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第5話 あきらめも、時にはひつよう。

 目の前にあるこの小さな待合所は、診療所以外では唯一とも言える建造物である。それが今、静かに崩壊の危機を迎えていた。

 ウバメガシの根は雄々しく土台を圧し砕き、亀裂を突くその樹体は成長と共にそれを押し広げ、その間隙からは我先にと雑草が猛々しく生え狂っていた。

 ……一年はもたないだろう。

 古代文明は往々にして遺跡を残し、それが確かに在ったという事を墓標の如く未来へと伝えるが、どうやら、その小さい彼には荷が重すぎたらしい。


 きっとコレは運命だ。

 ここもひび割れたアスファルトのように、徐々に徐々にと自然に飲み込まれていく。

 ここだけじゃない。それは全ての人工物に言えることで、数百年後には都市部はただの森林となり果てるだろう。事実、そこではビルディングの薄暗いその隙間に、これは少々大げさかもしれないが、既に胸高にまでの緑の楽園が形成されていた。


 その楽園がいつか観た映画のように瘴気を発生させる菌類の森ではなくて安心したが、“近頃では虫を多く見かけるようになっていたなあ”と感じさせられたのを記憶している。それでもここよりはずっと少ないのだが、草といったら花壇程度のメトロポリタンにおいてはそれは至極珍しいのだ。


 皮肉なものだ。我々はあれだけ声高に緑化を叫んでいたが、何もしない方がいいとは。

 少し笑えてくる。

 もっとも、小さな生物でさ、弱肉強食の大きな流れの中におり、楽園なんてとてもいえたものじゃないが。


 そうだけれども、我々人間には理想郷(ユートピア)がある。

 場所などは関係無い。

 それは、自宅の温かい布団の上にあったり、病院のベッドの上にあったり。友人が集まるパーティー会場かもしれないし、モニターが煌々と輝く薄暗い部屋にもあるかもしれない。外階段に設置された喫煙スペースにあったり、自分以外に誰もいない屋上であったり……。


 幸せを感じられる場所ってのは個人個人の主観によって決まるのだ。だから逆に、皆にとっての理想的な世界なんてものはきっと存在はしないのだろうな。

 昆虫さん、強く生きてくれよ。



 国という“世界”の最小単位でユートピアを作ろうとした報いがこの惨状なわけだけれども、まぁ“ここ”あれだ、やっぱり楽園とはとても言い難い場所である。コンビニもゲーセンも、ナルドもないからなぁ。

 でも、ここはやっぱり、俺たちにとっては理想郷なのだ。永くは続かないのだろうけど。


 例えるならば、ここは……観客も演者もいない終演後のステージのようなもの。

 歓声が沸き起こる事は、もう絶対にない。その代わり、緊張に脚を震わせ蹴躓くこともなく、セリフを間違えて恥をかく心配もない。楽しかった演劇の余韻に浸っていればよい、とても気楽な場所なのだ。


「ここのナツヅタも、随分と茂ったね。もう、飲み込まれそう。私たちがいなくなったら、こうやって生きた証が少しずつ消えていくんだね」

「植物、元気だよな」

「うん、そうだね。そうだ、今度さ、苺食べたいんだけど」

「う~ん、いいけどさ、中々無いんだよなぁ。苺農家でも調べたら、野生化したやつあるかもしれないし、今度一緒に探そうな」

「うん」


 笑顔の妹であったが、考えるところがあったのか少しだけその表情を曇らせた。

「家族でイチゴ狩りしてみたかった……。なんでこんな事になっちゃったんだろ、私たち、かみさまに恨まれてるのかな」

 どこか他人事のように、妹は呟いた。


「神様は俺たち恨んだりはしてないさ。ただ、俺たちがちょっと道を間違えただけだって」

「そっか、よかった」

「ま、その代わり助けてもくれないけどな。今度あったら文句言ってやるぜ」

「あはは、そだね」



 まぁとにかく、今更何を思ったところで覆水盆に返らず。ならばせめて、舞台から脚を投げ出し、盆の水を飲み干して喉を潤したい。




 しっかし、本当にこのバス停は再来年まではもちそうにないな。

 所々に穴の開いたトタン葺きながらも、雨風や直射日光はそれなりに防いでくれそうではある。ただ、“嵐でバラバラになっちゃうなぁ”と思わせる程度にはボロボロだった。


 そのトタンの穴から漏れる舞台照明に、妹は照らし出されていた。そしてパイプ椅子に腰をかけ、足をばたつかせている。

 あの日以前より置いてあったのだろう。そのパイプ椅子はだいぶ腐食をしており、一応は実用に耐えうる状態であった――と思っていたのだが、今まさにこの時を以ってその使命を終えた。

 そう、足をばたつかせた妹の加重に耐えられず、腐食部が崩壊したのだった。


 勢いよく転げ落ちた妹。その瞬間の様子は、とある有名な噺家の鉄板芸に似ていた。

 本当に申し訳無いのだけど……、“舞台照明”も相まってそれが余りにも面白く感じてしまった。その決定的瞬間が何度も頭のなかで何度もリフレインする。陽気なBGMも流れていたと思う。


