ただいまと、協力。
定期技能考査から数日が過ぎた。休日の朝。
王立アルセリア魔法学院は静まり返っている頃だろう。けれど、私には休日だからといってのんびりしている時間はない。
朝食を終えた私は、庭へ立て掛けられた一本の大剣の前に立っていた。黒を基調に、ところどころ赤い装飾が施された大剣。師匠が私のためだけに用意してくれた、大切な相棒だ。
「よし、やるか。」
レヴィア様――いや、師匠は腕を組みながら私を見る。
「はい!」
私は柄を握り、ゆっくりと息を吸い、自己作用魔法で身体へ魔力を巡らせる。
腕だけじゃない。
脚。
腰。
全身を支えるように意識する。
「……っ!」
踏み込む。
以前なら持ち上げることすらできなかった大剣が、今ではゆっくりと地面を離れる。
そのまま腰を回し、前へ。
ずしり、と重さが腕へ伝わる。まだ重い。
それでも――
「はぁっ!」
大剣は途中まで弧を描き、そのまま地面を削るように止まった。
ガリッ、と乾いた音が庭へ響く。
「……はぁ。」
私は肩で息をしながら苦笑した。
「また最後ですね。」
「惜しい。」
師匠は庭へ降りると、剣先が通った跡を見下ろす。
「昨日なら、そこまで振れてない。」
「そうですか?」
「ああ。」
師匠は私を見る。
「ちゃんと前へ進んでる。」
その一言だけで、胸が少し軽くなった。
「でも最後になると腕へ力が寄る。」
師匠は私の腕を軽く叩く。
「ここだけで振ろうとするな。」
「はい。」
「脚と腰が止まるから、腕が慌てて仕事をする。」
「……なるほど。」
「全部一度に直そうとしなくていい。」
師匠は口元を少しだけ緩める。
「昨日より一歩進めば十分だ。」
「はい!」
私はもう一度、大剣を構え、脚へ魔力を巡らせる。
腰を落とし、ゆっくり踏み込む。
さっきより少しだけ滑らかに動く。それでも最後は重さに耐え切れず、剣先が地面へ触れた。
「うーん……。」
思わず唸る。あと少しなのに。
本当にあと少しなのに届かない。
「焦るな。」
師匠は笑う。
「あと少し、って思えるようになっただけでも進歩だ。」
「そういうものですか?」
「そういうものだ。」
そう言うと、師匠は私の頭へぽん、と手を乗せた。
「最初は持ち上げるだけで後ろへ転がってたんだからな。」
「それは忘れてください。」
「無理だ。」
「そこは忘れましょうよ。」
「弟子の黒歴史を覚えておくのも師匠の仕事だ。」
「そんな仕事あるんですか?」
「今作った。」
「もう……。」
私は思わず笑ってしまい、師匠もつられて小さく笑った。
「今日はここまで。」
「え?」
「もうですか?」
「上手くいった感覚が残ってるうちに終わる。」
「でも、まだ振れます。」
「振れる。」
師匠は頷く。
「でも続けたら、その感覚まで疲れで分からなくなる。」
「……。」
「修行は量だけじゃない。」
師匠は大剣を見つめる。
「ちゃんと終わるタイミングも覚えろ。」
私は少しだけ考えてから頷いた。
「分かりました。」
「よし。」
師匠は満足そうに笑う。
「じゃあ昼飯の準備でもするか。」
「あっ。」
そうだった。今日は学院が休みの日で、昼頃にはエマが遊びに来る約束になっている。
「急がないと!」
私は慌てて家へ戻る。
朝のうちに仕込んでおいたスープを温め直し、野菜を切り、肉へ軽く塩を振る。台所へ立つと、不思議と気持ちも切り替わる。
「師匠、そのパン食べないでください。」
「まだ食べてない。」
「今持ちましたよね?」
「確認しただけだ。」
「何をですか?」
「パンかどうか。」
「見れば分かります。」
「念のため。」
「絶対違います。」
そんなやり取りをしていると、玄関から控えめなノックが聞こえた。
「こんにちはー。」
「エマ!」
扉を開けると、エマが小さな紙袋を抱えて立っていた。
「お邪魔します。」
「いらっしゃい!」
エマは少し照れながら紙袋を差し出す。
「焼き菓子買ってきたの。」
「ありがとう!」
「食後に食べようと思って。」
「ちょうどよかった。」
家へ上がったエマは、ふと庭へ目を向けた。
「……庭荒れてるね。」
「え?」
「ほら。」
私も振り返る。庭には朝の修行で増えた剣跡が何本も刻まれていた。
「あ……。」
「頑張ったんだね。」
「頑張った結果です。」
「レヴィア様、大変ですね。」
「まあな。」
師匠は苦笑しながら庭を眺める。
「そのうち地面くらい割るようになる。」
