前編「調査開始」
ガランドという国は、決して人間に優しい土地ではない。
国土の大半を占めるのは、天を突くようにそびえる山々と、その間を縫うように伸びる険しい谷。人々が暮らせる土地は限られ、山脈によって隔てられた集落には、それぞれ異なる民族や文化が根付いている。
それ自体は、決して悪いことではない。
問題なのは、互いの違いを認め合えるほど、この国の歴史が穏やかではなかったということだ。
土地を巡る争い、民族間の対立、そして独立を求める者たちと国家との衝突。
ガランドでは、いつの時代もどこかで血が流れていた。
ただでさえ危うい均衡の上に成り立っているこの国に、さらなる災厄が降りかかろうとしていた。
――ドラゴンの出現である。
最初の目撃情報が寄せられたのは、ガランドでも特に標高の高い、ガーディス山の周辺だった。
その山の麓には、かつて繁栄を極めた古代都市の遺跡が広がっている。
今では廃墟となったその一帯を、通りかかった旅人や行商人が巨大な翼を持つ生き物を見た、と相次いで証言し始めたのだ。
もっとも、当初の国の対応は冷淡だった。
山には昔から怪物にまつわる伝承が数多く存在する。今回の騒ぎも、そうした噂話のひとつに過ぎないと考えられていたのである。
しかし、ある事件を境に状況は一変した。
武装した傭兵たちを護衛として雇っていた大規模な商隊が、ガーディス山の付近で消息を絶ったのだ。
その後、捜索に向かった者たちが発見したのは、無惨に殺害された商人や傭兵たちの遺体だった。
生存者は、一人もいなかった。
この知らせは瞬く間に国中へと広まった。
『ドラゴンが人間を襲い始めた。』
そんな噂が、いつしか揺るぎない事実であるかのように語られるようになったのである。
特にガーディス山の周辺では混乱が激しく、町から逃げ出す住民が相次ぎ、ついには世界の終末を説いて回る者まで現れる始末だった。
もはや、ただの噂話として片付けることはできない。
国としても、何らかの対策を講じる必要があった。
とはいえ、相手が本当にドラゴンなら、正規軍を送り込んだところで無事に帰還できる保証などない。
そこで国が下した決断は、実に合理的で、そして実に残酷なものだった。
死んでも困らない人間を集め、現地に送り込めばいい。
かくして、様々な事情を抱えた四人の男たちが、ガーディス山の調査に派遣されることになった。
僕もまた、その四人のうちの一人だった。
ガタガタ、ガタンッ!
「うわっ……!」
大きく跳ねた馬車に、思わず声が漏れる。
山道というものは、どうしてこうも容赦がないのだろう。
車輪が石を踏むたびに荷台が揺れ、座っているだけでも身体のあちこちが痛くなってくる。
僕たちを乗せた馬車は、そんな悪路にも構わず、ひたすらガーディス山の斜面を登り続けていた。
荷台の中は狭かった。
一週間分の食料に野営道具、予備の武器や防具。
それらが隙間なく積み込まれ、残ったわずかな空間に四人の男が押し込められている。
お世辞にも快適な旅とは言えない。
「しっかしよぉ……」
向かいに座る大柄な男が、腹の底から響くような声を上げた。
「金になる仕事があるって聞いたから飛びついたが、まさかドラゴン退治とはなぁ! ガハハ!」
酒で焼けたようなガラガラ声だった。
男は大きな身体を揺らしながら豪快に笑う。そのたびに、ただでさえ狭い荷台が、さらに窮屈になったような気がする。
「正確には、ドラゴンの存在を確認するための調査ですよ」
僕の隣から、落ち着いた声が聞こえた。
眼鏡をかけた、いかにも知的な風貌の男だ。
彼は膝の上に置いた剣を布で丁寧に磨きながら、涼しい顔で続けた。
「そもそも、本当にドラゴンがいるのかどうかも怪しいものです。噂に便乗して暴れ回っている山賊か野盗の仕業でしょう。さっさと片付けて帰りたいものですね」
「おいおい、あんたら……」
今度は、大男の隣に座っていた小柄な中年男が口を開いた。
薄汚れた外套に、どこか油断ならない目つき。
初対面でこんなことを言うのも失礼だが、正直、あまり関わりたくない雰囲気の人物である。
