第1話 おわりのばしょ。
古臭いバスだが、追いかけるには速過ぎる。乗り遅れた俺は跪き、“なんだよ、全く、もう”。
本当は腹の奥からひねり出すように叫びたかったんだ。でも出来なかった。俺は小心者だから。それだけの話だ。もっとも、周囲に愚痴や叫びを聞いてくれる人などいないのだが。
山深い元国道にトワエモア、ひとりとひとつ。
半夏生に薄黒くふやけた時刻表は、その存在意義を失いかけている。けれども、その黒に滲む文字の場所からは大体の運行予定が推測できた。次は明日の午前7時。もっともこのご時勢、それさえも怪しいのだけど。
参ったね、参ったよ、とても。
元々空白なのが幸いして何とか推測は出来たが、その空白をとても憎たらしく感じる。
今現在の時刻は“今日”の午前7時2分。という事で、24時間の暇がほぼ確定した。24時間と言えば、丸一日だ。じいさんの運転する軽トラさえ来ぬこの元国道で、無限にも思える1438分をいったい何をして過ごせばいいのだろう。友人と電話でもすればいいんだ、と言いたいところだが、あいにくここには携帯の電波さえ届いていない。
あの日、突如現われた太陽が多くの文明機器を殺した。
必死に運行を続けようとした小さな地方の奇特なバス会社は、倉庫で眠っていたじいさんを引っ張り出してきた。それで、あの至極古臭いボンネットバスなのである。今この世界で動く自動車は、電子制御装置の無いそれくらいだったのだろう。
なんでもいいさ。
今は乗れればなんでもいいのだ、俺としても。最悪、速度の遅い牛車でも構わない、というより、それはそれで逆に乗ってみたい気持ちもあるが……。
それはそうと、あのバスもいつまで運行出来ることやら。備蓄ガソリンだって恐らくはもう無い。あのバスがあれで最終便だったかもしれない。永遠に訪れないかもしれない“明日の午前7時”を待つべきなのだろうか、疑問である。
人もいない、何も無い。でも目的地はある。
となれば、歩くしかないだろう。このクッソ付く程に糞暑い夏空の下。太陽め。時としてその核融合の塊は、恵みよりも厳しさを教えてくれる。
“歩くしかない”とはいったものの、歩けど歩けど、この道は緑ばかりなり。人間という管理者を失った文明社会の産物は、こうも脆いのだ。ガードレールは錆び、所々アスファルトはひび割れている。
いやいやいや、これは特別おかしな事ではないか。よくある事だ。ただ、そのひび割れからは夏草が力強く飛び出している。人間だって決して弱いとは言えないだけど、彼らはそれ以上に、比べ物にならないくらいにとても強いのだな。俺も彼らのように強くありたいものだ。
まぁ、遠慮無しに踏みつけてやりますが。サディストではない、これは愛情である。麦踏みと同じで、これは彼らをきっとさらに強くする。俺たち人間は踏まれるどころか弱いくせに背丈だけは伸ばして、自分の重さで折れてしまったが……。だから、これからは彼らに頑張ってもらいたい、そう思った。
子供のように、夏草を踏みつけつつ、すこしうな垂れて脚を動かし続ける。
いやぁ、しかし、気が遠くなる。俺はどのくらいの足跡を残してこれたのだろう。当然だが気になるのは人生の歩みではなく、あのバス停からからの距離である。
依然として風景は変わらず、四方を覆う萌える緑からは蝉時雨のヴァーチャルサラウンド。そいつらが時々、“バーカバーカ”と言ってるような気がした。もちろん、奴らがそんな事を言うわけない。多分、暑さのせいで俺がおかしくなっているだけなのだろう。
遠い昔の記憶のように、今は視界が鮮明で強烈なモノクロになっている。
「バカって言った方が……バカなんだよ、バカやろう」
いや、バカではないか。仮にバカだとしても、残る数週間を精一杯に生きている。俺たちとそう変わりはしないんだなって考えたら、急に親近感が沸いてきた。
そんな彼らは何を思い“しゅうまつ”を迎えるのだろうか。憐憫を注ぎつつ彼らと同じ境遇の我々を思う。すると、自然と乾いた笑いが出てきてしまった。
諦めとは違うはずなんだけど、ともかく、気分は少しだけ晴れたような気がする。
ヴァーチャルセミウンド。
「はははっ……あぁ、アツい」
こうしている間にも、体内の水分は見る見るうちに目減りしていくのだ。
「水飲みたいぞ~」
1分1秒の遅れが、この場合、命取りになり得る。
自動販売機……無い。ファミレスも……無い。何も……無い。
粗大ゴミは色々あった。ありえないほどに腐食した郵便ポスト、お馴染みの軽トラック、自動販売機、エトセトラ、エトセトラ。
泳がせた視線の先に、一軒の商店を発見する。
「お、おお!」
店先に設置してある自動販売機は、やはり腐食は受けていた。けど、ディスプレイされたサンプルに興味を引かれた。
その商品そのものは今でも売って……いや、最近まで売っていたものなのだけど、デザインがまるで違う! というより容器がガラスの瓶だ。