「そんな簡単に割りませんよ。」
「いや、最終的には割る。」
「目標なんですか、それ。」
「目標だ。」
師匠は当然のように頷く。
「大剣なんだから、それくらいできた方が格好いい。」
「完全に師匠の趣味じゃないですか。」
「当たり前だ。」
師匠は胸を張る。
「女の子に大剣はロマンだからな。」
「そこだけは絶対曲げませんよね。」
「曲げる理由がない。」
エマはくすっと笑う。
「やっぱりレヴィア様らしいですね。」
「そうだろ。」
師匠はどこか得意そうにし、私は思わず苦笑しながら鍋をかき混ぜる。
そんな穏やかな昼前だった。
――そのとき。
部屋の空気が、不意に揺れた。
窓は閉まっている。
風でもない。
それなのに部屋の奥の景色だけが、水面のようにゆらりと歪み始めた。
「……え?」
エマが小さく声を漏らす。
歪みは次第に大きくなり、やがて縦に裂けるように空間が開いた。
光の向こうから、一人の女性が軽い足取りで部屋へ入ってくる。
緑を基調とした旅装束。
肩までのショートボブ。
どこか旅慣れた雰囲気を纏いながら、その女性は私たちを見ると、まるで自分の家へ帰ってきたかのように笑った。
「ただいま。」
師匠は驚く様子もなく、その女性へ視線を向ける。
「おかえり。」
私は固まったまま、二人を交互に見つめた。
部屋の中に静かな沈黙が流れる。
私もエマも言葉を失ったまま、その女性を見つめていた。
そんな私たちとは対照的に、師匠だけがなぜかいつも通りだった。
「今回は随分早かったな。」
「近くまで来てたからね。」
女性は肩を竦める。
「少し時間ができたし、顔だけ出そうかなって。」
「顔だけの距離じゃないだろ。」
「細かいことは気にしない。」
楽しそうに笑うその姿は師匠と親しげで、不思議な雰囲気の女性だった。
「……あの。」
思い切って声を掛けると、女性はすぐにこちらを向いた。
「ん?」
「えっと……。」
何を聞けばいいんだろう。どうして家の中へ突然現れたのか。どうして師匠は普通に迎え入れているのか。頭の中で質問ばかりが増えていく。
「レヴィア。」
女性は苦笑しながら師匠を見る。
「説明してないの?」
「してない。」
「いや、しようよ。」
「今来たばかりだろ。」
「それでも、だよ。」
女性は小さくため息をつき、私たちの前まで歩いてきた。
「ごめんね。びっくりさせちゃった。」
「い、いえ……。」
「私はクロエ。」
柔らかく微笑みながら右手を差し出す。
「クロエ・フェルン。」
「よろしくね。」
その名前を聞いた瞬間、胸が大きく跳ねた。
「……クロエ、フェルン。」
聞き覚えがある。
いや、あるどころじゃない。
師匠から何度か聞いたことがある名前だ。
「まさか……。」
「そう。」
師匠が椅子へ腰掛けながら口を開く。
「八魔姫の一人だ。」
「空界の魔姫。」
クロエさんは照れくさそうに笑う。
「ディメルマギアって呼ばれることもあるね。」
「…………。」
私は反射的に姿勢を正した。
「リ、リリア・アステルです!」
「よ、よろしくお願いします!」
「あはは。」
クロエさんは少し困ったように笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫。」
「で、でも……。」
「普通に話してくれた方が嬉しいかな。」
「普通は無理です!」
「そっか。」
クロエさんはくすっと笑った。
「じゃあ少しずつ。」
そのやり取りを見ていたエマも慌てて頭を下げる。
「エマ・フィールです!」
「よろしくお願いします!」
「よろしくね、エマちゃん。」
自然に"ちゃん"付けで呼ばれたエマは少し驚きながらも笑顔を返した。
「ところで。」
クロエさんが部屋を見回す。
「なんかすごくいい匂い。」
「あ。」
私は鍋を思い出す。
「昼ご飯!」
「そうだった。」
師匠も頷く。
「ちょうど作ってる。」
「やった。」
クロエさんは嬉しそうに笑った。
「旅の途中って簡単なものばっかりだからさ。誰かの手料理、久しぶり。」
私は思わず師匠を見る。
「師匠。」
「なんだ。」
「……増えましたよね。」
「一人な。」
「その一人が大きいんです。」
「増やせるか?」
「できますけど……。」
朝から多めに作っていたおかげで、材料は足りそうだった。
「なら問題ない。」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だ。」
