。
避けられるだろうか。
いや……恐らく無理だ。
それでも、最後まで抵抗するつもりだった。
……その時だった。
ドォンッ!!
突然、地面が激しく揺れた。
「うわっ!?」
僕はバランスを崩し、その場に膝をついた。
レイもよろめき、振り上げた剣を思わず下ろしていた。
「な、何だ!?」
次の瞬間。
重く、低い音が響き始めた。
まるで、巨大な岩が地面を踏みしめているかのような音だった。
そのたびに、足元の小石が跳ねる。
古びた石壁から、細かな砂が降り注ぐ。
僕は、音のする方向へ顔を向けた。
遺跡の向こう。
山の斜面に広がる、深い森。
そこから、何かが近づいてきていた。
「……う、嘘だ」
レイが呟いた。
「そんな……」
今度こそ、彼の声は本気で震えていた。
僕は思わず振り返った。
レイは、森の方を見つめている。
その顔からは、完全に血の気が失われていた。
「そんなはずがない……!」
彼は後ずさった。
「そんなものが……本当にいるはずが……!」
木々が、大きく揺れた。
最初に見えたのは、巨大な影だった。
山の斜面を覆う木々の向こうから、何かがゆっくりと姿を現した。
僕は、息を呑んだ。
……大きい。
あまりにも、大きすぎる。
頭部だけでも、僕たちの身体を何人も並べたほどの大きさがあった。
その後ろには、頑丈な鱗に覆われた長い首が続いている。
巨体を支える四肢は太く、前脚の先には、巨大な鉤爪が並んでいた。
長い尾は森の奥へと伸び、その全貌をひと目で捉えることすらできない。
そして、何より。
背中に備わった、一対の翼。
それがゆっくりと広がった瞬間、僕たちの頭上から朝の光が消えた。
巨大な影が、遺跡全体を覆ったのだ。
「…………」
僕は、言葉を失った。
こんな生き物を、見たことがない。
こんな生き物が、この世に存在することすら信じられなかった。
巨体が動くたび、大地が低く唸る。
鋭い眼が、こちらを見下ろしていた。
その眼差しには、ただの獣とは思えない、何か得体の知れない知性が宿っているように見えた。
「……ドラゴン」
僕は、ようやく声を絞り出した。
「本当に……いたんだ……」
レイは、完全に動揺していた。
「う、嘘だ……!」
彼は剣を握り直そうとした。
しかし、その手は震えていた。
「聞いてないぞ……こんなことは……!」
その瞬間。
巨大な影が動いた。
「……っ!」
僕には、何が起こったのか分からなかった。
ドラゴンの前脚が、信じられない速さで振るわれたのだ。
風を切る音と鋭い衝撃。
「ぐっ……!」
レイの身体が、宙へと弾き飛ばされた。
「……レイさん!」
思わず叫んだ。
しかし、その声が届くことはなかった。
巨大な爪に切り裂かれたレイは、石畳の上へ崩れ落ちた。
ほんの一瞬の出来事だった。
さっきまで僕を圧倒していた男が、何の抵抗もできずに一瞬で倒されていた。
「…………」
僕は、動けなかった。
ドラゴンが、ゆっくりとこちらを向く。
その巨大な眼が、僕を捉えた。
……次は。
次は、僕なのだろうか。
武器はない。
逃げようにも、身体は傷だらけだ。
仮に走れたとしても、あの巨体から逃げ切れるとは到底思えない。
僕はただ、その場に座り込むばかりだった。
「……ああ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
何ということだろう。
せっかく、レイから生き延びられそうだったのに。
今度は、本物のドラゴンに殺されるなんて。
「……もう、駄目なのかな」
僕は、静かに目を閉じた。
これまでのことが、頭をよぎる。
故郷の街、衛兵として過ごした日々。
そして、家族の顔。
……帰りたかったな。
せめて、もう一度だけ。
みんなに会いたかった。
僕は、訪れるはずの最期を待った。
しかし、いつまで経っても、何も起こらなかった。
その代わり。
<……ウェル族の青年よ>
「……え?」
突然声が聞こえた。
低く、穏やかな声だった。
それも耳から聞こえてきたわけではない。
まるで、自分の頭の中へ直接語りかけられたような、そんな不思議な感覚だった。
<恐れることはない>
僕は、ゆっくりと目を開けた。
ドラゴンは、まだそこにいた。
巨大な身体を動かすこともなく、ただ静かに僕を見つめている。
「……誰?」
思わず口にした。
「今……誰か、喋った……?」
<私だ>
再び、声が響いた。
<君に話しかけている>
僕は、目の前の巨大な生き物を見上げた。
「……まさか」
<そうだ>
ドラゴンの大きな眼が、わずかに細められた。
<私は君の敵ではない>
「…………」
<君の味方だ。ウェル族の友よ>
……ウェル族?
