第2話 かわらない、ひび。
「今日も先生は往診に出掛けているのか」
ある時も、そのまたある時も、その都度あるのは“往診中”。ここの先生は怠け者か、そう思われてしまうかもしれないが、それは大きな間違いだ。本当は彼は馬鹿の付くほどの働き者なのだ。
この辺りの生存者の健康管理を一手に引き受けているうえに、妹の面倒まで見てくれている。その人は、何度か会った事はある。その先生は、人の良い白衣の似合うロマンスグレーであった。働きぶりには感心をするし、治療のクオリティにおいても頼れる存在であることは間違いないが、誰にでも優しすぎる対応は逆に愚か者であるとも言えるだろう。
俺は直接言ってやりたい、“無理をする医者はいつかその身を滅ぼすであろう”と。医者だって神じゃない限界はある、患者を100パーセントは救えない。ならば、自分で自分を完全に治す事も、多分叶わないのだから。妹には“無理はしないでくれとあいつに伝えてくれ”と言ったのだが、彼の耳には届かなかったのだろう。
ここもまだ、終わりが近いのかもしれない。だからせめて、その灰色が綺麗なままであってほしい、そう願った。
どうせ今も、俺が先ほど逃がしたバスに乗って往診を続けているのだろうなぁ。
最寄の老人を診るために朝早く診療所を出て、その老人宅付近からバスに乗る。そして、他の地域も廻る。最近ではほとんど乗客もいないらしく、この診療所のバス停から先はその先生の為にのみ運行される往診専用車両に変身するのだ。バス運行会社のご厚意だ。だから、多少は往診が楽になったらしい。
そして楽になった分、さらに往診する範囲を広げたのだ。
多くの人、出来れば全ての人を助けたいという気持ちは理解できるが、彼の行いには心底無謀だと思わされる。妹が言っていたのだが、行動範囲の広さ故に数日帰って来ない事もざららしい。
心配である。もちろん、先生の事でもあるが、やはり妹の具合に対してである。数日に及ぶ事もある往診中、妹は“診療所に1人”。俺としてはそれがやはり気がかりなのである。
もちろん、戸締りはしっかりとしていくらしい。妹の病状は安定しているし、ここでなら1人で何でも出来る。セルフで食事をしたり、洗濯だって出来るらしい。
現にあのシーツも、全て妹が洗濯をしたのだろうか? だとしたら、あいつもちゃんと頑張っているのだな。無理はしないで欲しいが。
リハビリというわけでは無いが、多少の運動もも身体を丈夫にさせるだろうし、医者の判断は妥当なのかも。妹よりもずっと病状の重い人はいるのだ、そちらを優先したいだろう。俺が医者だったとしても、そうするだろう。
というか、ならばその中で特に体調が良くない人、遠方の人はこの診療所に呼び寄せればと思うのだが。
そういう患者さんたちにとっても安心して療養出来る場所のはずだ、ここは。比較的汚染も少ないし、何より環境がいい。緑は綺麗だし少し歩けば川もある。
そして、この場所で医者や周辺環境の他に感謝したいのは、なんと言っても診療所に寄り添うように立つ大きな一本の木だろう。決して背丈が高いわけではない。しかし、枝振りが素晴らしいのだ。こいつの根元に立つと、周囲の鬱蒼とした木々のお陰もあってか、空が見えなくなるほどなのである。もちろん、“見えない”と言ってもネガティブな意味ではない。
横に広がった枝葉が、夏の強い陽光を適度に遮ってくれる。そして、漏れ出る光が地面に宝石をばら撒き、それを妹は綺麗だねと笑顔で言った。
ただ一つ不満なのは、設備の問題だ。
この最悪な状況に陥ったのは、やはりあの日からだ。その日降り注いだもう一つの悪い物が、この診療所のあらゆる電子機器を一瞬にして破壊した。
心電図モニター、デジタルレントゲン撮影機器、カルテなどを管理しているコンピューター。あとは、俺も知らないものばかりだ。全て、と言った方が早い。
テレビも勿論破壊されており、妹は“つまらなーい”とぼやいていたっけ。
大体の機器が破壊された今、自宅もここも出来ることはそう変わりはない。先生も妹の様子をみる程度なのだから。
しかし、ここの方が環境もいいし、治安もいい。
もっとも、ほとんど全ての人間が死んだ今、治安を気にしている人間も少ないだろうけど。
「はははっ」
俺って笑えたんだ。
治療法も分からない病なので、ここで定期的に医者に様子を見てもらえるだけでもありがたい。ありがとう。
少しだけ暗い廊下には、1脚のロビーベンチが置いてある。人工皮革のそれは輝きを失い、ところどころひび割れていた。半夏生以前、おそらくはここでご老人たちが雑談に花を咲かせていたに違いない。座面のへたり具合から、その様子が目に浮かぶようだ。
そういう時代もあったのだ。騒がしく、生を謳歌した、人類そのものみたいに。
そして、自らの過ちで種としての健康を損ない、死に至った……と。そういう事なのだろう。
端に腰をかけ、息を整える。
妹には、バスに乗り遅れてあの石段を使う事態に陥った事を悟られたくない。可能なら着替えたいが、今は汗が引くのを待ちたい。
結局、汗が引く事はなかったが、息に関してはだいぶ整った。
両膝をあげて勢いよく立ち上がり、光の溢れているはずの病室へとゆっくりと向かう。俺は妹を驚かせないように、出来るだけ物音をたてないように入って驚かせるつもりだったが、病室での一歩目でその目論見は外れる。
ぎぃ。歴史を刻んだ床は、俺の体重を受けて軋んだ。
「あ、お兄ちゃん。やっときた。何やってるんだろうなぁ、って気になってたところなんだよ」
「だよね、バレてると思った。だって、お前、耳も凄くいいもんな」
「あははは、そうだね」
彼女のベッドはリクライニングの出来ない古いパイプベッドだ。
そのヘッドボードと腰の間に枕をあて、座りながら会話をする。その様子からは体調の良さを感じ取る事が出来た。
笑顔も、いつもと変わらない。
「先生また往診?」
「うん、そう。でも、他の人を助けに行ってるんだよね。だからいいの。それに、こうやって外を見るのが楽しいんだ」
「なんだよお前、最初の頃は“テレビ無いの~つまらないぃ!”ってうるさかったくせにな。あはははは」
「うぅ~もう~」
頬を膨らませる元気もあるみたいだ。
「まぁ、そんなに怒るなって。今日はいい物買ってきたんだぞ! ほれ!」
きっと今の俺は、馬鹿みたいに満面の笑みをしていたに違いない。
鞄の中から、あのボロボロの商店で購入した桃の缶詰を取り出し、“この紋所が目に入らぬか”と言わんばかりにそれを妹に突き付けた。
「わぁああああ、それ! 大好き!!」
「俺とこの桃の缶詰、どっちが好き?」
「う~ん……」
そこは悩む所なのかなぁ……。
「桃の缶詰!!」
「ですよね……知ってた……。まいいや、開けてくるから待ってろ」
勢いよくベッドから降りようとする妹を制止し、診療所の台所へと向かった。
俺の足取りは、とても軽かった。あの石段なんて、障害にはなりえないのだ。
ま、ロビーベンチで少し休んだ、ってのも、その足取りの軽い一因ではある。
桃、美味しいかなぁ。




