第4話 祭囃子を、聴きながら。
ふわりとした真綿のような朝日が、この少しだけ古臭い病室へと差し込んでいた。
それは決して埃っぽいというわけじゃないのだけど、モヤのかかった遠い日の思い出のようにも思える。
今この時も人類は過ぎ去りつつあり、いつか全ては思い出へとなるのだ。だから、喜びだとか、悲しみだとか、憎しみだとか……、そういった何かは感じられるものではなくなって、ただただ、ここには全てを包み込む平穏な時間の流れが存在している。
それはたぶん、夢半分のまどろみにも似ていた。
欠伸、その後、深いため息。感情の発露としてではなく、呼吸運動の一環。
そのまま眠い目を擦り、俺はおもむろにベッドから降りた。
腰高にあるこの病室の窓は、その身体を軋ませて俺によって開かれる。すると吹き込んできた朝の爽やかな風と共にカーテンはひらりと舞い踊り、遠い日より俺は帰還をする。
朝はまだ少し肌寒さを感じさせる。でも、湿気を帯びた風や、早起きの騒がしい“セミウンド”は、これから訪れるであろう、暑さを予感させた。
「おはよう、朝だぞ」
「う~むぅ」
「朝だぞ、朝」
「母さんみたいに言わないでよぉ」
彼女の一日は、眠い目を気だるそうにこすることから始まる。そこは俺となんら変わりはしない。……のだけれども、俺とは違いそれがまるで子猫のようで、その可愛さは兄である俺の自慢でもある。
その他の振る舞いもそれの様であり、共に行動する俺を時として奴隷の如く扱うことも少なからずある。わがままだったり、怠惰だったり、時として噛み付いてきたり。でも、唯一人の肉親として妹を愛おしく思っているし、この窒息寸前の世界で唯一俺より早く終われと願う美しい存在だと思ってる。
「朝飯食わないなら俺がもらうからな。そうなると、あぁ、そうだなぁ、昼間でご飯は食えないかもなぁ」
朝食はパン。サクサクもちもちの食パンではない。かといって、素焼き板の様に硬いパンでもない。
そのパンは保存のため、アルミ蒸着シートで不活性ガスと共にパッキングされている。
形はそう、紡錘型の細長い、いわゆるコッペパンと呼ばれていた物だ。これにはマーガリンが塗られているわけでなく、当然、ジャムなども塗られてはいない。コロッケやカツの類が挟まれているという事もなく、とても退屈でつまらない。
まぁ、極々普通の、見た目に関して言えばよくあるコッペパンだ。
しかしこれ、とても美味しいと言える代物ではないのだ。外見といえば、どうだ、特別に感想を抱くものでもない。
“昔おばあちゃんに食べさせてもらったコッペパン美味しかったなぁ”と思い出に浸れるという特典付きではあるが、まぁ、俺と妹にしかそれには気が付けないだろう。
で、とにかく見た目は普通なのだが、内部は通常のパンに比べ特別“乾燥”している。触れば砕けるほどではないが、モソモソ、パサパサとしており、食する際には水分の補給が不可欠な程であった。
それでも文句を言える立場でもないし、または、言おうと思った事もなかったが。というより、単純に俺がこの微妙に乾燥しているパンの事が好きなのだ。
食べる事は、生きる事だ。
このパンは食べ辛いが故に、“あぁ、今俺、食べてるなぁ”と実感させるものであった。なので、このパンを食べてる間は、俺は生きているのである。
なんだかんだ言っても乾パンに比べたら格段に食べやすいし、今はコイツを作った奴に感謝さえしている。
しっかし、コレ、あの日よりも前なら患者さんからクレーム殺到だろうな。口の中の水分が容赦なく奪われていく。
「ふぁ、これ、口の中がぱっさぱさだよ、ぱっさぱさ」
「そうだな。まぁ、よく噛んだら唾液がでるし、それに含まれるアミラーゼで分解されて甘いから」
「うん? う~ん、そうだね、あみらーぜが甘いからね、よく噛んでたべるよ」
当然、朝食はそれのみではない。俺の鞄には缶詰の在庫もまだまだあった。
今日開けるのは、秋刀魚の蒲焼缶である。
「ちょっと乗せてみ」
「え、えぇ、あっ……だめ、やめて……。だめだよ、いやっ。これ、ご飯じゃないんだよ?」
「哀れむような目は止めろ」
白いご飯も有ったな。忘れてた。その白メシの方が、この秋刀魚缶にあうハズだ。朝食をパンにしたのは完全なる失策ではあるが、まぁ、秋刀魚の蒲焼缶はまだあるので楽しみは取っておこう。