なぜ、このドラゴンが僕たちの民族を知っているのだろう。
「……どうして?」
僕は恐る恐る尋ねた。
「どうして、僕がウェル族だって……?」
<分かるのだよ>
ドラゴンは静かに答えた。
<君たちの言葉は、私にとって特別なものだからな>
「……特別?」
<ああ。もっとも、ウェル族の人間とこうして話すのは、もう何年ぶりになるのか……>
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
僕は戸惑った。
ついさっきまで、レイのように僕を殺すのだと思っていた生き物が。
今では、まるで旧友に再会したかのように話しかけてくるのだ。
<混乱するのも無理はない>
ドラゴンは、ゆっくりと身体を低くした。
<ここでは落ち着いて話もできまい。場所を変えよう>
「……場所を?」
<私の背中へ乗るといい>
「……えっ?」
僕は思わず、間の抜けた声が出た。
「せ、背中って……君の!?」
<そうだ>
……いや、確かに、そう言っているのは分かる。
けれど、つい先ほどまで恐怖の対象だったドラゴンに背中に乗れと言われて、すぐに納得できる人間などいるのだろうか。
<安心してくれ。振り落としはしない>
「……そ、そういう問題かな」
僕は小さく呟いた。
それでも、このドラゴンが僕を殺すつもりなら、わざわざこんなことを言う必要もないだろう。
僕は、恐る恐る彼の身体へ近づいた。
硬い鱗に手をかけ、巨大な背中をよじ登る。
何とか翼の間まで辿り着くと、そこに身体を落ち着けることができた。
「……うわ」
思わず、声が漏れた。
高い、とんでもなく高い。
地面がずいぶん遠くに見える。
<準備はいいか?>
「え、ええと……!」
僕は慌てて鱗の隙間を掴んだ。
「た、たぶんね!」
<では、飛ぶぞ>
巨大な翼が、ゆっくりと広がる。
次の瞬間、凄まじい風が、僕の身体を包み込んだ。
「うわああああっ!!」
ドラゴンが、大地を蹴った。
視界が、一気に持ち上がる。
すぐ先程まで居た遺跡が遠ざかる。
木々が小さくなり、山の斜面が眼下へと広がっていく。
僕はとにかく必死にしがみついた。
「ま、待って! ちょっと速いってば!!」
<ははは。すまない、久しぶりに誰かを乗せたものでな>
……笑っている場合じゃないだろ!
