エピローグ3
エピローグ 3
――だれもいなさそうだけど。
トーイは、鏡にできた穴を見つめた。穴から室内が見える。中に、魔女はいるのだろうか。トーイは室内を覗き込み、こんにちは、と声をかけた。
トリックを解いたのは偶然だった。というか、特になにか考えた末の行動によるものではなかった。扉に取り付けられた丸い鏡を見て、なんとなく回したい、と思ったのだ。
トーイは木枠に手をかけ、両手を互い違いに上下させた。すると簡単に木枠は回り、中の鏡が移動したのだ。具体的には、木枠は反時計回りに回転し、それにつれて、最初右手側にあった鏡面が、上に行き、左に行きかけたところで、突然すとんと落ちたのだ。詳しく断面を見てみると、最初上にあった鏡面の後ろに、その移動した鏡は収納されていた。
例えば、これが鏡以外のものであったなら、そもそも、木枠で区切られている段階で、一枚物ではないのではないか、と思うはずだった。だが鏡は、どこで区切られていようと、わずかならば段差があろうと、その表面に写す像を、どの角度から見ても違和感なく『一枚絵』として映し出すせいで、それが一枚物ではない、ということが分かりにくかった。逆にいえば、そのことを利用したトリックなのであるが、トーイはその辺のことを、解いた今になっても理解していなかった。ただ単に、
――丸い引き戸なのだな。
と思っただけである。
というか、これがトリックであることに気がついてすらいなかった。
魔女は鏡の中にいる。ということは、彼女に会いに行くためには、鏡を通らなくてはいけない。だから自分は鏡を開けた。
それだけである。
開け方を迷ったのも、回る引き戸を自分ははじめて見たせいと理解していた。
「こんにちは」トーイは、もう一度、今度は大きめな声で呼びかけた。
返答はなかった。
そもそも、人の気配がしない。空気に動きがまるで感じられないのだ。
――留守なのかな。
トーイは、おじゃまします、といって木枠に手をかけ、身を縮こませ中に入った。
中は、トーイの実家のリビングほどの大きさしかなかった。テーブルとイスが部屋の真ん中に、所在なげに置かれているだけで、他の家具はない。ホコリなどは溜まっておらず、きれいにしてあるが、生活臭のようなものは感じられなかった。
今も不在だが、不在は今だけではないような気がする。
つまり、魔女の住処はここじゃない。
トーイは首をひねった。
「鏡の中……」トーイはつぶやき、室内を見回す。
条件は、合っているような気がするのだが……。
トーイは、とりあえずイスに座った。テーブルに両肘をつき、両手であごを支えた。
これはどういうことなのだろう。
情報通らしい男からの情報では、魔女は鏡の中にいるとしか聞いていない。だから、鏡の中に入れば、すぐに彼女に会えるものだと思っていた。
だが会えない。
――でも、ここじゃないとすると、
文字通り鏡の中ということか。しかし、鏡の中に文字通り入ることなどできないだろう。
ふう、と一息ついてから、トーイは腰を上げた。
いつまでもここにいても仕方ない。ここではないのだとしても、この辺にいることは確かだと思う。付近を探索してみよう。
トーイは扉に近づき、腰をかがめた。扉にできた穴に、上半身を入れる。そこで、血が沸騰した。上からトーイに向かってなにかがきている。全身の毛が一気に立ち上がり、視界が狭まった。
――死ぬ。
とっさにそう思った。考える間もなく身体が反応していた。前転するように扉から飛び出すと、それから横に飛んだ。側宙をするように身体をひねる。遠心力によって剣が鞘から抜け出し宙に浮かぶ。着地と同時にそれを引っつかむと、それを前に構え、中腰に構えた。
扉の前に、何者かがいた。
棒立ちにこちらの様子をうかがっている。
身体にフィットした黒尽くめの衣装はほぼすべてを隠している。目だけを表出させているが、表情すら分からなかった。
――どうして?