師匠は当然のように言い切る。
クロエさんが笑いながら割って入った。
「私も手伝うよ。」
「え?」
「料理くらいはできるから。」
「本当ですか?」
「レヴィアよりは。」
「余計な一言だ。」
「事実でしょ?」
師匠は何も言い返さない。
……否定しないんだ。
エマも立ち上がった。
「私も手伝います!」
「じゃあパンお願い。」
「うん!」
気付けば四人で台所へ立っていた。
クロエさんが皿を並べ、エマがパンを切り、私は肉を焼く。
師匠は鍋を運んでいる。
さっきまで二人だった家が、一気に賑やかになっていた。
「リリアちゃん。」
クロエさんが肉を焼く音を聞きながら話し掛けてくる。
「はい。」
「レヴィアの料理、食べたことある?」
「あります。」
「どうだった?」
私は少しだけ考えた。
「……食べられなくはないです。」
「遠慮したね。」
「遠慮しました。」
クロエさんが吹き出す。
「やっぱり。」
「昔からそんな感じだったんですか?」
「もっと酷かったよ。」
「おい。」
師匠が振り返る。
「変なこと吹き込むな。」
「変じゃないでしょ。」
クロエさんは楽しそうに笑う。
「昔のレヴィアなんて、お肉焼いて終わりだったもん。」
「十分だ。」
「野菜は?」
「肉を食べた魔物が食べてる。」
「まだその理論使ってるの?」
「便利だからな。」
エマが堪え切れず笑い出した。
「レヴィア様、本当にそう考えてるんですか?」
「考えているぞ。」
「師匠。」
私は苦笑する。
「今日は野菜多めです。」
「なんでだ。」
「必要そうなので。」
「私は元気だぞ。」
「将来のためです。」
師匠は少しだけ唸ったあと、諦めたように肩を竦めた。
「まあ、お前が作るなら食べる。」
「最初からそうしてください。」
クロエさんがその様子を見て微笑む。
「変わったね。」
「誰が。」
「レヴィア。」
「昔は自分で作るって言って聞かなかったのに。」
「今は弟子がいる。」
師匠はさらっと言う。
「任せられるなら任せた方が早い。」
「それだけ?」
「それだけだ。」
そう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
私は少しだけ笑みを浮かべながら、焼き上がった肉を皿へ盛り付け、料理を机へ並べ終えると、四人で席に着いた。
「いただきます。」
自然と声が重なる。
私は温かいスープを一口飲み、ほっと息をついた。
修行のあとの食事は、それだけで少し幸せな気持ちになる。
「美味しい。」
クロエさんが素直に笑った。
「リリアちゃん、料理上手だね。」
「あ、ありがとうございます。」
「いい弟子を見つけたじゃん。」
クロエさんが横目で師匠を見る。
師匠は少しだけ得意そうに笑った。
「だろ。」
「そこ、自慢するところなんだ。」
「私の弟子だからな。」
師匠はパンをちぎりながら当たり前のように言う。
「料理も頑張るし、修行も手を抜かない。」
「褒めすぎです。」
「事実だ。」
「照れます……。」
師匠は少し笑うと、スープを一口飲んだ。
「それより。」
クロエさんが窓の外へ目を向ける。
庭の端に立て掛けられた大剣を見て、興味深そうに目を細めた。
「あれがリリアちゃんの大剣?」
「はい。」
「近くで見てもいい?」
「もちろんです。」
食事を終えたあと、四人で庭へ出る。
クロエさんは大剣の前まで歩いていくと、その大きさを改めて眺めた。
「イヴらしい仕事だね。」
「知ってるんですか?」
「材料集めを少し手伝ったから。」
クロエさんは刀身を軽く指で叩く。
「レヴィアが『弟子に大剣を持たせる』って言い出した時は、相変わらずだなぁって思ったけど。」
「女の子に大剣はロマンだからな。」
「それ、本気で言ってる?」
「本気だ。」
師匠は一切迷わず頷く。
「リリアに似合うと思った。」
「……。」
その言葉に、思わず大剣へ目を向ける。
まだまともには振れない。
それでも師匠は最初から、私がこの大剣を使えるようになると信じてくれている。
「リリアちゃん。」
クロエさんが私を見る。
「修行、ちょっと見せて。」
「はい。」
私は大剣を握る。
脚へ魔力を巡らせる。
腰を落とし、ゆっくりと踏み込む。
大剣は朝より滑らかに動く。
それでも最後は重さに負け、剣先が地面を擦った。
「うん。」
クロエさんは頷く。