僕は、ただただ必死だった。
けれど。
しばらくすると、ドラゴンの飛行は穏やかなものになっていった。
風の流れが安定し、身体の揺れも小さくなる。
僕は、おそるおそる周囲を見渡した。
「あ…………」
思わず言葉を失った。
眼下には、ガランドの山々が広がっていた。
幾重にも連なる峰。
深い緑に覆われた谷。
遠くには雪をいただく山頂が、朝の光を受けて白く輝いている。
そのすべてが、ひとつの巨大な景色となって僕の目の前に広がっていた。
僕は生まれてからずっと、この国で暮らしてきた。
険しい山々に囲まれた、不自由な土地だと思っていた。
争いばかりの、残酷な国だと思っていた。
けれど、そこがこんなにも美しい場所だったなんて。
「……すごい」
僕は呟いた。
「こんな景色……初めて見たよ」
<そうか>
ドラゴンの声が、頭の中に響いた。
<それはよかった>
その声は、どこか嬉しそうだった。
僕は、もう一度眼下を見つめた。
さっきまで死ぬことしか考えられなかった。
それなのに今、僕は空を飛んでいる。
生きている。
そのことが、急に不思議に思えた。
やがてドラゴンは、ガーディス山の頂上付近へ向けて降下を始めた。
山頂の一角には、比較的平らな土地が広がっていた。
周囲は切り立った岩壁に囲まれ、地上から簡単に辿り着ける場所ではなさそうだった。
最初はただの岩場に見えたが、近づくにつれて、そこに小さな建物があることに気づいた。
古びた石造りの祠。
その周囲には、崩れた柱や石段のようなものが残されている。
どうやら、こんなところにも遺跡があるらしい。
ドラゴンは、祠の前にゆっくりと着地した。
<さあ、降りていいぞ>
僕は慎重に背中から降りた。
地面に足がつくと、ようやく安心して息を吐くことができた。
「……ふぅ」
それにしても、すごい経験だった。
まさか、人生でドラゴンの背中に乗る日が来るとは思わなかった。
僕は辺りを見渡す。
目の前の祠は小さなものだったが、かなり古い時代に造られたように見える。
風雨に晒された石壁には、装飾の跡がかすかに残っていた。
そして、祠のすぐ隣には、一枚の石碑が建てられていた。
「……あれ?」
僕は、思わず足を止めた。
石碑には、何かの文字が刻まれている。
長い年月によって風化し、一部は読めなくなっていたが……。
「……これって」
僕は、ゆっくりと石碑へ近づいた。
「ウェル族の文字……?」
<そうだ>
背後から、ドラゴンの声が聞こえた。
<君なら読めるのではないか?>
僕は驚いて振り返った。
「どうして、こんなところに……?」
<まずは、読んでみるといい>
僕は再び石碑に目を向けた。
古い文字だった。
今ではほとんど使われなくなった表現も含まれている。
それでも、故郷で教わった知識を頼りに、何とか読み取ることができた。
「……我ら、誇り高きウェル族と……」
僕は、ゆっくりと声に出した。
「偉大なるドラゴンとの……永遠の友情の証を、ここに記す……」
……友情?
僕は、その文字を何度も見返した。
「……これって」
そして、背後を振り返った。
「まさか、君と……僕たちのご先祖様が?」
<そうだ>
ドラゴンは、静かに答えた。
<その石碑は、遠い昔にウェル族の人々が建ててくれたものだ>
「…………」
<君たちの民族と、私は、かつて深い絆で結ばれていたのだよ>
僕は、呆然と彼を見上げた。
そんな話、これまで聞いたこともなかった。
僕が故郷で教わった歴史にも、ドラゴンと共に暮らしていたなどという話は出てこなかった。
「……どういうこと?」
僕は尋ねた。
「昔、何があったんだい?」
ドラゴンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと祠へ視線を向けた。
<……とても、長い話になる>
彼の声には、遠い記憶を辿るような響きがあった。
<それでも、聞いてくれるか?>
「……もちろん」
僕は深く頷いた。
ドラゴンは、静かに語り始める。
<遠い昔、私はまだ幼い竜だった>