「あぁ、これ、ファンダじゃん、ふっる。わぁ、こっちはスプレートか。うあぁ、すげぇな」
まるで化石発掘の現場だが、これらはきっと大きな災いが起こるよりも前からこの古い状態だったのだろう。だって、余りにも古すぎる。でも、余りにも楽しすぎる。
これが飲めたら幸せなんだけどなと思考しつつ、商店へとお邪魔した。日よけのためである。
「お邪魔しま~す……っと」
まだまだ日は高く、窓の外は鮮やかな緑。でも、この商店の中はちょっと薄暗くて、なんだか時が止まったかのような灰色をしていた。一足早く人類絶滅後の世界を見られる場所、そんな感じだ。
ただ、この商店は人の熱を失ってから然程時を経ていないのだろう、ホコリは舞っているものの、缶詰の商品に関しては長期安全保存に耐える現行の物であった。恐らく、食べても問題はないはずである。
このお金、今はいくらの価値があるのかなぁ。そう疑問を持ちつつも、貼られている値札シールの額面通りの金額を精算カウンター、その人目に付かない所にお金を置いた。まぁ、一応ね。
ビニールパックの食料については、元々保存性の高いモノ以外には手を出さない方が無難だろう。空腹に負けて食して腹なんか下してしまったら、それこそ事である。汗よりも遙かに早く水分は逃げていき、それに伴い体力も失う。動けなくなったら、後は夏の餌食になるだろう。水分の蒸発は更に加速するかもしれないが、そうなればもうそれの心配をしている暇も無く速やかに死に至るだろうし、それを心配する必要も無かろう。
どうなるんだろう。腐敗するのかなぁ。ミイラ化するのかな。日本だったこの島国は、今も昔も高温多湿だ。きっと腐敗するのだろうけど、身体は微生物と植物の栄養となる。自然へと還れるのだから死んだように生きているよりも幸せだろうし、神様だってきっとそれを切に望んでいる。この世界では、幸福な死こそが唯一の救いだ。
でも、俺はまだ死にたくはない。生きることにすがり付いている。だから、食べるのは腐ってる可能性が極端に低い、缶詰だけだ。もちろん、缶詰では満足できない。出来れば、生の野菜が食べてみたいものだが、半夏生から日は浅く、恐らく育った野菜はまだまだ食用に出来る物ではないだろう。
どこかでは、まだ動かせる野菜工場で栽培は続いているらしいが、それもあくまで噂だ。その噂さえも、もう数ヶ月前の話で、今どうなってるかは全く分からない。
様々な“買った”商品を鞄へと放り込み、俺は炎天下へと足を踏み出す。
扉はしっかりと閉めた、泥棒なんていないだろうけど。
アスファルトに靴が張り付かないか心配になるくらいに、そこからは輻射熱が殺意を持って俺に挑んでくる。唾でも吐きかけてやりたい気分だが、その唾でさえ今は勿体無い。
缶詰を開ける。ミカンの缶詰だ。
砂糖がこれでもかと溶けているシロップを飲み干すが、疲れからかそれさえもとても美味しく感じる。プラスチックの被覆のお陰か、昔ばあちゃんちで食べたときに感じたような缶由来の金属臭さはなかった。
糖分が体を巡る。
疲れが取れるような感じがした。
これ、あいつにも食わせてやれたらいいのになぁ。
少し身体が落ち着く。疲れからのぎこちない動作で携帯端末を取り出した。電話をかけたいわけではない、ただ、時が知りたかっただけだ。
午前10時9分。大体3時間ほど歩いた。距離は分からない。GPSは一応機能しているみたいだが、掻き乱された電離層ではその情報も不正確だ。
D2Dネットワークにも繋がらない。十数キロメートル圏内に端末は無いみたいだ。これが繋がれば、少しは孤独を紛らわせることも出来るのだろうけど。まぁ、仕方が無い。
運転手に降車予定のバス停の名前を告げれば、寝ている間に目的地最寄のバス停だった。数分だけ歩かなければならないのだが、俺が今日、5時間ちょっと歩いた事を考えればそれは一瞬で終わる距離であり、疲労具合は比べ物にならないだろうな。
“もう帰ろうかなぁ”と冗談交じりに呟く。そして見上げると、見覚えのある鉄塔が視界に入ってきた。
おお、あと少しだ。あいつに会えると思うと、棒のようになった脚も出発した時に比べて元気になった気がした。まぁ実際はかなり疲労が蓄積しているし、このちょっと先にある横道を入るとすぐに見えてくる長い石段も登らないといけない。
疲労度プラマイ0といったところか。それで十分だ、いや、十二分過ぎる。
緑に覆われた長い石段をゆく。それを登り終えると未舗装の道が長く続いている。
そこをさらにしばらく進むと、少しずつ視界が展開していった。そしてその先に見えたのは、風景に溶け込むかのように夏蔦の這う白い壁の診療所だ。長い“旅”の目的地でもある。
バスに乗れていたら、正面入り口から堂々と入れたのだが……。地図上では裏手ルートの方が短いが、バスを乗り遅れた俺に与えられた試練に関しては、何も言うまい。
俺は、古びた木製の扉を、ゆっくりと開けた。