「ずいぶん気楽なもんだな。俺たちがこれから行くのは、傭兵を何人も殺した化け物がいるかもしれねぇ場所だぞ」
男は僕たちを順番に見回した。
「死んでも誰も困らねぇ。そういう連中が集められた仕事だって、分かってんのか?」
途端に、荷台の空気が重くなる。
大男は鼻を鳴らし、眼鏡の男は剣を磨く手を止めた。
……まずい。
これから一週間、僕たちはこの面々と行動を共にしなくてはならないのだ。
ここで険悪な雰囲気になってしまうのは、どう考えてもよろしくない。
僕は少し迷った末、おそるおそる口を開いた。
「あ、あの……!」
三人の視線が、一斉にこちらへ向いた。
「せっかく一緒に仕事をするわけですし、その……まずは自己紹介でもしませんか?」
「…………」
沈黙。馬車の車輪が軋む音だけが、やけに大きく聞こえた。
……しまった。
どうやら、あまり歓迎されていないらしい。
それでも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「え、ええと! じゃあ、まずは僕から!」
僕は無理やり笑顔を作った。
「ロイド・キャルベンと言います。ここからはずいぶん離れた町で、衛兵をしていました。僕の故郷は少数民族の居住区にあって、その……僕自身も少数民族の一人なんですけど」
「ウェル族でしょう?」
眼鏡の男が、何でもないことのように言った。
「えっ?」
「あなたの出身民族ですよ。違いますか?」
「い、いえ……そうですけど」
僕は思わず言葉に詰まった。
すると、例の小柄な男が、口の端を吊り上げた。
「ああ、ウェル族か。知ってるぜ。最近、独立だ何だって国と揉めてる連中だろ?」
「……はい」
「なるほどねぇ。そりゃ、こんなところに送り込まれるわけだ」
大男も、ようやく合点がいったという顔で笑い出した。
「ガハハハ! なんだ、お前もお上に嫌われたクチか!」
そして、悪びれる様子もなく続けた。
「つまり、死んでもらっても構わねぇ使い捨ての兵隊ってわけだな!」
「…………」
ああ。
また、この話か。
ウェル族だと名乗るたびに、決まってこうなる。
まるで、僕自身が何か悪いことをしたかのように扱われるのだ。
僕だって好きで民族間の争いに巻き込まれているわけではないし、ましてや生まれる場所を選べたわけでもない。
それでも、この国ではウェル族というだけで、何かと面倒な目に遭う。
慣れている……慣れているつもりだった。
けれど、やっぱり腹が立つ。何か言い返してやろうか。
そう思った矢先だった。
「使い捨てという点では、私たちも同じではありませんか?」
眼鏡の男が、静かに口を挟んだ。
「少なくとも、ここにいる誰も、国家から大切にされているとは思えませんがね」
「……あ?」
大男が眉をひそめる。
しかし、眼鏡の男は意に介さない。
「申し遅れました。私はレイ・クロスフィードと申します」
彼は磨き終えた剣を鞘に収め、軽く会釈した。
「以前は、とある傭兵団で参謀を務めていました。まあ、世間では少々悪名の高い集団でしたが」
少々、という言い方が妙に引っかかった。
「本来なら、仲間たちと一緒に投獄される予定だったんですよ。ですが、今回の任務を引き受ければ自由の身にしてくれるそうでしてね」
レイは穏やかに微笑んだ。
「命と引き換えの自由とは、ずいぶん安い取引だと思いませんか?」
……この人も、なかなか大変な事情を抱えているようだ。
けれど、さっきの一言には助けられた。
僕は小さく頭を下げた。
すると、大男が膝を叩いて笑った。
「ガハハ! なんだよ、結局みんな訳ありじゃねぇか!」
彼は大きな親指を、自分の胸に突き立てた。
「よっしゃ、次は俺だな! ボルド・ガバーノだ!」
「昔は国の兵隊をやってたんだが、まあ、ちょいと色々あってよ。今じゃすっかり自由の身ってわけだ!」
「色々、とは?」
レイが尋ねる。
「色々は色々だ! 細けぇことは気にすんな!」
……絶対に、何かあったな。
「ともかく、今回は金になるってんで参加した! よろしく頼むぜ、兄ちゃんたち!」
ボルドが豪快に笑う。
その瞬間、むわっと酒の臭いが漂ってきた。
うっ……向かいに座っている僕には、なかなか厳しいものがある。