その声が、僕の頭の中に響く。
<今のように大きな身体も、強い翼も持たない、小さな竜の子だったのだよ>
ドラゴンは、ゆっくりと目を細めた。
<私には、両親がいた>
<だが、人間たちは私たちを恐れていた。人に災いをもたらす怪物だと信じ、何度も攻撃を仕掛けてきたのだ>
僕は黙って聞いていた。
<両親は、私を守ろうとしてくれた。だが、傷つき、追われ続けるうちに、次第に衰弱していった>
ドラゴンは、そこで言葉を切った。
<そして……私は、ついにひとりになった>
山の上を、冷たい風が吹き抜けた。
<幼い私には何もできなかった。食べ物を探すことすら満足にできず、人間に見つかることを恐れながら、山の中に身を隠していた>
その姿を、僕は頭の中で想像した。
目の前の、今では山を揺るがすほど巨大なドラゴンが。
かつては、両親を失い、飢えと恐怖に怯える小さな子どもだったことを。
<そんなある日、私は人間たちに見つかった>
「……人間に?」
<ああ。あの山に暮らしていた、ウェル族の人々だ>
僕は息を呑んだ。
<私は恐ろしかった。彼らもまた、私を殺そうとするのだと思った>
<だが……彼らは違った>
ドラゴンの声が、少しだけ柔らかくなる。
<彼らは、傷ついた私を助けてくれた>
「…………」
<食べ物を与え、雨風をしのげる場所を用意し、私が元気になるまで世話をしてくれた>
彼は、遠くの山々へ目を向けた。
<最初は、彼らの優しさが理解できなかった。なぜ、恐ろしいはずの竜を助けるのか。なぜ、自分たちを襲うかもしれない存在に手を差し伸べるのか>
<だが、彼らは私に何も求めなかった>
ドラゴンは、静かに続けた。
<ただ、困っている者を見捨てたくないのだと。そう言ってくれた>
僕は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
<それから私は、彼らと共に暮らすようになった>
「……あの遺跡でかい?」
<ああ、そうだ>
ドラゴンが頷くように頭を動かした。
<君たちが調査していた、あの古代都市だよ>
僕は、思わず口を開いた。
「……っ!?」
あの巨大な遺跡が、あの石造りの街が。
かつて、僕たちウェル族の都市だったというのか。
<あの街には、たくさんの人々が暮らしていた>
ドラゴンは懐かしむように語った。
<市場には商人の声が響き、子どもたちは通りを駆け回っていた。祭りの日には、街中に灯りがともり、夜遅くまで人々の笑い声が聞こえていたものだ>
僕は、目を閉じた。
崩れた石造りの建物。
砂に埋もれた道路。
誰もいなくなった広場。
あそこに、かつてそんな暮らしがあったのだ。
<私は、彼らと共に成長した>
<幼い頃には、子どもたちと遊んだこともあった。身体が大きくなるにつれて街の中を自由に歩くことは難しくなったが、それでも人々は私を仲間として迎えてくれた>
ドラゴンは、小さく息を吐いた。
<……幸せだったよ>
その一言が、妙に心に残った。
<生まれて初めて、私は安心して眠ることができたのだ>
僕は、何も言えなかった。
ただ、目の前の巨大な生き物を見つめていた。
<だが、その日々は永遠には続かなかった>
ドラゴンの声が、低くなった。
<ウェル族がドラゴンを匿っている、という噂が周辺へ広まってしまったのだ>
「……噂?」
<ああ。やがて、その噂は人々の恐怖を煽り、ウェル族への迫害へと変わっていった>
ドラゴンは、静かに続けた。
<その頃、今のガランドを支配する帝国が勢力を拡大し始めていた>
「……帝国が?」
<彼らは、ウェル族が危険なドラゴンと結託しているという噂を利用した>
僕の胸が、ざわついた。
<そして、圧倒的な軍事力をもって、あの都市へ攻め込んできたのだ>
「…………」
<私も戦ったさ。彼らを守りたかったからな>
ドラゴンは、ゆっくりと目を閉じた。
<だが、まだ成長の途中だった私に、できることは限られていた。帝国軍の数はあまりにも多く、ウェル族の人々は次第に追い詰められていった>
僕は、拳を握り締めた。