トーイは、まだ現状を理解していなかった。モンスターに襲われるなら分かる。だが人間に襲われる経験もなければ、覚えもなかった。
男は、物言わず近づいてきた。武器の類は持っていない。だからといって、友好的な気配もまるでない。勝てない――反射的にそう思い、視界が涙でにじんだ。
初めて意識する死の世界。
それが、もう目と鼻の先にある。
戦えない。かといって、逃げきる自信もなかった。そもそも、足がすくんでいる。
トーイはパニックの中にいた。不条理な現状に、最善の策すら浮かばない。
男が懐に右手を差し入れると同時に一気に間合いをつめてきた。反射的に後ろに飛び、剣を背中に隠した。着地と同時に剣を上から振り下ろした。信じられないほどに軽い剣だからこそできる前動作を隠した動きで、この剣の特徴を知らない男には意外な行動だったと思うが、男はその動きにもついてきた。剣を紙一重でかわし左手は背後に隠す。と同時に懐から出した何物かをトーイの首元に向かって差し出す。太陽に反射しそのなにかが光る。トーイは左手でその手を軽くはじいた。そこまでは意識的にやったが、無意識のうちに剣を持った右手も動いていた。剣の重みを感じない。長剣が腕一本で斜めに持ち上がる。男の左腕が姿を現す。指先から腰の辺りに細い光が一本見えた。男はそのなにかで剣を受け止めようとしたが、トーイの一閃はなにものも意識させずに通過した。剣先に太陽が重なる。
男の左腕が回転し、ふっ飛んだ。腰からつながる一本の光が、くにゃりと歪む。腕はその切り口を男からはなした状態で地に落ちた。
男の動きが止まった。
――また腕を、
切り離してしまった。トーイは、やはり道中襲われ、腕を切り離してしまったゴブリンの顔を思い出した。しかし今度はモンスターじゃない。人間の腕をだ。でも自分になにができただろう。先に襲ってきたのは相手だ。自分は身を守るために、仕方なく――。
いや、剣がトーイを動かしたのだ。
やはりこの剣は、ふつうじゃない。でも、そのなにかの力に、またも自分は救われたのだ。片腕を失ったこの男に、負けることは考えられなかった。
「どうしますか?」トーイはそう男に訊いた。罪悪感は、意識的に隠した。
男はゆっくりとした動きで、己の腕を拾った。
「どうして、襲ってきたんですか? ボクはなにもしてないのに……」
そのとき、男の衣装に赤黒い血がこびりついているのが分かった。
彼のものではない。
――だれのだ?
そう、気が一瞬揺れたそのときだ。男は一気に距離を開けると、そのまま木の群れに飛び込み姿を消した。
トーイだけがその場に取り残された。
いったいなんだったんだ――。
一人になって、冷静さを取り戻し、あらためて恐怖が蘇ってきた。
いきなり襲われた恐怖。人の腕を切り離してしまったことへの恐怖。人に命を狙われたことに対する恐怖。その理由が分からないことに対する恐怖。
トーイは口を引き締め、背中から鞘を地に下ろした。その中に剣を納め、あらためて鞘を背負う。
――なにかがここで起こったんだ。ここにいる、魔女をめぐって。
トーイは崖に沿って建つ建物を眺めた。
ここにいるはずの魔女。ヒントは鏡。だが、鏡の中にはいなかった。つまり、魔女の居場所は、その論理的向こう。トーイは建物の側面に回った。崖を正面に見据える。崖、建物、トーイ。
――そこか。
トーイは建物に近づき、壁に手をついた。そして押す。びくともしない。両手を突き、さらに押した。力を込め、足を踏ん張り、建物を押した。ずず、と建物自体が動いた。トーイは歯を食いしばり全力を込め壁を押した。ずずず、と建物が動いていく。まだ動く。そう思ってトーイが足を踏み出したときだ、そこになにもなかった。
――あ!
と思う間もなかった。足は地に吸い込まれる。踏ん張りようがなく、そのままトーイは壁に両手をついたままの姿勢で地に吸い込まれていった。
まず片足が地に着いた。その衝撃で、膝が折れる。足につづいて腰が地に着いた段階で、初めてトーイは反対の膝が目の前にあることを知った。
――なんでここに膝があるんだ。
そう思ったと同時に、激しい痛みが足の付け根に走った。
「痛っ!」叫びながらトーイは股間を押さえながら丸まった。
周りを見ると、縦穴の大きさは人一人がやっと通れるぐらいのものだった。そこに片足を突っ込んでしまったために、もう一方の足が取り残され、大きく足を広げ身体を折るような姿勢で穴に落ちることになってしまったようだ。
――なんでこんなことに……。
トーイは暗澹たる気分になった。痛みが尋常じゃない。もともと身体は硬い方なのだ。
――ここで死ぬんだろうか。
モンスターに襲われても負けることはなかった。いきなり凄腕の人間に襲われても負けることはなかった。なのに、こんなところで致命的な怪我を負うとは。このまま動けなければ、ここで餓死だ。