「ちゃんと成長してる。」
「そうか?」
師匠が聞く。
「うん。」
「最初の踏み込みがすごく良くなってる。」
「最後だけだね。」
「そこはレヴィアの言う通り、焦らなくていい。」
クロエさんは笑う。
「最初から全部できる人なんて面白くないし。」
私は思わず苦笑した。
八魔姫二人に同じことを言われると、不思議と自信が湧いてくる。
「エマちゃんも。」
クロエさんはそう言うと、空間から模擬剣を取り出した。
「はい!」
エマは模擬剣を受け取る。
考査以来になる剣だった。
「振ります!」
大きく振りかぶり、勢いよく振り抜く。
少しだけ身体が流れる。
「うん。」
師匠が頷く。
「前より良くなった。」
「本当ですか?」
「ああ。」
「まだ剣に振られてるけどな。」
「やっぱり。」
「でも最初よりはずっといい。」
エマは嬉しそうに笑った。
「よし。」
クロエさんがぱん、と手を叩く。
「ここからは私も混ざる。」
「え?」
腰から小さな銀色の鈴を取り出す。
「この鈴を二人で取って。」
「二人で?」
「うん。」
「私も参加していいんですか?」
「もちろん。」
クロエさんはにっと笑う。
「一人じゃなくて二人だからできること、あるでしょ?」
その一言で、私はエマと顔を見合わせた。
「じゃあ行くよ。」
クロエさんの姿がふっと消える。
「今!」
私は身体強化で踏み込む。
エマは反対側へ走る。
何度も逃げられる。
何度も追い掛ける。
それでも少しずつ距離は縮まっていった。
「いいね。」
クロエさんが楽しそうに笑う。
「二人とも。」
「リリア!」
エマが声を上げる。
「左!」
「うん!」
私が方向を変えた瞬間だった。
ふわり、と背中を風が押す。
優しい風だった。
押し飛ばすんじゃない。
私が進みたい方向へ、そっと背中を押してくれる。
「……!」
一歩だけ踏み込みが速くなる。
その勢いのまま腕を伸ばした。
ちりん。
澄んだ音が響く。
私の手には、銀色の鈴が握られていた。
「取った!」
エマが飛び跳ねる。
「やった!」
私も思わず笑った。
クロエさんは驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに拍手した。
「おめでとう。」
そのまま、視線がエマへ向く。
「エマちゃん。」
「はい?」
「今、リリアちゃんに風を使った?」
「え?」
エマは首を傾げる。
「そんなつもりじゃ……。」
「やっぱり。」
クロエさんは小さく笑う。
「レヴィア。」
「気付いたか。」
「うん。」
二人はどこか納得したように頷き合う。
「何ですか?」
エマが不思議そうに聞く。
クロエさんは優しく答えた。
「普通の風魔法は、自分で風を動かす。」
「でもエマちゃんは違う。」
「違う?」
「誰かを助けたいって思った時、風の方が先に応えてる。」
エマは自分の手を見つめる。
「私……そんなこと。」
「無意識だからね。」
クロエさんは笑う。
「でも面白い。」
「風が、自分から味方してるみたい。」
その言葉に、師匠も静かに頷いた。
「セレナが気にしてた理由もそれだろう。」
「強い弱いじゃない。」
「珍しい。」
エマは少し照れながら笑った。
「まだ全然分かりません。」
「だから面白いんだよ。」
クロエさんは明るく笑う。
「これから一緒に見つければいい。」
少しだけ沈黙が流れたあと、クロエさんが急に手を叩いた。
「よし!」
「今日は修行終わり!」
「え?」
「もうですか?」
「うん。」
「頑張ったご褒美。」
クロエさんは私とエマを交互に見た。
「今度、三人で遊びに行こう。」
「遊び?」
「そう。」
「修行じゃなくて。」
「世界は広いんだから、たまには外で遊ばないともったいない。」
私は思わず笑う。
「行きたいです。」
「私も!」
エマも元気よく頷いた。
「決まり!」
クロエさんが満足そうに笑う。
「レヴィアも来るよね?」
師匠は少し考えるように空を見上げた。
「……まあ。」
「リリアが行くなら、私も行くか。」
その一言で、クロエさんが嬉しそうに笑った。
「よかった。」
「また賑やかになりそう。」
私は庭の端に立つ大剣を見つめる。
まだまともには振れない。
でも、焦る必要はない。
昨日より一歩。
今日より一歩。
そうやって進めばいい。
師匠が信じてくれているように。
私も、自分を信じて。
心地よい風が四人の間を吹き抜けた。