<このままでは、街の人々が全滅してしまう>
<そう考えた私は、彼らに頼んだのだ>
「……何を?」
<私を置いて、逃げてほしいと>
山頂を吹き抜ける風の音が、やけに大きく聞こえた。
<彼らは、何度も拒んだ>
<自分たちを助けてくれた竜を置き去りにはできないと。家族同然の存在を見捨てることはできないと>
ドラゴンの声が、わずかに揺れた。
<……嬉しかったよ>
彼は静かに続けた。
<だが、共に逃げてしまえば、彼らはその先でもまた迫害されるだろう>
<私と一緒にいる限り、彼らはいつまでも恐れられ、追われ続けるかもしれない>
「…………」
<だから、私は彼らを説得した>
ドラゴンは、祠の隣に立つ石碑へ目を向けた。
<そして、彼らは街を去った。私を残してな>
僕もその石碑を見つめた。
――永遠の友情の証。
きっと、この石碑には、その時の人々の思いが込められているのだろう。
離れ離れになっても。
二度と会えなくなっても。
友であったことだけは、忘れないようにと。
「……そう、だったんだ」
僕は、小さく呟いた。
「僕たちの先祖に、そんな歴史があったなんて……」
ドラゴンは、静かに頷いた。
<彼らが去ったあと、私も山を離れた>
<帝国軍の追跡を避け、人間の手が届かない土地で、長い年月を過ごしていたのだ>
「……ずっと、一人で?」
<ああ>
その返事は、あまりにも短かった。
<それでも、私は忘れはしなかった>
ドラゴンは、遠くの山々を見つめた。
<あの街の人々のことを>
<私に食べ物を分けてくれた者たちのことを>
<私を怖がることなく、名前を呼んでくれた子どもたちのことを>
彼は、ゆっくりと視線を戻した。
<……どうしても、もう一度あの場所を見たくなったのだ>
「…………」
<長い年月が経ち、人々の記憶から私の存在が薄れた頃なら、戻ることもできるだろうと思ってな>
僕は、そこでようやく理解した。
最近になって、ガーディス山でドラゴンの目撃情報が相次いだ理由。
この山に、突然ドラゴンが現れたのではない。
彼は、帰ってきたのだ。
自分が幼い頃を過ごした、懐かしい故郷へと。
「……そっか」
僕は、小さく笑った。
「君も、ただ帰りたかったんだね」
<……ああ>
その声は、少しだけ寂しそうだった。
しばらくの間、僕たちは何も言わなかった。
山頂を吹き抜ける風が、古い石碑の周囲を撫でていく。
僕はもう一度、刻まれた文字を見つめた。
ここに記された友情が、何百年もの時を越えて残っている。
そして今、僕はその相手と話しているのだ。
まるで、おとぎ話の世界に迷い込んだようだった。
<……さて>
ドラゴンが、静かに口を開いた。
<これで少しは、私のことを信じてもらえただろうか?>
僕は振り返った。
「……うん」
迷いはなかった。
「もちろん、信じるよ」
ドラゴンの目が、優しく細められた。
<それはよかった>
「あっ、そ、そうだ!」
僕は、ふと思い出した。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったよね」
<自己紹介?>
「……うん!」
僕は少しだけ姿勢を正した。
「僕はロイド・キャルベン。ウェル族の町で、衛兵をしていたんだ」
そして、笑顔を向けた。
「君の名前は?」
ドラゴンは、しばらく僕を見つめていた。
やがて、懐かしそうに答えた。
<……アリスター>
「……アリスター?」
<ああ。遠い昔、ウェル族の人々が私につけてくれた名前だ>
彼は、ゆっくりと目を細めた。
<ずいぶん長い間、その名を呼んでくれる者はいなかったがな>
僕は、思わず微笑んだ。
「……そっか」
そして、彼に手を差し出した。
もちろん、目の前の巨大なドラゴンと普通に握手なんてできない。
それでも、何となくそうしたかったのだ。
「よろしくね、アリスター」
彼は、僕の差し出した手を見つめた。
<……ああ>
穏やかな声で、答えてくれた。
<よろしく頼むよ、ロイド>
その瞬間、不思議な気持ちになった。