「じゃ、最後は俺か」
小柄な男が、面倒くさそうに口を開いた。
「サルジ・リットだ。隣の国から亡命してきた」
「亡命、ですか?」
「ああ。だが、こっちに来たら来たで、今度はスパイだ何だと疑われてな」
サルジは肩をすくめた。
「結局、身柄を押さえられてこのザマさ。そこの眼鏡の兄ちゃんと同じで、任務を終えりゃ自由にしてやるって条件だ」
「……なるほど」
「ま、そんなわけだ。仲良くやろうぜ」
そう言って、サルジは口元だけで笑った。
仲良くか……本当にそうなればいいのだけれど。
一通り自己紹介が終わると、荷台には再び沈黙が訪れた。
ただ、最初の頃に比べれば、少しだけ空気が和らいだような気もする。
僕は荷台の小窓から外を覗いた。
山道の脇には、切り立った岩壁が続いている。
遠くに見える峰々は白く霞み、その下には、深い谷がどこまでも広がっていた。
ここまで来ると、人の暮らす場所というものが、ひどく遠く感じられる。
そして、馬車が次の曲がり角を抜けたときだった。
「あ……」
岩山の向こうに、古びた石造りの建物が見えた。
崩れかけた塔。
半ば埋もれた城壁。
そして、山肌に沿って広がる、無数の建造物の残骸。
ガーディス山の古代都市。
どうやら、目的地が見えてきたらしい。
遺跡の入口に到着したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車から降りると、冷たい山風が頬を撫でた。
空気は乾燥していて、土と岩の匂いがする。
目の前に広がるのは、長い年月の中で朽ち果てた石の街だった。
かつては多くの人々が行き交っていたのだろう。
今では建物の壁が崩れ、道路には砂が積もり、あちこちに雑草が伸びている。
それでも、建物の輪郭や街路の形は、驚くほどはっきりと残されていた。
「へぇ……こりゃまた、ずいぶん立派な廃墟じゃねぇか」
ボルドが感心したように口笛を吹く。
「観光に来たわけではありませんよ」
レイはそう言いながら、荷台から降ろした荷物を確かめ始めた。
今回の任務に与えられた期間は、一週間。
その間、僕たちはこの遺跡の付近に野営地を設け、ドラゴンにまつわる事件の真相を調査することになっている。
可能ならば、問題そのものを解決すること。
もっとも、相手が本物のドラゴンだった場合、どうやって解決するのかは誰も教えてくれなかった。
……ずいぶん無責任な話だと思う。
「さて、荷物を降ろしましょう」
レイが手を叩いた。
「食料は一週間分しかありません。予備の装備も含めて、どれも貴重なものです。破損しないよう注意してください」
「へいへい」
「返事は一度で結構ですよ、ボルドさん」
「一度しかしてねぇだろ!」
さっそく始まった二人のやり取りに、僕は苦笑するしかなかった。
荷物の量は、想像以上に多かった。
食料を詰めた木箱に水の入った樽、野営用の天幕、寝具、それに各自の武器や防具。
四人がかりでも、すべてを降ろすにはかなりの時間がかかった。
僕もせっせと作業を続けたが、気がつけば額には汗が浮かんでいた。
「おい! まだ終わらねぇのか!」
御者の男が、苛立った声を上げる。
「こっちはさっさと山を下りてぇんだよ! ドラゴンが出るって場所に、いつまでもいたかねぇ!」
「もう少しです! すみません!」
僕が返事をすると、御者は不機嫌そうに舌打ちした。
……そんなに怖いなら、少しくらい手伝ってくれてもいいのに。
もちろん、口には出さなかった。
ようやくすべての荷物を降ろし終えると、御者は待ちかねたように手綱を握り直した。
「一週間後、また迎えに来てやる」
男は僕たちを見下ろし、薄く笑った。
「ま、それまで生きてりゃの話だがな」
「…………」
「せいぜい、ドラゴンに食われねぇよう気をつけるこった!」
それだけ言い残すと、御者は馬に鞭を入れた。
車輪が石を踏み、乾いた音を響かせる。
馬車は山道の向こうへと進み、やがて岩壁の陰に消えていった。
残されたのは、四人の男と、大量の荷物だけ。
僕はしばらく、その方向を見つめていた。
先ほどまでうるさいほど聞こえていた車輪の音がなくなると、辺りは驚くほど静かだった。
