第3.5話 ずっと
静流君がお風呂に入っている間。
私は静流君に言われて、ある漫画をベッドに座って読んでいた。
静流君から渡されたスマホには、ある漫画の電子書籍が入っていた。
そのタイトルは『漫画家くんと幼馴染ちゃん』。
作者の名前は『月日』先生。あれ? 月日先生って……。
「やっぱり。小子さんから打診されたコミカライズの担当作家さんだ」
静流君のスマホを片手に、自分のスマホに届いていたメールを確認する。それに送付された資料に書かれた名前。それと漫画の作者の名前が一致した。それにしてもこの漫画の内容、どこか既視感があるような。
私は考え込みながらも漫画を読み進める。
出ている漫画の巻数は全部で十巻以上。
こんな人に私の作品のコミカライズ化を?
でも週刊なんだし、それなりに忙しいはずだよね。
大丈夫なのかな? 私の作品のコミカライズなんかを頼んで。
そもそもこんな新人作家の作品を快く、コミカライズ化してくれるかな。
「風呂、上がったぞ」
私が漫画を読み進めていると、ドアを開けっぱなしにした部屋の外から声が聞こえた。
その声の主は白いタオルで髪を拭きながら、少しだけ大き目のシャツを着ている。
「お父さんの服、少しだけ大きかったかな?」
「人の家のものなんだ。贅沢は言えないだろ。それよりも店の方は大丈夫なのか?」
「うん。静流君と大事な話があるって言ったら、今日はお父さんが早めに変わってくれたから。それよりも静流君、さっきの話なんだけど――」
「待て。その話を続ける前に俺もお前に大事な話がある」
タオルを肩に掛けた静流君が部屋に入って来る。
静流君はドアをゆっくりと閉めてから私の隣に座った。
静流君が座ったことで少しだけ揺れるベッド。
もしかしたら静流君が座った振動で揺れたんじゃなくて、私の心臓の鼓動で揺れたのかも。それぐらい私の心臓は激しい鼓動を刻んでいて。
だって静流君があんなことを言うから。
『俺の方がミチルのこと大好きだ‼ 好きの数を一億倍にしても足りないぐらい大好きだ‼』
思わず静流君の言葉を思い出して、顔が熱くなる。
もう‼ これも全部、静流君の所為なんだからね。
「それでその……大事な話って」
私は自分の恥ずかしさを紛らわせるため、静流君に話題を振る。
これでなんとか、平常心を取り戻せるといいんだけど……。
「……渡した漫画は読んでくれたんだよな?」
「うん。まだ一巻の途中だけど読んだよ」
「ならぶっちゃけるけどさ……」
私の手に暖かいものが触れる。
それは優しく私の手を包み込んで。
確認しようとすると、そこには静流君の手が。
そしてその手は小さく震えていた。
いつも強気な静流君にしては珍しくて、私は思わず可笑しくて笑いそうになる。
すると静流君が反対の手で頭をワシャッと掻き毟りながら。
「たっく、柄じゃないよな。俺がグチグチ悩むなんて。お前も秘密を教えてくれたんだ。俺も俺の秘密をお前に教えてやるよ」
ベッドから勢いよく立ち上がった静流君が、私の方を指差す。
正確には私のすぐ隣に置かれた静流君のスマホを。
そして――
「実は俺、漫画家なんだ。その漫画を描いてる『月日』って漫画家は俺だ。それでその……その漫画の主人公のモデルは俺で。ヒロインはなんというか……お前だったりする以上‼」
照れ隠しなのか、私に色々な説明をした静流君はすぐに私から背を向けた。
そのまま部屋の中には気まずい空気が流れる。
でも私も私でちょっと混乱中。
だって今の静流君の言葉を整理すると――
静流君は漫画家さんで、ペンネームは月日。
それで月日さんは、私のコミカライズの担当候補さん。
さらに静流君も私たちをモデルにした漫画を描いていて。
そういえば、あの漫画の主人公って……。
私は慌てて、また静流君のスマホを手にする。
私が気になったのは、漫画の主人公のセリフ。
あの男の子が幼馴染の女の子に抱いていた感情。
私の記憶が正しければ確か――
「……静流君のバカ」
そのページを確認した後、私は思わず立ち上がっていた。
立ち上がって静流君の背中にそっと優しく右拳をぶつけていた。
別に強くパンチしたつもりはないのに。
静流君が冗談交じりに「いった~」と声を漏らす。
だけど私はそんな静流君を無視して、ギュッと彼の服の背中を掴む。
「どうして静流君は昔からそう捻くれてるの? もっと素直に伝えてくれればいいのに」
「素直だったら、お前に隠れて漫画家にはなってないだろ」
「そもそも私、静流君にこんなこと言ってもらってないよ」
「……しょうがないだろ。流石に恥ずかし過ぎたんだから」
上を向いて答える静流君の顔が少しだけ赤くなっていた。
たぶん、お風呂上りとかは関係ない顔の赤さ。
本当にもう少し素直になってくれてもいいのに。
「私もね。静流君と似たような小説を書いたんだよ。主人公は小説家の女の子で、その子が大好きなのは幼馴染の男の子で。それでね、その男の子ってすごい面倒くさいんだよ。そのうえ、自分では敏感なつもりなのに実際はすごい鈍感で。そういうところもすごく可愛いと思っちゃうんだ」