あれほど恐ろしかったドラゴンが、今では少しも怖くない。
むしろ、ずっと昔から知っている友人と話しているような、そんな温かさを感じていた。
けれど。
同時に、胸の奥に冷たいものが戻ってきた。
「…………」
ボルド。
サルジ。
そして、レイ。
ガーディス山で起こった出来事が、次々と頭に浮かんでくる。
仲間が殺された。
僕自身も、国から命を狙われていることを知らされた。
アリスターに助けてもらったからといって、その現実が消えたわけではない。
むしろ……これから先、もっと恐ろしいことが待っているのかもしれない。
僕の表情が変わったことに気づいたのだろう。
アリスターが、静かに声をかけてくれた。
<……どうした、ロイド>
「……え?」
<顔色が、良くないぞ>
彼は、僕の方へ頭を近づけた。
<無理もない。つい先ほどまで、命を奪われかけていたのだからな>
「…………」
<もし私にできることがあるなら、遠慮なく言ってくれ>
僕は、しばらく黙っていた。
……どうしよう。
出会ったばかりの相手に、こんなことを頼んでもいいのだろうか。
彼は、僕の命を救ってくれた。
それだけでも、十分すぎるほどの恩がある。
それなのに……これ以上、何かを求めるなんて。
……でも。
僕は、帰りたかった。
家族のもとへ。
故郷の町へ。
そしてもう二度と、あんな目には遭いたくなかった。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「……アリスター」
<何だい?>
「僕は今、国から命を狙われているんだ」
アリスターは、黙って僕を見つめた。
「今回の任務は、最初から僕たちを殺すために仕組まれたものだった」
僕は、唇を噛んだ。
「ボルドさんも、サルジさんも……そのせいで殺されたんだ」
言葉にすると、再び胸が痛んだ。
「僕も、きっと追われ続けると思う」
アリスターは、静かに聞いていた。
「この山から逃げても、また別の刺客が送られてくるかもしれない」
僕は、彼の大きな眼を見つめた。
「……僕一人じゃ、どうにもならないんだよ」
声が震えた。
怖いからではない。
いや、もちろん怖かった。
けれど、それ以上に。
誰かに助けてほしいと口にすることが、少しだけ情けなく感じられたのだ。
それでも、僕は続けた。
「……出会ったばかりなのに、こんなことを頼むのは図々しいかもしれない」
僕は、深く頭を下げた。
「でも、お願いだ」
「僕を、助けてくれないか……?」
しばらく、返事はなかった。
山の上を、冷たい風が吹き抜けた。
僕は、顔を上げることができなかった。
断られても仕方がない。
彼には彼のやることもあるのだろう。
何百年もかけて、ようやく懐かしい故郷へ戻ってきたというのに。
そこへ、突然現れた僕が、また争いに巻き込もうとしている。
……本当に、図々しい話だ。
そう思った時だった。
<……ロイド>
穏やかな声が、頭の中に響いた。
<頼むから、その顔を上げてくれ>
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
アリスターは、優しく目を細めていた。
<もちろんだ>
「……え?」
<君を助けよう>
僕は、目を見開いた。
<遠い昔、君たちの先祖は、孤独だった私を助けてくれた>
アリスターは、静かに続けた。
<あの時の恩を、私は一度たりとも忘れたことはない>
「…………」
<そして今、私の目の前には、助けを求めている友がいる>
彼は、僕を見つめた。
<ならば、答えはひとつだろう?>
胸の奥が、熱くなった。
「……アリスター」
<何を遠慮することがある>
アリスターは、小さく笑った。
<友人とは、困った時には助け合うものなのだろう?>
遠い昔、このドラゴンがまだ幼かった頃、僕たちの先祖は彼を助けた。
そして今、そんな彼が、僕に手を差し伸べてくれている。
何百年もの時間を越えて。
「……ありがとう」
僕は、声を絞り出した。
「本当に……ありがとう、アリスター」
<礼を言うのは、まだ早いぞ>