トーイは、あらためて自分はひとりっきりなのだと認識した。
だれも助けてくれる人は、こんな穴の中にはいない。自分はもうだめだ。ここで一人誰にも知られずに死ぬのだ。そう思って、絶望的な気分になった――。
しばらくすると痛みがひいてきた。筋を少し伸ばしただけで、怪我ではなかったようだ。トーイは周りを見回した。上を見ると、穴の入り口までは自分の背丈の倍ほどだった。なにもなければ上がるのは大変だろうが、背中側、つまり建物とは反対の土壁にハシゴがあった。これで上り下りするのだろう。そして、目の前には横穴があった。幅はやはり人一人分と狭いが、高さはわずかに背をかがめるだけで移動ができるほどのものだった。しかし光が届いていないので、先が見えなかった。
トーイは立ち上がり、その横穴を進んだ。先は見えないが、そう長いはずではないのだ。この上の建物の横幅は、そうなかった。この横穴の長さも、それと同じぐらいのはずなのだ。
トーイは、この建物付近の構造を頭の中で思い浮かべた。
崖に沿って建てられているかに見える建物。だが、その全体は見えているだけのものではなく、崖の中にもまだあるのだ。そして、その建物の向こう――建物の外壁と崖(内部)の岩肌の間には隙間があり、その分だけ建物ごと崖側に動く。動いたことにより、建物の下敷きになっていた縦穴――崖の内部に隠された部屋に通じる入り口が姿を現す。
つまり扉の仕掛けと同じ構造なのだ。ずらすことにより穴が開き、入り口が現れる。
――魔女の本当の居所は、この先だ。
トーイは確信していた。
だが、真っ暗でなにも見えないので、おっかなびっくり、両手を前に出しながら、中腰になってゆっくりと進んだ。
程なく、両の指先が岩肌に当たった。ここが行き止まりだ。ということは――トーイは上を見た。見えないので、手を伸ばす。指先はなににもあたらなかった。空間がある。
トーイは手を上げたまま、指先にふれる岩肌の感触で形状を確かめた。
そこは、トーイが落ちた穴、つまり入り口と同じ構造のようだった。入り口と同じようにハシゴもあった。
トーイはそのハシゴに手をかけ、上った。
一歩一歩ハシゴを上り、ここまできたらもう安心、一本道だ。という安心が油断を生み、思い切り頭を天井にぶつけた。
「痛っ!」トーイは頭に手をやり、それからそのまま手を天井に当て、力を入れる。
天井は軽くなかった。だが開かなくはない。力を込めていくと、それはゆっくりと開き、できた隙間から光が漏れ出した。少しまぶしく感じ、薄目にする。
まず毛先の長い絨毯が見えた。そしてその向こうに、寝そべっている人の姿が見える。
「こんにちは……」そう声をかけたが、嫌な予感がした。
案の定、返答はなかった。
トーイは天井をすべて開き、室内に入った。
異様な部屋だった。まず、温度が異常に高い。見ると、室内の中央に大きな鉄釜があり、そこから湯気が出ている。覗き込みむと中身はシチューだった。
次に目に入ったのは、内壁だった。壁が本でできていたのである。壁に沿って本棚が並べられ、そこに本がびっしりと収納されているので、感じた印象だった。
トーイは、それらのものを横目にしながら、倒れている人に近寄った。
老齢の女性だった。顔は少し骨ばっていて、眼窩が落ち窪んでいる。眉毛はほとんどなく、真っ白の髪の毛は、ひっつめにされている。
ふかふかした茶色のワンピースに、肩がけの黒マントを着ていた。そして、胸からは木でできた柄。そこを中心にできている赤黒い染み。
死んでいた。
死因はいうまでもなく、刃物による刺殺だった。
犯人は、先ほどの男なのだろうな、そうトーイは思った。
身体から力が抜け、トーイはその場に座り込んだ。
もう少し早くきていれば、助けることもできたのだろうか。
今はじめて会った女性だ。それまでの半生も知らない。だが、彼女のことを思うと、悲しくなって涙が出てきた。
トーイが、この建物の仕掛けに気づくまでの時間、彼女は一人で死んでいたのだ。
さびしかったろうな――。でも、
彼女は、どうして自分の住処にこのような仕掛けを施したのだろう。
孤独を好む性質なのか。
一人になりたくて、部屋を密室化させる仕掛けを施した――?
いや――この密室の謎を解けるような人としか会いたくなかったのかもしれない。
鏡の中にいる、というヒントを許していることが、彼女の心情を表している気がする。
試練を乗り越え、自分を尋ねてくれる人物を待っていたのではないか。
だが、彼女を訪ねた人物は、自分の命を狙うものだった。
彼女は、彼をどのような表情で出迎えたのだろう。
もし自分が先にここにたどりついていたなら、どのような顔で出迎えてくれただろう。
トーイは目尻をぬぐった。
――生きているあなたに会いたかった。
そう、つぶやいた。
終わり
読んでいただきありがとうございました。