私は惚気るように背を向ける静流君に伝える。
静流君はただ一言「お、おう」と気まずそうに答えるばかり。
きっと静流君もさっきの私みたいに、色々なことを整理してるはず。
でも私の方が静流君よりも一歩リードかな。だって私はちゃんと伝えたから。
「普段は格好いいのに。時々見せるちょっとしたダメな部分が可愛くて。そういう人が私の好み。たぶん、お母さんに少し似てるからかな。でもね、それを抜きにしても私はやっぱり大好きだよ。それもこれは結婚したいの大好き。静流君はどうなの? さっきみたいな流れに任せた告白じゃなくて、ちゃんと静流君の言葉で言ってくれると嬉しいな」
私は漫画を読んで。
あの主人公とヒロインのモデルが私たちと知って確信した。
静流君がまだちゃんと私に言ってくれてない気持ちに。
だからそれを促すように自分の感情を丸ごと伝えた。
これで本当に伝わらないなら流石に鈍感過ぎだよ、静流君。
でも私が知ってる静流君なら、何を言うべきかちゃんとわかるよね。
私は期待を込めて、静流君の返事を待つ。
その間、部屋の中にはアナログ時計の針が動く音だけが響いてた。
チクタク。チクタク。繰り返し。
チクタク。チクタク。繰り返し。
それから一分ぐらい過ぎた頃。
ようやく静流君が口を開いてくれる。
それもどこか申し訳なさそうな態度で。
「……まだ言えない」
「それって私のことが好きじゃないから?」
「そうじゃねぇよ。俺だって普通に好きだ。お前以外の女になんて興味すらない」
「ならどうして――」
「俺はまだ最終回を描くつもりがないから」
静流君の言葉に私は古い記憶を思い出す。
それは独特な消毒液の匂いが漂う病院の一室。
いつもその部屋であの人――お母さんは命掛けで漫画を描いてた。
私が「なんで具合が悪くても、漫画を描き続けるの」ってお母さんに聞いた時、お母さんは笑顔で「まだ最終回を描くつもりはないから」って答えたのを今でも覚えてる。
それはお母さんの口癖の一つ。
そしてそれは弟子の静流君にも受け継がれてるみたい。
「なら仕方がないよね。静流君はお母さんと同じで、漫画に関しては頑固だもんね」
「バカ言うな。俺はおばさんみたいにはなれないさ。俺にとって結局最後に大事なものは漫画以外のものだ。漫画家としてはまだ二流だって、おばさんには笑われるかもしれないけど。やっぱり俺にとって漫画は絶対の一番じゃない。おばさんだってそうだったと思うけど、あの人はあの人で不器用だったからさ。伝え方が下手過ぎるんだ。だから俺は公言しておくぞ」
ずっと私に背を向けていた静流君。
いきなり振り向いた静流君がギュッと私を抱きしめた。
彼から伝わる熱に鼓動が加速して、耳元に響く彼の呼吸が私の顔を熱くする。
静流君に抱きつかれて、少しだけ背伸びをする形になった私。
どうしよう、恥ずかしさで一言もしゃべれないよ。
まさかいきなり、こんな風に抱きつかれるなんて。
こんなの小学生の頃以来だよ。ま、まさかこのまま……き、キスとかするのかな?
ずっと夢見てた大好きな男の子とのキス。
その幻想に私の心は蕩けそうになる。
でも私の期待はいい意味で裏切られた。
「俺は漫画よりもお前が――日向ミチルが大事だ」
私はかつての……私のお母さんの弟子だった静流君を知ってる。
だから静流君にとってどれぐらい漫画が大切なのか。それもちゃんと理解してるつもりだよ。だからその言葉は素直に嬉しくて。少しだけ違和感を覚える。
「それなのに、私が言って欲しい言葉は言ってくれないんだ?」
私の言葉に静流君が私から体を離した。
それから少しだけ苦悶の表情を見せて。
「わ、わかったよ。じゃあ出血大サービスで一回だけ言ってやる」
私の両肩に静流君の手が触れる。
気がつけば、静流君の顔が私のすぐ目の前にあって。
私と目線を合わせるため、静流君は少しだけ中腰になってた。
そして遂に観念した様子で静流君が言う。
「愛してる。今までもこれからもずっと。だから俺の隣にずっと居て欲しいし、俺をずっとお前の隣に居させてくれ」
それはあの漫画で、主人公が告白の時に言うと決めていたセリフ。
まだ告白場面が描かれてないから。本当に使われるかはわからないけど、少なくてもそのモデルである私たちはその告白を使った。それにしても改めて静流君の声で聴いてみると――
「本当に我儘な告白だね」
「仕方ないだろ。俺はこれ以上の告白を知らないんだから」
照れ臭そうに言った静流君。
君はそう言うけどね、私からすれば我儘でも最高の告白だったんだよ。
だって世界で一番好きな人の告白だったんだから。
「それで返事は?」
「言う必要あるのかな?」
私がイタズラな笑みを浮かべて口にすると。
「本当、そういうところ。おばさんによく似てるよな」
「当然だよ。だって私はお母さんの娘なんだから」
そう言って私は今、この世界で一番暖かい胸に体を預けた。