第十四話
2006年4月7日
「シューヤ、あにぼーっとしてっだよ」
少年A(名前を完全に忘れた。何か最後に「き」がつくような名前だったような)は、いまだはっきりしない滑舌でボールを持つ僕を呼びつけた。
「あ、うん」
「っく、おろまなやっだな」
どうやら、タ行とナ行が弱いらしい。もちろん当時はそんなことには気づいてはいなく、いま頭に残っている音声から導いた結論だが。
「ほだ、早くボールわっせよ」
「分かった」
なんで仲が良かったんだろうか、家が近くだったとか、そういう理由だろう。引っ越ししたから、もう会う手段すらもないけど。多分この瞬間も、こんなどうでもいいことを考えていた気がする。だから、
「おい、あぶねえ!」
何が飛んできたって気づくことはできなかった。
骨伝導によってその衝撃が体を巡った。
「うわー、ボールそっちいったかー?」
おそらく、まだ人に当たったと分かっていない少年B(同様に覚えていない。ただ、Bと描かれたキャップをしていたことは覚えていた)がこちらに走ってボールを取りに来た。
ボールがぶつかる、なんて大したことないように思うが、ボールの大きさは今と変わらないのに俺の体はあんなに小さかった。もし全力で蹴られたボールがぶつかっていたとしたら、想像以上に大きなダメージになったのだろう。
俺は瞬間的に平衡感覚を失い、芝と砂利が混ざる公園のグラウンドに倒れこんだ。
「ボールは、って」
事件に倒れこむ俺の姿を見てぎょっとしたのだろう。その後、近くにある血が滲んだサッカーボールを見て状況を理解し、その表情に反省の色を滲ませる。
「お、おい! 大丈夫、か?」
ボールを蹴った張本人である少年Bのことを、グラウンドに倒れこみながら見上げる。
まず、痛い。脳の一部分がへこんで、もう戻らないのかと思ってしまうほどに。幼少期特有の、力任せにつま先で蹴られたボールは、その球体の鈍器としてのポテンシャルを存分に引き出していた。
しかし、普通にしているよりも早い経過時間で、段々痛みが引いてきて、感じたのは奇妙な感覚。
何か脳のズレていた部分が修正されるようなそんな感じ。頭にボールが当たった瞬間にバラケた脳の部品が、今までとは違う、けれどより効率的な配列で置き直されていく。
寝ている間に小人が靴を作っている絵本を思い出したかもしれない。それぐらい、自分の意思とは無関係なところで、自分という体についての重大な決定が行われているみたいだった。
「うん、大丈夫」
悶絶した表情で倒れた俺は、一分もしないうちにけろっと復活して立ち上がり、心配して駆け付けた、または人がいっぱい集まってるから寄ってきたやつらに返事をして見せた。
「大丈夫、って。お前にケガがあったら、俺が母ちゃんに怒られるんだぞ」
先ほどから動けずにいた少年Bは俺に差し伸べた手をしまい、ようやく目線を合わせて俺に声をかける。どうやら純粋な心配ではなかったようだ。ある意味大人っぽいのかもしれないけど。
だけど、そのときの俺は本当に大丈夫だった。なぜだかその強い確信があったし、そう言わないといけない気がしていた。
「サッカーやろうよ、ほら」ボールについている血を服の裾で拭って、差し出す。
「ほんとにないんだな、ケガは」
「だからないって。もう、やるよ」
困惑する周りの群衆を、手で全体に広がるように指示する。みんなは顔を見合わせた後「俺は言ったからな」などと言いながら、サッカーができるぐらいに散開した。
俺は数秒待って両手に持っていたボールをつま先の前に置き、振り子のように勢いよく蹴りだした。
その日以来、足の先にボールがくっついたままだ。
俺が蹴りだしたボール目がけて、勢い任せに突っ込んでくるのは先ほどの少年Aだ。
視線の中心にそれを捉えた俺はやけに冴えた頭を働かせてそれに対処しようとした。
「……っ!」
来るぞ、と脳に強く念じた。