「まぁ、いいからいいから」
妹の手にするパンに、無理矢理蒲焼を乗せる。そしてマヨネーズを少々。彼女は怪訝な顔でしばらく俺を見つめるものの、諦めた様子でそれを口にした。
「んっ! おいしー!」
「だろ、そうだろ!」
本当は、レタスなんかもあったらいいんだけどね。
でも幸せそうに食べてくれて、すごく嬉しかった。その笑顔だけでも、俺は……。
妹は秋刀魚の蒲焼パンに喜びを溢れ出させ、歯形で形作られた断面に同様の細工を施し、何度も何度もそれを口へと運んだ。
うん、良かった。
満足してくれたのは、良かった。でも、俺の分まで食おうとした事には驚かされてしまったが。
「ちょっと、もう、それは俺の分だぞ」
「ぅ……だめ? おにいちゃんっ?」
「おまえなぁ……、目をウルウルさせてもダメな物はだめなの。これは俺の!」
「えぇ~なんで?」
「“えぇ~なんで?”じゃないの! 兄ちゃんだってお腹はすくよぉ~、分かってよ~」
この卑しい子に食べられてしまわぬよう、蒲焼の残る缶を引き寄せる。その動作とほぼ同時にビニールパックからパンを取り出し、無造作にそれを手で割り開いた。
断面は岩肌のようになり、秋刀魚缶のうまみの詰まった汁を余すところ無く染み渡らせる。
一口、また一口。その美味しさ故に、無言で食べきってしまった。
生産者の方には、俺がこれを食べる姿を見て欲しいと思った。きっと、報われたと思って、心安らかになれるはずだ。
そんな俺を、恨めしそうに妹は睨んでいた。恨めしそう、というよりは、ただ獲物を狙っていただけなのかもしれない。
どちらにしろ、微笑ましい。
缶の底にに汁が残っていた。コレは捨てるわけにはいかないだろう。勿体無いし、何より生産者に申し訳が立たない。というより、その残り汁の美味しい頂き方を知っているというだけなのだ、俺は。
俺は残りのパンをちぎり、その泥濘へ足を踏み入れて子供のように戯れた。
「あぁぁぁぁあ、お兄ちゃんいけないんだ~! すっごい行儀悪いよ、悪いよ!」
「いいんだよ、褒められたもんじゃねぇけど、この缶詰を作ったやつに対しての礼儀でもあるんだよ」
「ふーん、じゃぁ、私も」
俺が千切り持っていた俺のパンを奪い取り、同様に戯れさせている。本当は自分も最初からそれをやりたかったのだろう。あまりにも念入りに汁をすくうものだから、“手を切るなよ、気をつけろ”と途中で注意した。けども、どうやら聞こえてはいなかった。
これもまた幸せそうにしていたので、まぁ、いいか。
「おいしかった?」
「ふふん、兄者よ、余はまんぞくじゃ!」
「おう、そうかそうか。デザートもあるぞ、今日は特別だ好きなだけ食え」
「いつも、今日は特別、って言ってる。おかしいよ、お兄ちゃん」
「特別じゃない日なんてねぇよ。いるだろ?」
「いる、いるいる~!」
お前の瞳は真夏の木漏れ日か。そう突っ込みたくなるくらいには、キラキラと輝いていたと思う。
「食べたらさ、バス停まで行ってみない? 先生待ってようぜ」
「ほう……ほうほう、お兄ちゃんにしてはナイスアイデアだと思うよ、行く行く」
「うむ。じゃあ、とりあえず、桃缶食べるか」
「ぉおお、また……桃缶……」
「やだ?」
「うんん、大好き! また桃缶、カッコ嬉しいカッコ閉じ、って意味だよ」
「だよな!」
刻限が差し迫ったわけでもないが、ふたりは急いで桃缶を食べ終え、仕度もそこそこに診療所を飛び出した。
あの時もそうだったが、念の為施錠だけは忘れなかった。
ここのバス停も、あのバス停と変わらないな。周囲は緑に囲まれているし、何も無い。
この世界に取り残された者同士、仲良くやろうではないか。
ニイニイゼミが鳴いている。それは自動販売機が発するトランス音にも似ていて、それが聴こえた頃の事を思い起こさせられてしまった。
「懐かしいな」
全てが正常で清浄だと信じてたあの頃は、もう無い。というよりもう何も無い、そんな感じだ。
ただ自然が存在する。そんな感じだ。
それは、いつも優しくて、時として厳しくて。例えば、そう、昨日の日差しだったり、あの木漏れ日を生む大木だったり、この柔らかいモヤのかかった夏の早朝の空気だったり。色々とある。
俺たちが滅んだ後も、こんな朝は繰り返されるのかな。
祭囃子を遠くに聴きながら終わらぬ宿題をする。そんな寂しさを覚えた。




