第8話 崩壊する王宮の食卓
一方その頃。
リリアーヌを追放してから一週間が経過した、王国の王宮。
かつて栄華を極めたこの場所は今、どんよりとした空気に包まれていた。
特に深刻なのが――「食」の崩壊だった。
「……おい。なんだ、このスープは」
夕食の席に着いたセドリック王太子は、目の前に置かれた皿を見て眉をひそめた。
隣には、聖女エレナが座っているが、彼女の皿にも同じ惨状が広がっている。
いつもなら黄金色に輝いているコンソメスープが、今日はなぜか濁ったドブ色をしている。
野菜は形が崩れるほど煮込まれているのに、なぜか青臭い。
そして何より――鼻を近づけると、ツンとした酸っぱい腐敗臭が漂ってくるのだ。
「申し訳ございません、殿下……!」
呼び出された料理長が、青ざめた顔で頭を下げた。
彼は以前、リリアーヌと野菜の鮮度について口論していた男だ。
「言い訳は聞きたくない! なぜこんな生ゴミのようなものを出す!? リリアーヌがいた頃は、もっとまともな料理が出ていただろう!」
セドリックの怒声に、料理長は脂汗を流しながら訴えた。
「そ、それが……今朝届いた野菜が、どれも傷んでおりまして……。リリアーヌ様が契約していた最高級の商会が、『公爵令嬢との契約は終わった』と、取引を停止してきたのです」
「なんだと? ならば別の業者から買えばいいだろう!」
「ほ、他の業者はどこも、衛生管理がずさんで……。市場に出回っているのは、虫食いか、カビの生えたものばかりでして……」
料理長の声が震える。
彼らは知らなかったのだ。
この国の流通がいかに腐敗しており、リリアーヌが私財と人脈を駆使して、安全なルートを確保していたという事実を。
「浪費」と罵ったその金こそが、彼らの命綱だったのだ。
「ええい、もういい! 無能な料理人どもめ!」
セドリックは苛立ち、隣のエレナにすがりつくような視線を向けた。
「エレナ。君の出番だ」
「は、はい! お任せください殿下!」
エレナは自信満々に立ち上がった。
彼女には、リリアーヌにはない「聖女の力」がある。
彼女はスープに向かって大袈裟に手をかざした。
「天にまします神よ、この哀れなスープに祝福を! ……スキル発動、『聖女の祈り』!」
ピンク色の光がスープを包み込む。
すると、不思議なことに、ドブ色だったスープから漂っていた腐敗臭が消え、代わりに砂糖菓子のような甘い香りが漂い始めた。
「さあ、召し上がれ殿下! 私の愛の力で、とびっきりの味に変えておきましたわ!」
「おお、さすがだエレナ! やはり君こそが真の王妃にふさわしい!」
セドリックは機嫌を直し、スプーンを手に取った。
一口すすると、口の中に強烈な甘さが広がる。
素材の味などしない。ただただ、砂糖をぶちまけたような甘さだ。
だが、リリアーヌの作る「素材を活かした繊細な味」を「味が薄い」と嫌っていた彼にとっては、この分かりやすい味こそが正義だった。
「うまい! これだ、この甘さだ!」
彼はスープを飲み干し、続いて出てきた黒ずんだ肉料理も、エレナの祈りで「甘く」変えてから平らげた。
久々の満腹感。
二人は満足して、それぞれの寝室へと戻っていった。
――そして、深夜。
悲劇は起きた。
「ぐ、うっ……!? あ、あがぁぁぁぁッ!!」
王太子の寝室に、絹を引き裂くような絶叫が響き渡った。
警備の兵士たちが飛び込むと、そこにはベッドの上で腹を押さえ、芋虫のようにのたうち回るセドリックの姿があった。
「で、殿下!? いかがなさいました!?」
「は、腹が……焼けるように熱い……! 内臓がねじ切れるぅぅぅ!」
顔色は土気色になり、脂汗でシーツが濡れている。
すぐに王宮医師が呼ばれた。
診察の結果は――重度の食中毒だった。
「バカな……! エレナが祈りを捧げたのだぞ!? 味は甘くて美味しかったはずだ!」
激痛に耐えながら叫ぶセドリックに、医師は冷静かつ残酷な事実を告げた。
「殿下。エレナ様のスキルは『味覚と食感を変える』だけのもの。……腐った食材に含まれる毒素や細菌まで消滅させる浄化の力はありません」
「な……んだと……?」
「つまり殿下は、砂糖でコーティングされた腐敗物を、喜んで胃袋に収めたということです」
セドリックの時が止まった。
脳裏に、追放される間際のリリアーヌの言葉が蘇る。
――『祈り』で味は誤魔化せても、腐りかけた食材の毒までは消せませんよ。
「あ、あいつ……知っていたのか……!」
セドリックは歯ぎしりをした。
リリアーヌは、ただ文句を言っていたわけではなかった。
彼女が厨房で厳しく指導していたのは、彼女が高価な食材を取り寄せていたのは、すべてこの「毒」から自分を守るためだったのか。
「おのれ……! ならばなぜ、もっと強く止めなかった!」
自分の愚かさを棚に上げ、彼は逆恨みの炎を燃やした。
その時、廊下からも「きゃあああ! お腹が、お腹が痛いぃぃ!」というエレナの悲鳴が聞こえてきたが、心配する余裕などない。
今の彼にあるのは、猛烈な腹痛と、そして――「まともな飯が食いたい」という渇望だけだった。
翌朝。
ゲッソリとやつれたセドリックのもとに、一人の伝令兵が駆け込んできた。
「ほ、報告します! 追放されたリリアーヌ嬢の行方が判明しました!」
「どこだ……! あいつはどこにいる!」
「隣国、ガルア帝国です! しかも……皇帝カイルの寵愛を受け、毎晩『極上の宴』を開いているとの情報が……!」
伝令兵は言葉を詰まらせながら続けた。
「噂では、リリアーヌ嬢が作る料理は、口の中で溶ける肉や、雲のように柔らかい菓子など……この世のものとは思えないほど美味だとか。帝国軍の士気は爆上がりしているそうです」
「…………は?」
セドリックは呆然とした。
自分が腐ったスープと腹痛に苦しんでいる間に、あいつは隣国で美食三昧だと?
しかも、あの野蛮なカイル皇帝に囲われているだと?
「ふ、ふざけるな……! その美食は、本来私が食べるはずのものだったんだぞ!」
激しい嫉妬と空腹が、彼の理性を焼き切った。
彼は立ち上がろうとしてベッドから転げ落ち、それでも床を這いずりながら叫んだ。
「馬車を出せ! 私が直々に迎えに行く!」
「で、殿下!? お体はまだ……それに、相手は敵国ですよ!?」
「うるさい! これは外交問題だ! あいつは我が国の国益(料理番)を不当に持ち出したのだ! 連れ戻し、再び私のために極上の料理を作らせるのだ!」
鏡に映った自分の顔が、栄養失調と病気でドブネズミのように痩せこけていることにも気づかず、愚かな王子は走り出した。
目指すは隣国。
待っているのが、栄養満点の和牛ステーキでビルドアップされた最強の覇王だとも知らずに。
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