その瞬間、何かが納得いくような感覚があった。さっき頭をぶつけたとき味わった、小さな宇宙はこのことだったんだ。
最初は少年Aの足が遅くなったのかと思った。
しかし、足が遅くなったというより、もはや動きが停止していたため、次はそういうおふざけをしているのかと思った。わざとスローモーションみたいに動いて、俺を笑わせようとしているのかと。
何が面白いのか分からず、またそのタイミングにも意味が分からなかったため、その行動に「やめろよ」と制しようとしたが、声が出なかった。
何度試しても自分の声が聞こえてこなかった。喉や口は発声するときの形をしているのに、音だけがそれについてこなかった。
流石に異常を感じて視界を隅々見渡すと、みんなが、そう、だった。
ここで、ようやく状況を上手く表す言葉を思い付いた。
時間が止まっている。
斜めに前に傾いている俺の身体も、遠巻きに見ているやつも、俺のパスを受け取ろうと少し進んだ先に位置しているやつも、もちろん頭上にある雲も、鳥も、時間に巻かれている事物はすべて止まっていた。しかし、俺の首も動かせないので、本当に全部か確認できたわけではない。
一度冷静になって考える。
まず心当たりがあるのは、先ほどのボールの衝突。細かいことは――今の俺でも分かっていないのだからこのころならばなおさらであろう――分からないが、あれによって俺は時間を止める能力を手に入れた。
そして、その能力が、少年Aのドリブルと共に発動した……としたら。
なぜスポーツが苦手なのか。
それは結局、俺がついていけないほどに速いスピードで何事も進行していくからだ。身体をこう動かしたい、というイメージは常にあるのだが、それを実行している間に状況が変わってしまう。
もし、やりたい動きを、適切な時間に行えるようになったら、少なくとも今よりは得意になるのかもしれない。
今は、どうだろうか。
サッカーをしている最中なのに、ここまで冷静になっている。
次に自分がしたい動きを、あれだこれだと考えることができている。これこそが俺のやりたかったスポーツだ。
この能力が、今発動したのなら。
最善の対処を考えることができるということだ。
少年Aはいま、全速力でこちらに向かってきている。止まった時間の中で見ると、全力で走る人間とはなかなか変なポーズをしている。それを面白がるのは後でいいとして、この体勢の人間が、この後下手な小細工をしてくるとは考えられない。ぶつかる、奪う。俺にはそれが通用すると思っていて、それしかやってこない。
だったら、単純に右または左に良ければいいのだろう。これまでは頭に浮かんでも役立たなかった動きのイメージが、足はどこで、腕はここでという細かい指令を次々と体に染み込ませていく。
これならば、相手の出方を完全に潰せる。
時間がどうやって動き出すかは分からないが、止めたときも俺が強く念じただけなのだ。ならば戻すときも。
空も、鳥も、すべてが元通りになった世界で、俺は自分で思い描いたとおりにボールを守り切っていた。
「うわっ、まじか!」
嘘のようだった。俺がこうやって、サッカーに参加できていることも、もちろん時間を止められるようになったことも。
これまで吐き捨てられていた、ピンチのときの対処法。結局タイミングを誤っていただけなのだ。
時間さえ止められれば難なく対処できた。じっくり考える時間があれば、思慮の薄いこいつに負ける道理はないのだ。
ゴールへと向かう道を、トップスピードで駆けていく俺は後ろから少年A、B両者の会話を耳にした。
「はあ、はあ。あんか、シューヤ、変じゃえーか?」
「うん、さっき頭をぶつけてから、明らかに上手くなってる」
俺が次々とゴールを決めていく姿は、俺を必要以上に負かして、その地位を誇示するのに使っていた連中にとっては快くない光景だったようだ。