風が岩の隙間を吹き抜ける。
遠くの峰々は、相変わらず白く霞んでいる。
見渡す限りの大自然、どこまでも開けた空。
なのに、不思議と開放感はなかった。
むしろ、外へ出る扉を閉ざされたような、奇妙な息苦しさがあった。
一週間。
たった一週間のはずなのに。
今はそれが、ひどく長い時間に思えた。
「武器の管理は各自でお願いします。食料については、私が責任を持って管理しましょう」
野営地の設営を始めると、レイは早速、荷物の仕分けに取りかかった。
「一週間分とはいえ、使い方を誤れば途中で不足する可能性がありますからね」
「……おい、ちょっと待てや」
ボルドが低い声を上げた。
「なんだよ、お前。さっきから偉そうに仕切りやがって」
「何か問題でも?」
「大ありだ! 誰がお前をリーダーに決めたんだよ、ああ?」
ボルドが、ずいっとレイに詰め寄る。
その巨体に影を落とされても、レイは顔色ひとつ変えなかった。
「別に、リーダーになったつもりはありませんよ。ただ、適任者が管理するべきだと申し上げているだけです」
「ほぉ?」
「少なくとも、あなたのように日頃から不摂生を重ねていそうな方に、貴重な食料を預けるのは不安ですから」
うわ……傍から聞いていても、レイは随分な物言いをする人だ。
これには、さすがにボルドも堪えられないのではないだろうか。
「……てめぇ、今なんつった?」
案の定、ボルドのこめかみに太い血管が浮かぶ
。
「聞こえませんでしたか? それならもう一度――」
「おうおうおう! 上等じゃねぇか、この野郎!」
「わああっ! ちょ、ちょっと待ってください!」
僕は慌てて二人の間に割って入った。
「や、やめましょうよ! ね!? 僕たちは仲間なんですから!」
「どけ、ロイド! こいつ一発ぶん殴らねぇと気が済まねぇ!」
「だ、駄目ですってば!」
目の前に、ボルドの大きな拳がある。
この人に殴られたら、僕の顔なんて簡単に潰れてしまいそうだ。
……いやいや、そんなことを考えている場合じゃないだろ。
「お、落ち着いてください! こんなところで怪我でもしたら、任務どころじゃなくなりますよ!」
「…………チッ!」
ボルドはしばらく僕を睨んでいたが、やがて拳を下ろした。
「分かったよ! 分かった!」
……助かった。
「だがな、眼鏡野郎!」
ボルドはレイを指差した。
「もし食料をちょろまかしたり、変な真似をしやがったら……ドラゴンに殺されたことにして、俺がぶっ殺してやるからな!」
「それはまた、ずいぶん物騒な冗談ですね」
「冗談じゃねぇ!」
……なんというか、脅し文句があまりにも分かりやすい。
これで本当に元兵士なのだろうか。
ともかく、最悪の事態だけは避けられたようだ。
僕はようやく胸を撫で下ろした。
すると、レイがそっと近づいてきた。
「ありがとうございます、ロイドさん」
「え?」
「助かりました。あなたは、少なくとも話の通じる方のようですね」
彼はいつもの冷静な表情を少しだけ崩し、穏やかに微笑んでいた。
「……もっとも、あそこまで身を挺して止めていただくとは思いませんでしたが」
「あ、いえいえ! そんな、大したことじゃ……!」
僕は慌てて首を振る。
「さっきも言いましたけど、僕たちはこれから一週間、命を預け合う仲間ですから!」
「……仲間、ですか」
レイは一瞬だけ、何かを考えるように視線を落とした。
そして、小さく笑った。
「ふふ。そうですね」
それから、静かに付け加えた。
「あなたの言う通りかもしれません」
その言葉が、僕にとっては何だか嬉しかった。
この人とは案外うまくやっていけるかもしれない。
僕はそんなことを思いながら、再び荷物の整理へと戻るのだった。
初日は、結局ほとんど何もできないまま終わってしまった。
野営地の設営と荷物の整理だけで、予想以上に時間がかかってしまったのだ。
太陽が西へ傾き始める頃には、山の空気はすっかり冷たくなっていた。
昼間は汗ばむほどだったというのに、今では外套なしでは肌寒い。
山というものは、本当に気まぐれだ。
僕たちは周辺から乾いた枝を集め、焚き火の準備を始めた。
