1話 出会いの場所
息ができない。太陽の光に碧く照らされた湖水の中に、俺の口から複数の気泡が吐き出される。
俺は、死ぬのか? 肺の中に酸素はもうない。入ってくるのは冷たい湖の水だけ。ぼやけた虹が逆さになって見える。なるほど、今俺は頭が下になっているのか。もはやどっちが上でどっちが下なのかわからないな。俺は深い、深い水底に沈んでいく。視界はだんだんと暗くなっていく。
誰かが俺の名前を呼ぶのが聞こえた。だけど、音がくぐもって、よく聞こえない。
体がもう動かないから、もがく体力さえない。ああ、意識が遠ざかっていく。天使が迎えに来たようだ。まだ長く生きられると思っていたのに。人生は、これからのはずなのに――あれ、ところで俺は一体、どんな人生を歩んできたんだ? 思い出せない。死ぬ間際だというのに、走馬燈すらも見えない。――ところで、さっきまで空に虹なんてかかっていただろうか。それに、俺はどうして、水の中にいるんだ――。
*
暗い。闇よりも暗い。なぜ俺はこんな暗いところにいるんだろう。
「…………きてっ。……ねえ、お……ったら」
子どものような声が聞こえる。天使の声だろう。そしてとても暖かい。まるで天国で眠っているかのようだ。いや、ここは本当に天国なのか。それにしてもさっきから聞こえる声が非常にうるさい。天国なのだから、もう少しは眠っていてもいいだ――
「起きて!」
「うわぁっ!」急に声が大きくなったので、俺は驚いて飛び起きた。
目を開けると、とても神秘的な光景が広がっていた。夜の帳が下りた中で翠色に輝く湖に、それを囲むように生い茂る木々、小さな光を放つホタルのようなたくさんの虫たち。そして、湖の上空には、明るい満月が浮かんでいるのと一緒に、見たことのない逆さまの虹がかかっていた。水面には、逆さ虹が反射して、見慣れた虹が映っている。
「夜なのに、虹……?」
「お、やっと起きたかー」景色に見とれていると、横から再び声が聞こえてきた。
そういえば誰かに起こされたんだったな。俺は声の聞こえた方に顔を向ける。
「おはよう! 寒くない?」そこには子どもなんかではなく、人間ですらもなく、毛並みの良い喋るキツネがいた。
不思議なことが同時に二つも起こって、脳が情報処理に追い付いていない。まず目を覚ますと夜空に逆さまの虹がかかっていて、そして俺を起こしたのは喋るキツネだった。これは一体どういうことだ?
「そんな顔をポカンとしてどうしたの? もしかして、頭でも打った?」キツネは首をかしげて問いかけてきた。
「い、いや、痛みはない……。だが、あるいは、打ったのかもしれない。何せ、喋るキツネなど存在するはずが――」
「なんだー、じゃあ目を覚ましたばかりで寝ぼけているだけだったんだね!」
どうやら喋ることはできても他人の話は聞かないキツネのようだ。
「ところで、さっきも聞いたけど、寒くない? 毛が濡れているよ」
「毛?」俺の体に毛は頭と脇、そして脛くらいにしか生えていないはずだ。俺は体の様子を確かめるために顔を下に向ける。しかし、体には毛など生えておらず、濡れているのはブラウンのニットと藍色のジーンズくらいだった。そして、寒さなどは一切感じず、むしろ暖かいくらいだった。「いや、これは毛じゃなくて服だよ」
キツネはそう言われると、言葉の意味を理解するのに時間がかかっているのか、少しの間目を丸くした。「フク? フクということは……、君は〈ニンゲン〉!?」
「そ、そうだけど」ゆっくりと立ち上がりながらそう答えた。
「本当に!? じゃあ、あの伝説は嘘じゃなかったんだ!」キツネはウサギでもないのにぴょんぴょんと飛び跳ねて喜ぶ。
「伝説って?」俺は自分の身に何が起こっているのか何もわからないので、とにかく気になったことを尋ねてみた。
「本人なのに知らないの?」キツネはやや驚いた様子で俺を見る。「むかーしむかし、とある大きな危機に陥ってしまったこの森――逆さ虹の森を、ニンゲンと名乗る謎の二足歩行動物が救ってくれたっていう伝説だよ! そのニンゲンは、フクという変わった毛を身にまとっていたとか」
「逆さ虹の森?」俺は夜空にかかる逆さまの虹を再び見上げた。「虹が逆さだから、ここは逆さ虹の森っていうわけか」
「僕たちにとっては、あの虹が普通なんだけどね、オンボロ川から流れてきた動物たちはみんな『逆さまだ!』って驚くよ」
「お、オンボロ川?」
「うん、森を半分に分ける大きな川のことだよ。ボロボロな吊橋のオンボロ橋の下を流れるからオンボロ川」キツネはその吊橋を渡っている動作をしているのか、フラフラしながら説明する。「そういえば、君は川から流れてきたんじゃなく、この虹の湖に沿って倒れていたね。川からここまで歩いてきたの?」
この翠色に輝く湖は「虹の湖」というらしい。だが、俺はここまで歩いてきた覚えはない。
「いや、たぶんずっとここにいた」
「うーん、これは不思議なことだなぁ」キツネは前足を顎に持っていき、小首をかしげる。すると、突然ひらめいたような顔をして、こう言った。「そうだ、吟遊詩鳥のコマドリさんに会いにいこう!」