彼は、ゆっくりと背中を低くした。
<さあ、まずはここを離れよう。いつまでも、この山に留まっているわけにはいかない>
「……うん!」
僕は、いつの間にか頬を伝っていた涙を拭った。
そして、再びアリスターの背中へと登る。
今度は最初のように恐る恐るではなかった。
巨大な鱗に手をかけ、慣れないながらも何とか翼の間へ座る。
<さて、ロイド>
アリスターが尋ねた。
<どこへ行こうか。何か考えはあるか?>
僕は、少しだけ考えた。
でも、本当はその思いは決まっていた。
「……故郷へ帰りたいな」
「僕の家族が、帰りを待っているんだ」
<……故郷か>
「うん。そこはウェル族の町なんだ。帝国の目も、ほかの場所よりは届きにくいと思う」
僕は、遠くの山々を見つめた。
「あそこなら、少なくともすぐには見つからないかもしれない」
<なるほど>
「それに……」
僕は、思わず笑った。
「故郷のみんなにも、アリスターのことを紹介したいんだ!」
<……私を?>
「うん!」
僕は頷いた。
「だって、君は僕たちウェル族の友達なんだろ?」
アリスターは、何も言わなかった。
「だったら、みんなにも知ってほしいんだ」
僕は、彼の背中をそっと撫でた。
「きっと、仲良くなれると思うよ」
しばらくの沈黙があった。
そして…。
<……何とも、不思議な気分だな>
アリスターが、静かに答えた。
<かつて別れた友人たちの末裔と、再び交流できる日が来るとは……>
<……ぜひ、私も行きたい>
「……本当!?」
<もちろんだ>
僕は、嬉しくなって笑った。
「よかった!」
アリスターも、穏やかに目を細めている。
<では、行こうか>
「うん!」
僕は、しっかりと彼の背中に掴まった。
「よろしく頼むよ、アリスター」
<こちらこそ、ロイド>
巨大な翼が、朝の空へと広がった。
そして僕たちは、再び大空へ飛び立った。
ガーディス山が、少しずつ遠ざかっていく。
僕たちが調査していた遺跡。
ボルドとサルジが命を落とした、あの場所。
そして、何百年も前に、ウェル族とアリスターが共に暮らしていた街。
すべてが、眼下の山々の中へと小さくなっていった。
僕は、静かに目を閉じた。
この先、何が待っているのかは分からない。
国が僕を見逃してくれるとは思えなかった。
むしろ、僕が生き延びたことを知れば、さらに多くの追っ手を差し向けてくるかもしれない。
きっと、これまで以上に苦しい日々が待っているのだろう。
……でも。
僕はもう一人ではなかった。
アリスターがいる。
家族がいる。
故郷には、僕の帰りを待ってくれている人たちがいる。
そして、僕には、忘れてはいけない二人がいる。
ボルド。
サルジ。
ほんの数日だけの付き合いだった。
決して、気の合う相手ではなかった。
それでも、たとえ短い間でも、彼らは僕の仲間だった。
命を預け合うはずだった、大切な仲間だった。
……だから。
僕は、彼らのことを忘れない。
彼らが生きられなかった明日を、僕は生きていこう。
どれほど追われても。
どれほど恐ろしい目に遭っても。
決して、諦めたりしない。
生きて。
生きて。
生き抜いてやる。
僕は、ゆっくりと目を開けた。
東の空から、眩しい朝日が昇っていた。
幾重にも重なる山々が、黄金色の光に包まれていく。
その光が、アリスターの大きな翼を照らしていた。
<……いい朝だな、ロイド>
アリスターの声が、優しく響いた。
僕は、少しだけ笑った。
「……うん」
眼下には、僕たちの故郷へと続く山々が広がっている。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
今はただ、帰ろう。
僕を待っている人たちのもとへ。
僕は、朝日に向かって顔を上げた。
「……帰ろう、アリスター!」
<ああ。帰ろう、ロイド>
大きな翼が、風を捉えた。
僕たちは、どこまでも続く空を飛んでいく。
歴史の中で、失われたはずの友情を再び抱きながら。
これから始まる、新しい明日へと向かって。