幸い、この辺りは空気が乾燥している。
レイが持参していた火打ち石と火打ち金を使うと、乾いた火口に火花が移り、やがて小さな炎が生まれた。
ぱち、ぱち、と枝が爆ぜる。
火が大きくなるにつれ、ようやく冷え始めた身体に温もりが戻ってきた。
「さて、明日から本格的な調査を始めましょう」
焚き火を囲みながら、レイが口を開いた。
「基本的には二人一組で行動します。ドラゴンがいるとは思いませんが、野盗や山賊が潜んでいる可能性はあります」
「はいはい、了解ですよ。リーダー様」
ボルドが皮肉っぽく答える。
「……その呼び方はやめていただけませんか?」
「なんだよ。仕切ってんだからリーダーだろ?」
「やれやれ……」
二人の仲は、相変わらずよろしくない。
しかし、昼間のような騒ぎにはならなかった。
一方、サルジはというと、先ほどからほとんど口を開いていない。
焚き火の向こう側に座り、揺れる炎をじっと見つめている。
時折、何かを考えるように眉を寄せていた。
……大丈夫なのだろうか。
そんなことを考えていると、ボルドが突然、落ち着かない様子で立ち上がった。
「おい、そういや酒はどうなってんだ?」
「酒?」
「酒だよ、酒! 食料の中にあるんだろ? 一杯くらい飲ませろ!」
……やっぱり。
馬車の中でも気になっていたが、この人、相当な酒好きらしい。
レイは深いため息をついた。
「酒樽なら、あちらに並べてあります。右から三番目と四番目ですよ」
「おおっ!」
「ただし、くれぐれも飲みすぎないでください。翌朝、二日酔いで仕事にならないなどということがあれば――」
最後まで言い終わる前に、ボルドは酒樽へ向かって歩き出していた。
「…………」
レイは額を押さえた。
「……先が思いやられますね」
その点については、まったくもって同感だった。
その後は、夜間の見張りについても全員で話し合った。
ドラゴンが本当にいるのかどうかは分からないが、無防備に眠るわけにはいかない。
数時間ごとに一人ずつ交代しながら、野営地の周囲を警戒することになった。
当然、十分な睡眠は望めない。
ただ、僕にとってはそれほど苦になることでもなかった。
故郷で衛兵をしていた頃は、夜間の警備など日常茶飯事だったからだ。
むしろ、武器を手にして周囲を見張っている方が、何となく落ち着くくらいである。
……もっとも、見張りの最中、暗闇の向こうから何かが飛び出してきたらどうしよう。
そんなことを考えてしまうあたり、僕もそれほど肝が据わっているわけではないのだけれど。
夜が更けると、遺跡は深い闇に包まれた。
遠くに連なる山々も、古びた石造りの建物も、ほとんど輪郭を失ってしまう。
時折、風が崩れた壁の隙間を通り抜け、笛のような音を立てた。
そのたびに、僕は思わず顔を上げた。
しかし、何も見えない。何も聞こえない。
それなのに、どうしてだろう。
この遺跡のどこかに、何かが潜んでいるような気がしてならなかった。
翌朝…。
僕たちは予定通り、遺跡の調査を開始することになった。
ただし、四人全員で探索に向かうわけではない。
食料や装備を野営地に残したまま離れるのは危険だし、何者かに盗まれでもしたら命に関わる。
そこで、二人が遺跡の探索に向かい、残りの二人が野営地を警備する。
一定時間ごとに役割を交代することで、調査と警備を両立させることになった。
効率は決して良くないが、安全を考えれば妥当な判断だろう。
問題は、誰と誰が組むかだった。
「……そういや、こんなもんがあったな」
サルジが懐から、小さな紙の箱を取り出した。
中から出てきたのは、使い古されたトランプだった。
「えっ、トランプですか?」
「ああ。暇つぶしに使えるかと思って持ってきたんだがな」
こんな危険な仕事に、わざわざトランプを持ってくるとは。
サルジという人は、神経質そうな素振りのわりに、本当は意外と余裕のある人なのかもしれない。
「同じ数字を引いた奴同士で組めばいい。どうだ?」
「いいですね。公平です」
レイが素直に同意する。
ボルドもこの提案に関しては、特に異論はないようだった。
かくして、簡単なくじ引きが行われた
