第二十三話
2026年7月10日
あのときに会話に出てきた人なのか?
「はあ、あなたですか? 颯太先輩とか真美とかにあたしのことを聞きまわってる学者さんは」
『ああ、そうです。すでにお話を聞いていましたか。経歴としては自然人類学というものを研究する――と申します。ご迷惑をおかけします』
やっぱりそうだった。
身体の方のあたしは、当然こんな状況に置かれてないから懐疑的な態度だ。頼むからもうちょっとあたしが知りたい情報を引き出せるぐらいの接し方にしてほしい。
「いや、まあ、別にいいんですけど、何が目的なんですか? あたし何かしましたっけ? 別に法律を犯すようなことは……」
そう、法律を犯すようなこと、はしてないはずだ。
『いえですね。現在調査しているのは、楠瀬さんの、脳についてなんですけど』
脳。あたしのどこに異常が起きているかと言えば、間違いなく脳だろう。
ぜひ話をお聞きしたいです! あたしの脳、最近変なんです!
「あたしの、脳? 脳がなんですか?」
とは言ってくれない。やはり、この異変は身体の方のあたしには無関係のようだ。
『少し長くなってしまうんですが、楠瀬さんの脳の扁桃体と言われる部分に異変が称生じておりまして。で、それによって何が生じるかと言うと、感情の機能が鈍くなってしまうんです。何か心当たりはありませんか?』
心当たり。感情が鈍くなる。
私は昔から人の立場になって考えるのが苦手だって、言われてきた。
人の気持ちなんて分からない。感情がないとかよく言われてきた。だから、怖いとかそういう心の動きを味わいたくて人よりたくさん見てきた。
「……」
でも、いま。あたしの身体が、あたしの感情を持たない身体が動いているのを見て、あたしはもともと感情が薄いとかそういうわけじゃないんだって気づいた。
だって今ほど焦って、困惑して、動揺して、悲しんでいるあたしは初めてだから。
『詳しいことはこの場ではお伝えできないんですが、このまま放っておくとあまり良くない状態になってしまうと思われますので、忠告も兼ねて一度こちらの方で……』
ああ、でも駄目だ。
「そんなの、いつ調べたんですか?」
あたしはもう手遅れなんだ。
『はい?』
「勝手にそんなの調べたんですか?」
『いえ、その。最近健康診断に行かれませんでしたか?』
「健康診断? まあ、ひと月前ぐらいに……」
会社の健康診断は社長の方針で、結構しっかり調べるタイプのものに行かされる。
『そこで出た結果からですね、先ほどの結果が出まして』
「え、そこでですか? 特に問題ないって話だったはずですけど」
『はい。表向きには問題のない結果なんですけど、私独自で調べたところ、やはり見過ごせない点が……』
「あなたが調べたら、って勝手にそんなこと……」
『それはそうですが……』
「とにかく、あたしは何も問題ないですからね」
あたしを助ける望みが、あたしによってどんどんと絶たれていく。あたしの否定的な姿勢によって。
『いえ、その。これは人類の発展につながるんです。私の考えだとこのままでは……』
あたしは、引き続き冷徹な口調で続ける。
「人類の発展のため? じゃあそのために、あたしのプライベートが研究されてもいいっていうんですか? そんな権利があなたにあるんですか? 研究者ってだけでなんでもまかり通ると思わないでください。」
それを、あたしは見ることしかできなかった。
『それは、その』
「真美にも、颯太先輩にも話を聞いたんでしょ? もうそれで十分じゃないですか」
でも、あたしは自分を責める気になれなかった。もちろん自分だからっていうのもあるけど、普段のあたしなら何の衒いもなく言ってしまうような言葉ばかりだったからだ。
『……分かりました。もし何かあればこの番号に連絡してください。最後に一つだけお聞きします』
「最後に一つだけ? じゃあ最後にしてくださいよ、こっちも仕事放り出して電話出てますからね」
ああ、終わってしまう。あたしが抜け出せる最後、かもしれない機会が。
『この音を聞いてください』
電話先の人物は数秒無言になった後、なんらかの再生機器から雑音を流した。
言葉で表すなら、バーン、みたいな。そんな音。
『この音に何か覚えはないですか?』
あたしはなかった。あたしにないということは、今見ているあたしにも。
……いや。バーンという音? この籠ったところから響いた爆発音は、どこかで。
はっ。
いま、あたしの内側から聞こえた!
この音! 強く思い出そうとしたあたしに聞こえた。
あたしが、身体の制御を失った瞬間にも聞こえた小さな爆発音。
それを持ってるってことはやっぱりこの人は、あたしを助けてくれるはずだ。この助けに乗れば、あたしは元通りに戻れるのかもしれない。
普通に考えれば希望となる手掛かりは、深海にいるあたしにとっては絶望でしかなかった。
「……なんですか、今の雑音。この音に聞き覚えはないか、って」
どうにかできないのだろうか。あたしがあたしに叫ぶ声は届かないのだろうか。
「……………………」
今まで後回しにしていた、恐怖、焦り、混乱、後悔が皺寄せのようにいまのあたしに降りかかってくる。
気づいて!
あたしはまだやりたいことが。
気づいて!
「……………………………………………………」
気づいて!
やりたいことが。
「……………………………………………………………………………」
やりたいことは、
気づいて。
あったっけ?
「………………………………………………………………………………………………」
『どうされました?』
「ないですよ。音に心当たりとか、あるわけないでしょ」
戻っても、浮気とかそういうのとか。映画も、そんなに。
「もう終わりでいいですか? 切りますよ」
あ、そっか。
別に何も面白くなかったんだ。
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