「お、おい、大丈夫か!? どこか痛い所は無いか!?」

「うぅぅううだいじょうぶ。強いて言えば、心が痛い」

「お前が重いからいけないんだぞ」

 そういうと、腕をクルクルと回転させて連続的に俺を殴打してきた。まぁ、痛くも痒くも無い。その姿がちょっと面白かった。それも相まって、思わず吹き出してしまった。

「あっははははは」

「そうやって、お兄ちゃんはデリカシーが無い……。だから、彼女が出来なかったんだよ」

「ははは、だよな。週末にデート、なんてしてみたかったなぁ……」

「まぁ、その……私ために色々してくれてたから、それも原因かもしれないけど……」

「それは気にするなよ、お前とずっと一緒にいられたのも、それはそれで楽しかったぞ。馬鹿みたいに笑える事も多かったし」

 ちょっと睨まれた。


 妹は元々身体が弱くて、時々、この空気のいい診療所へと療養しに来ていた。そのお陰と言っていいのか分からないが、あの日に起こった大きな災いに巻き込まれる事もなく、こうして今も……病弱ながらも元気に生きている。運が良かった。


 いや、運が良かった、と言えるのだろうか。もし時代が違っていたら、妹も結婚して子供が出来てそして年老いて家族に見守られつつ、幸せに逝けたのだろう。でも、こんな……。

「お前もさぁ、こんなじゃない時代に生まれて、お婆さんになって孫やひ孫に囲まれたかった?」

「うーん、どうだろう。それってたしかに、まぁ、幸せそうだよね。でも、今の私、不幸せそうに……見える?」

「いや。少なくとも、飯食ってる時は不幸せそうには見えないな」

「うん、まぁ、そうなんだけど……あぁ、そういう事だよ」


 今はこれで、満ち足りてるとはとても言いがたいけど、ふたりがしばらくは生きていける分の幸せは、確かにここに存在するのだ。


 そろそろ午前の8時を回ろうとしている。あの俺が乗り損ねたあの場所には、7時にバスが来る。という事は、その次の停留所であるここには、それがやってきてもおかしくは無い。

 先生、元気にしてるかな。


 俺は何の気無しに、シガレット状の砂糖菓子を口に咥えた。大人の真似事である。

 これはあの商店で見つけたものなのだけど、まぁ、水分の極端に少ないものだし腐敗はしてないだろうとの考えから持って来たのだ。持って来た、というか、一応は対価として元貨幣を置いてきた。あの商店から持って来た物に関しては、ちゃんとそうしている。

 貨幣と言うのは国家がその価値を保証するものであって、俺が置いてきたそれは今となってはただの金属でしかないのだけど。もっとも、あの金属の円盤で不平を訴える者は存在していなかったのだが。


 金って、あの世には持っていけないしな。惜しみなく払えるってもんだ。


 そのシガレットを、妹は羨ましそうに眺めていた。

「お前は子供だ。これはちょっと早い」

「うぅ、それ、わたしがだいすきなココア風味の駄菓子だよ、たばこじゃないよ! わたしにもちょうだい!」

「ははは。あげるから、ほら、口だして」

 

 彼女はゆっくりと目を閉じ、さくら貝のよう淡く紅を差したそれをおもむろに開いて、迎え入れる準備を終えた。

 そんなにもこの駄菓子が欲しかったのか、はしたなくもそれを迎え舌で受け入れた。


 ココア味の甘い砂糖菓子が、小気味よく砕ける。朽ちたトタンより日差しが漏れ入るこの待合所に、その音がクリアに反響した。


「うん、すごくおいしい。もうちょっとほしいんだけど……?」

 2回、3回と要求を繰り返し、小箱からはシガレットのようなその駄菓子は無くなってしまった。


 “俺が手にする小箱からは”、である。

 肩からかける鞄には、同じそれが幾つかあるのだ。おやつとしてである。

 そして面倒だったので、その小箱が10セットになった大箱を妹に手渡した。

「わぁ、わぁああああ!! なぁあああ、な、あ、ああ、ありがとぉ、これ一生分あるよぉ」

 笑えない、笑える冗談だなぁ。


 “ははは”と乾き気味に笑いつつ、俺は違う小箱を取り出す。

 妹に渡したそれと同じ駄菓子だが、ココア風味ではない。これは、コーラ味だ。

 それに気付いた妹は“ずるい”と比較的低い声で言い放ち、俺が独り占めしようとした地球最後のそれは、結局ふたりで食べる事に相成った。


 駄菓子を食べつつ携帯に残された映画を鑑賞していたら、とても恥ずかしいのだけどバスの事なんてすっかり忘れてしまって、気付いた時には既に午前10時半を回っていた。

 まぁ、運行予定より大幅に遅れる事なんてそんなに珍しい事でもないだろう。それに、往診の範囲も大幅に広くなったのだから、当然なのかもしれない。


 今日は諦めるしかないかぁ。

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