その結果、僕はサルジと組むことになった。
残る二人、レイとボルドは野営地の警備を担当する。
……大丈夫かな。
昨日の喧嘩を思い出すと、どうにも不安だった。
もっとも、せっかく公平なくじ引きで決めたのだ。
今さら文句を言うわけにもいかないだろう。
「よし、行くぞ。ロイドの兄ちゃん」
「あ、はい!」
僕は剣を腰に差し、サルジの後を追った。
こうして、僕たちの本格的な調査が始まった。
古代都市の遺跡は、間近で見ると想像以上に巨大だった。
崩れた城壁の向こうには、石畳の道路が幾筋にも伸び、その両脇に建物が立ち並んでいる。
中には二階、三階ほどの高さを残している建造物もあり、壁面には何らかの文字や装飾が刻まれていた。
長い年月を経て風化してはいるものの、かつてここに大勢の人々が暮らしていたことは、十分に想像できる。
「すごいですね……」
僕は思わず声を漏らした。
「こんな山奥に、これほど大きな街があったなんて」
「昔の連中も、よくこんな場所に街なんぞ造ったもんだ」
サルジはそう答えながら、周囲の建物を注意深く見回していた。
遺跡の保存状態が良いことは、歴史的には素晴らしいのだろう。
だが、調査をする僕たちにとっては、必ずしもありがたいことではなかった。
建物が密集しているせいで見通しが悪く、道は複雑に入り組んでいる。
どこに何が潜んでいるのか、容易には分からない。
曲がり角をひとつ進むたびに、違う街へ迷い込んだような気分になった。
「……あれ?」
ふと、僕は足を止めた。
何だろう……この感覚は。
目の前には、石造りの建物が並んでいる。
崩れかけた壁、砂に埋もれた階段。
かつては広場だったと思われる、少し開けた場所。
もちろん、それらはどれも初めて見るものばかりだ。
僕はこの遺跡を訪れたことなど、一度もない。
それなのに……なぜだか、ひどく懐かしかった。
まるで、ずっと昔にここを歩いたことがあるような。
あるいは、誰かから聞いた話の中に、この風景があったような。
……いや。
そんなはずはない。
きっと、歴史ある建物を前にして、感傷的な気分になっているだけだろう。
僕はそう自分に言い聞かせ、再び歩き始めた。
「なぁ、ロイドの兄ちゃん」
不意に、サルジが声をかけてきた。
「……どうも臭くねぇか?」
「えっ!?」
僕は思わず自分の服の匂いを確かめた。
昨日から風呂にも入っていないし、荷物運びでずいぶん汗もかいた。
まさか、そんなに臭っているのだろうか。
「ぼ、僕ですか!? すみません、そんなに体臭が……!」
「違ぇよ、バカ!」
サルジは呆れたように声を上げた。
「そっちの臭いじゃねぇ!」
「あ……そ、そうですか」
……バカって。
もう少し、言い方というものがあるだろうに。
「今回のヤマのことだよ」
サルジは声を落とした。
「どうにも、妙な臭いがするんだ」
「妙な臭い……ですか?」
「ああ。まず、第一に――」
彼は立ち止まり、周囲をゆっくりと見回した。
「静かすぎる」
僕もつられて辺りを見渡した。
「……静か?」
「そうだ。考えてもみろ。こんだけ立派な遺跡だ。建物も残ってるし、雨風をしのげる場所だって山ほどある」
サルジは近くの建物を顎で示した。
「なら、野生動物の一匹や二匹、住み着いててもおかしくねぇだろ?」
「……確かに」
「それに、国の目が届きにくい山奥だ。山賊や、訳ありの連中が潜んでいても不思議じゃねぇ」
言われてみれば、その通りだった。
「だがな、ロイドの兄ちゃん」
サルジが、僕の方へ顔を近づけた。
「ここへ来てから、何か見たか?」
「……え?」
「鳥でも獣でもいい。何か、生き物の気配を感じたか?」
僕は口を開きかけて、言葉を失った。
……そういえば、何も見ていない。
遺跡へ来てから、鳥の姿すら見かけていなかった。
それどころか、鳴き声も聞いていない。
風が石壁を撫でる音と、僕たちの足音。
聞こえるのは、それくらいだった。
「……本当だ」
思わず背筋に、冷たいものが走った。
サルジは小さく頷いた。
「それだけじゃねぇ。もうひとつ、おかしなことがある」
「な、何ですか?」
「俺たちの任務だ」
