第十一話
2025年9月1日
夏休みは怠惰によって過ぎ去った。しかし、テストに焦る自分はいない。脳内には、開始当初に脳に入れておいた教材が、消えることなく残っていたからだ。
夏休みの間はこの能力を使って、充実した日々を送っていた。
近くの爺さんがやってる本屋は新館の漫画でもフィルム無しでおいてあるから、死角でこっそり、バレないようにパラパラめくって、家で読んでいた。まあ、バレたとしても「ちょっと買う前に読んでただけです」って言えばいい話だし。
あと、これは応用だが、少し集中すれば映像も脳内に保存できる(意識的に記憶する回数を増やし、目を瞑ってそれを連続再生すると、思ったよりもしっかり動く)ことも分かったため、部活の休憩時間ににちらちら見ていた女子バレー部の練習を家で再生して、なかなか楽しい時間を過ごしていたこともある。
勉強に使うのももちろんだが、こんな使い方があるとは。俺は良い成績を取ったときよりも、あの能力を得たことに感謝した記憶がある。
そこまで、自堕落な生活を送っておいて俺は、明日に迫ったテストを前に、何の心の乱れもなかった。答えが途中で見られるテストなんて、楽勝なんて話ではない。分からなかったら、目を瞑ればいいだけなのだから。
学力試験への憂いは何一つなかった。
妙なのは今の俺の視界だ。
朝、目を開けたときから、視界がチカチカと乱れていた。
最初に現れたのは、俺の部屋の天井。しかし、朝目覚めたとき当たり前に目にするような天井ではなく、おそらく昨日寝る前、電気を消したときに見た暗がりの中の天井が表示されていた。
その薄暗い写真を脳内に見たとき、俺のある確信が少しずつ形を帯びてきた。
「記憶が制御できなくなっている」
思わず声に出してしまうほどに恐ろしいその考えは、起き抜けの脳に段々と浸透していった。
夏休みの後半、自分が記憶した写真を見返していると、自分が意図して記憶したものではない、出来損ないの写真が入っていることが多かった。ブレブレだったり、そもそもまばたきをしているときに記憶してしまったせいで真っ暗になっていたり、というような感じで。
俺の能力が、見ている景色を記憶するきっかけは分からない。じっと見ていれば自然と脳内に入っているから、特に調べる気もなかった。
能力を使う機会が増えるほど、記憶に必要な時間は短くなっていったし、それを喜んでもいた。最近はテレビで見た速読みたいな感じで、本をパラパラ捲ればすべて覚えることができていた。
でも、それがもっと加速したら?
見ているものすべてが、自分が意図していないのに脳内に蓄積され続けたとしたら、俺の脳はどうなるのだろうか。
間違って録画ボタン押してしまい、しかもそれに気づかないまま放置されたスマートフォンみたいに、要らない情報ばかりでストレージが圧迫されてしまったら? そういった現象が俺に起きているからこそ、気づかず寝る前に天井を記憶してしまったのか。
……。
嫌な予感を抑えながら家を出た。視界は相変わらず、1秒やそれ以上に短い単位でシャッターが降ろされ続けている。
おそらく、俺が写真を映像として記憶するときに使ったように、連続再生すると違和感なく映像になるぐらいのなめらかさで記憶されているんだろう。
一般的な動画は30fps。
つまり動画内の1秒を30枚の画像で構成しているという。
それが俺の能力にも適用されるとしたら、朝起きてから30分ほど経過した今は。
えーっと。
くそ! 頭が働かない。
脳の大部分が、俺が望んでもいない撮影に使われているせいで、単純なかけ算すらもできない。
なんであんな使い方をしたのだろう。最初みたいに、ただ数枚のページを記憶するぐらいなら、こうやって能力が暴走することもなかったはずなのに。
頭の中では血流が巡り続ける感覚が続く。流しそうめんを卓上で行える機械みたいに俺の新鮮な血液が脳を円状にぐるぐると回っているような気分だ。おそらくその血液に乗って、俺が今見ている景色が脳の記憶を司る部分に溜め込まれている。
とうに俺の意志は通用しない。止めようとしても止められない。
上手く働かない、いや働きすぎている脳を抱えながら、学校へと向かった。俺の家から学校はバスで20分、そこから歩いて5分。いつもバス内で暇つぶしに覗くスマホは、見れたものではなかった。素早く切り替わる画面に脳は必死に食らいつこうとする。液晶画面の細かなチラつき、一ピクセルごとの揺らぎ、すべてが脳に修復不可能なダメージを与えている気がしてならない。
結局、その場しのぎにしかならないだろうが目を瞑ってバスをやり過ごした。バス停から学校までは微かに目を開けてはいるが、ほとんど記憶を頼りに歩いて行った。途中、クラスの何人かに話しかけられた気がするが、頭の中がうるさくてそれどころではない!
学校に到着してから、景色を映像化する速度はどんどんと増していった。もはや1秒に30枚では済まないほどの、高品質な映像が脳内で作られている。
意識が濁流に流されそうになる。見えるものすべて俺の脳の中に流れ込んできて、内側から発する文章が自立できなくなる。自分と外の境界が分からない。俺の中に外が作られてきている。その外の中に俺がいて、その脳の中に世界史の答えがあって、で、その中に外があって、その中に俺がいて、その中に世界史が……。
テストが始まるまでの20分ほどの時間を、自分の脳内の整理に使った。
なぜ、俺はこんなにこのテストに執着しているのだろうか。
それは結局、高い点数を取りたいからだ。
その中に外があって。
じゃあ、なんで高い点数を取りたいんだ?
俺にもできるって分かったから。
その中に俺がいて。
それはなんで?
この能力があるから。
その中に世界史が。
朦朧とする意識の中で自問自答は、なぜか止まらなった。俺の脳はもはや暴、走してそれどころではない、はずなのに!
思えば、こうや、って。自分と対話する時、間を取、った覚えがなかった。部活が忙しいとか、そう、いったことを言、い訳にして、全部何とな、くで生きてきて。でも、俺自身勉強に、興味がな、いわけじゃな、いのに、でき、ないからって遠ざ、けていた。
「はいじゃあ始めてください」
その中に世、界史が。
目の間に世界史があった。
俺の中にあるものと同じだった。
その中に俺が。
同じだ。同じ。同じだ。
同じだ同じだ同じだ同じだ。これも同じ。これもこれもこれもこれも。
これもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれもこれも。
これも?
これも?
これ、も。
その中に世界史が。
ない。
ない。
外が。
世界史が。
俺の中に。
ない?
俺の中。俺の中にない?
ぶちん。
なぜ、俺はこんなにこのテストに執着しているのだろうか。
なら消さないと。
じゃあ、なんで高い点数を取りたいんだ?
ない、なら。
それはなんで?
この能力があるから。
ぶすっ。
※北本大樹は自信の眼球をシャープペンシルで突き刺し、失明した。その後も錯乱状態の中で自傷行為を繰り返し、周囲の生徒に制止されるまでに32か所の刺し傷を作った。しかし、自身以外への傷害は発見されなかった。
CASE1追加資料/記憶機能の変化/北本大樹 終




