第9話 刺激的すぎる『王道ポークカレー』
祖国が腐ったスープと腹痛に阿鼻叫喚となっていた頃。
ここガルア帝国では、別の意味で「強烈な悲鳴」が上がろうとしていた。
場所は、城のメイン厨房。
時間は正午少し前。
「お、おい師匠……! 目が、目が痛え!」
「なんだこの空気は! 鼻が爆発しそうだ!」
料理長のガントをはじめ、屈強な料理人たちが涙を流しながら厨房の隅に退避していた。
彼らの視線の先にあるのは、私が魔道具の寸胴鍋で炒めている「あるもの」だ。
「ふふ、情けないわね。これは『玉ねぎ』のみじん切りよ。こうして飴色になるまで炒めることで、究極の甘みが出るの」
私は涙一つ流さず(『水中メガネ』を取り寄せて装着しているからだ)、鍋をかき混ぜ続けた。
今日は、カイル陛下に「刺激的なランチ」を提供すると決めていた。
連日の激務でお疲れのようだし、ここらでガツンと脳を目覚めさせるスタミナ料理が必要だ。
そう、今日のメニューは――国民食にして王様、『カレーライス』だ。
「よし、いい色ね」
玉ねぎがねっとりとした黄金色になったところで、私は豚肉のブロックを投入する。
表面を焼き付けたら、水を加え、さらに私が独自に調合した『スパイスセット』を投入。
クミン、コリアンダー、ターメリック、そして辛味のカイエンペッパー……。
仕上げに、隠し味のインスタントコーヒーとチョコレートを少々。
グツグツと煮込むこと一時間。
厨房内には、この世界の住人が未だかつて嗅いだことのない、暴力的かつ魅惑的な香りが充満していた。
「……信じられねぇ」
ガントがおそるおそる近づいてくる。
「最初は毒ガスかと思ったが……なんだ、この腹の底が空くような匂いは。嗅げば嗅ぐほど、口の中に涎が溢れてきやがる」
「これがスパイスの魔法よ。さあ、仕上げに『半熟卵』をトッピングして……完成!」
ランチタイムの執務室。
扉を開けた瞬間、カイル陛下と側近たちが一斉に顔を上げた。
「……リリアーヌ。今日は一体何を持ってきた」
カイル陛下が鼻をひくつかせている。
私はニッコリと微笑み、ワゴンから皿を取り出した。
白磁の深皿に盛られた、艶やかな白米。その半分を覆い尽くす、濃褐色のとろりとしたルー。
中央には、プルプルと震える温泉卵が鎮座している。
「本日のランチ、『王道ポークカレー(半熟卵のせ)』でございます」
「カレー……? 見た目は泥のようだが……」
陛下は警戒しつつも、スプーンを手に取った。
その香りは、すでに彼の理性を揺さぶっているようだ。
彼はスプーンでルーとご飯をすくい、口へと運んだ。
パクッ。
「…………っ!?」
瞬間、カイル陛下の肩が大きく跳ねた。
彼は口元を押さえ、驚愕の表情で私を見た。
「か、辛い……っ! 舌が痺れるようだ!」
「お水はこちらに」
「いらん! ……待て、なんだこれは。辛いのに……飲み込んだ瞬間、旨味が爆発したぞ!?」
彼は額に汗を浮かべながら、止まることなく二口目を口に運んだ。
今度は、半熟卵をスプーンで割り、黄身をルーに絡めて。
「……美味い。まろやかになった。辛味と卵の甘みが混ざり合って、得も言われぬコクを生んでいる」
カイル陛下のスプーンが止まらない。
ハフハフと息を吐きながら、汗を拭うのも忘れてカレーを掻き込んでいる。
「この豚肉もだ! 噛む必要がないほど柔らかい。口の中で繊維が解けていく……!」
周囲の将軍たちも、配られたカレーを無言で、しかし猛烈な勢いで食べている。
「辛い!」「美味い!」「水! いや水はいらん、次をくれ!」という単語だけが飛び交う、異様な光景だ。
カイル陛下は最後の一口を惜しむように食べ終えると、深い息を吐いて椅子に背を預けた。
その顔は、湯上りのように紅潮し、妙に色っぽい。
「……恐ろしい女だ」
彼は私を見上げて、苦笑した。
「この辛さが、疲れた脳に直接響くようだ。……体の芯から熱が湧いてくる。これなら、あと三日は不眠不休で戦える気がする」
「働きすぎは禁止です。でも、元気が出たようで何よりですわ」
私がナプキンで彼の額の汗を拭ってあげると、彼は不意に私の手首を掴み、その掌に口づけを落とした。
「リリアーヌ。貴様は俺の至宝だ。……このカレーとやら、帝国の国民食に制定するよう布告を出そう」
「気が早すぎます」
私たちがそんな甘いやり取りをしていた、その時だった。
バンッ!!
突然、執務室の重厚な扉が、乱暴に押し開かれた。
空気が凍りつく。
カイル陛下が瞬時に私の前に立ち、剣の柄に手をかける。
「何奴だ! 皇帝の御前であるぞ!」
将軍たちが一斉に殺気を放つ中、衛兵に取り押さえられながら転がり込んできたのは――見るも無惨な姿の、一人の男だった。
頬はこけ、目の下には深いクマ。
かつて輝いていた金髪は脂ぎってベタつき、豪華だった服は泥と食品のシミで薄汚れている。
そこから漂うのは、高貴な香水ではなく、酸っぱい腐臭と泥の匂い。
「……リリアーヌ! どこだ、リリアーヌはぁぁ!」
その枯れた声を聞いて、私は目を丸くした。
まさか。
だって、ここは国境を越えた帝国の心臓部だ。
王族である彼が、こんな浮浪者のような姿で現れるなんて。
「……セドリック殿下?」
私が名前を呼ぶと、男はギョロリと血走った目を剥き、私を――いや、私の背後にある『カレーの残り香』を凝視した。
「ひぃっ……! なんだその芳醇な香りは……! あぁ、腹が減った、腹が減って死にそうだ……!」
それは、かつて私を「無能」と切り捨てた王太子の、あまりにも惨めな成れの果てだった。
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