彼は、どこか皮肉めいた笑みを浮かべた。
「傭兵を何人も雇った商隊が、丸ごと殺されたんだぜ? それだけ危険な現場だってのに、国が送り込んだのはたった四人だ」
「……はい」
「しかも、俺たちは全員、国にとっちゃ厄介者だ」
サルジは指を折りながら続けた。
「独立運動で目をつけられてる民族の衛兵。犯罪者同然の傭兵団の参謀。軍を辞めた荒くれ者。それから、スパイ扱いされてる亡命者」
……改めて言葉に表して並べられると、ひどい顔ぶれだ。
「なぁ、ロイドの兄ちゃん。本当にドラゴンの脅威を取り除きたいんなら、もっとまともな部隊を送ると思わねぇか?」
「それは……」
「国の正規軍なり、腕利きの傭兵なり、いくらでも方法はあるだろうよ」
確かに、その通りだった。
僕たちは、まともな事前調査の結果すら渡されていない。
そもそもドラゴンが存在するのかどうかも分からないまま、たった四人で送り込まれたのだ。
「だからな」
サルジは、そこで言葉を切った。
「俺ぁ、最初から引っかかってるんだよ」
「……何が、ですか?」
「本当に、この問題を解決するつもりがあるのかってことさ」
僕は息を呑んだ。
ここに来るまで、そんなことを考えたこともなかった。
無論、危険な任務だということは分かっていた。
国が僕たちの命を、それほど重く見ていないことも併せて。
けれど……もし、最初からこの問題を解決するつもりがないのだとしたら。
僕たちは、一体何のためにここへ送り込まれたのだろうか。
「じゃ、じゃあ……」
僕はおそるおそる尋ねた。
「この任務には、何か別の目的があるってことですか?」
「さぁな」
サルジは肩をすくめた。
「そこまでは分からねぇよ。俺だって、何もかもお見通しってわけじゃねぇ」
そして、僕を真っ直ぐに見つめた。
「ただな、ロイドの兄ちゃん」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
低く、静かで、妙にずっしりとした重みがあった。
「こういう胡散臭い仕事にはな、たいてい裏があるもんだ」
風が吹いた。
建物の隙間を抜ける冷たい風が、足元の砂をさらっていく。
「ドラゴンなんぞ、本当にいるかどうかも分からねぇ」
サルジは周囲を見回した。
「だが、もし俺の勘が当たってるんなら……」
彼は、少しだけ声を潜めた。
「ここには、ドラゴンなんかよりよっぽど恐ろしいものが潜んでるかもしれねぇぜ」
「…………」
僕は思わず、周囲を見渡した。
古びた石の街、誰もいない道路。
崩れた窓の向こうに広がる、底知れない暗がり。
……何もいない、何も見えない。
なのに、先ほどまで感じていた懐かしさが、いつの間にか得体の知れない不安に変わっていた。
あの建物の陰に、何かがいるのではないか。
あの窓の向こうから、誰かがこちらを見ているのではないか。
そんな考えばかりが、次々と頭に浮かんでくる。
「……おいおい」
サルジが呆れたようにため息をついた。
「そんな顔すんなよ。まだ何か起きたわけじゃねぇだろ」
「だ、だって……!」
「心配するくらいなら、周りをよく見とけ。怖がって足を止めてたら、それこそ何かあった時に逃げ遅れるぞ」
そう言うと、サルジは何事もなかったように歩き始めた。
「あ、ちょ、ちょっと! 待ってくださいよ!」
僕は慌ててその背中を追った。
この人と二人きりで探索するのは、少し不安だった。
けれど、一人でこの遺跡に取り残されるよりは何倍もましだ。
僕は腰の剣にそっと触れ、辺りを警戒しながら歩き続けた。
石畳を踏む、二人分の足音が響く。
それ以外には、何の音もしなかった。
まるで、この街から生き物という生き物が消え去ってしまったかのように。
そして僕は、もう一度だけ振り返った。
つい先ほど通り過ぎた、古い石造りの広場。
初めて訪れたはずなのに、不思議と懐かしく感じられたあの場所。
どうして、あの時はそんな気持ちになったのだろう。
その答えは、まだ分からなかった。
ただひとつ。
この時の僕は、まだ知らなかったのだ。
ガーディス山に隠された秘密が、僕たち四人の運命を大きく変えてしまうことを。




