輪廻する剣士と半月の王子(曇らせ剣士シド④・ハイファン)
◆
「シド、君も知っての通りこの国は腐っている。しかし、君だけはまるで北の空に輝く一等星の様に輝いているんだ。どうかこの先も僕を支えて欲しい。僕だってこの国の生まれだ、良くしたいとは思っている。だが一人では難しいんだ。君が居ないとこの国は勿論、僕も駄目になってしまうだろう」
一切の汚れのない純白の絹を束ねた様な白首を傾げつつ、セイル王国の若き王、オリヴィエ・マルティエラ・フォン・セイルは、眼前に控えるシドに言う。
艶やかな笑顔はまるで女性と見紛う程の色付き様であった。
「はい、陛下」
シドは短く応えを返す。
シドはこの国に特に思う所はない。
政治は腐敗しているかもしれないが、シドからすればだからどうした、という話である。
"今生"でセイル王国の上級貴族の嫡男として生まれたからには可能な限りその義務を果たすだけであり、それ以上の感情は持ち合わせていなかった。
シドの心は烈日の下の荒野に生える変色した枯草より更に乾いている。
唯一その枯れた大地に潤いを齎すモノはただ1つの感情で、シドは輪廻する度にその感情を齎してくれる者を探している。
そして現在のシドは、今生の快楽の泉を既にみつけている。
ゆえにシドはセイル王国の貴族の悉くが敵に回ったとしてもオリヴィエを裏切らず、見捨てないのだ。
勿論そんなドロドロとした腐臭漂う感情は外には一切おくびにも出さない。
傍目から見たシドは無口で無感情で、職務に忠実な国王の唯一の手駒…そう思われている。
そんなシドをもどかしい思いで見つめるのはオリヴィエだ。
シドは確かにオリヴィエを見捨てたり裏切ったりはしないものの、その心の奥底では一体何を考えているのだろうか?
オリヴィエはそれが気になって仕方が無い。
かつてシドに命を救われているという出来事を差し引いても、オリヴィエにとってこの国で唯一信を置ける相手はシドただ1人であり、そして特別な感情を向けるただ1人の相手でもあった。
だからこそオリヴィエはシドからもっと関心を向けて貰いたかった。
自身が女性として十全であるのなら、あるいは男性として十全であるのなら、愛か、もしくは尊敬を勝ち得たのであろうか?
シドが卓越した感覚を持っていることはこれまでの経験上オリヴィエには分かりすぎる程に分かっていた。
その鋭敏な感覚でもって、男にも女にもなり切れない中途半端な者を内心軽蔑しているのだろうか?
オリヴィエの思考が負に偏っていく。
そう、セイル国王オリヴィエは半陰陽、つまり男性でもあり女性でもあるのだ。
表向きには男性として王位についてはいるが、これは王家の秘事である。
この時、シドとオリヴィエは共に18歳になったばかりであった。
◆
人と魔が骨肉相食む第三次人魔大戦が勃発する30年と少し前の話だ。
イム大陸の西域、そのほぼ西端にあるセイルという小国にシドは生まれた。
こう言っては何だが、セイル王国は一言で言えば汚職と腐敗に塗れた国だ。
これは国全体が一種の無力感に覆われて居た為であり、死臭の如くこびりついた無力感は国への忠を失わせる。
ではその無力感はどこからきているのか、と言えばこれはセイル王国が事実上の属国であるという点が大きいだろう。
西域最大版図を誇るレグナム西域帝国はかつて急進的な領土拡張主義を採っていた。
周辺諸国はこのレグナム西域帝国に大いに切り取られ、セイル王国もまた例外ではなかった。
だが帝国はセイル王国に特別の自治を許した。
セイル王国周辺に地脈が集中し、なおかつ幾つもの鉱山が地脈に重なる形で存在していた為だ。
地脈とは魔力が流れる…いわば血管である。
この世界では生きとし生けるものはその多寡にこそ差はあれど、皆魔力を宿す。
魔力とは地域によっては気だとか法力だとか、様々な呼ばれ方があるが分かりやすく言えば不思議な力、と言うしかあるまい。
そして先程"生きとし生けるものは"と言ったが、星もまた生きているのだ。
それがなぜセイル王国に自治が許される理由となるかと言えば、地脈上の鉱山で採掘される鉱石、宝石の原石の類の質が魔術の触媒として非常に優れている為である。
ただ、石が魔力を宿すわけではない。
人間は生物だが爪をきり、その爪が生物と言えるだろうか?
同じ理屈だ。
星は生物だが、その星から切り離された鉱石は生物とはいえない。
採掘される石はあくまでも魔術起動の触媒であり、地脈上の鉱山から取れた触媒は魔術起動に際する魔力の伝導率が常よりも高いという事である。
レグナム西域帝国はこの採掘をセイル王国にやらせ、成果物を搾取するという形で王国の存続を許した。
帝国の国力ならば採掘などは物の数ではないが、それでもセイル王国を接収してしまえば当然ながらセイルもまた帝国の一部という事になり、つまりは帝国の国力を一部であろうとも割くことになる。
であるならばセイル王国を飼い殺しにして、採掘という過酷な作業は任せてしまえばよい…そういう事だ。
こういう状況に置いてはセイル王国の国民に所謂愛国心が芽生えるはずはなく、だからといって帝国の強大さを知る故に反抗もできない。
かつて一度、帝国の搾取に対してセイル王国は反抗を試みた事がある。
貢物を納める事を拒否したのだ。
帝国は直ちに懲罰軍を編成し、セイル王国へ向かわせた。
結果から言えば夥しい"民衆の血"が流れる事となった。
勿論、セイル王国民の血だ。
それでセイル王国は心が折れて、いまや負け犬の如く帝国の靴の裏を舐めて生きている。
こんな現状では汚職や腐敗がはびこるのも当然の帰結と言えた。
◆
話を戻そう。
そのセイル王国の貴族であるサーキュラ公爵家の嫡男のシドは、10歳という若輩でありながら国王の御傍付きとして抜擢された。
この抜擢の理由は概ね2つあげられる。
1つ、当時10歳であった王太子オリヴィエは聡明ではあったが周囲の者を信用せず、陰に籠っていた。大人を信用しようとしないオリヴィエの心の扉を開くため、同じく10歳であり、更に上級貴族家の嫡男という立場であるシドは都合が良かったという理由。
この理由にはサーキュラ公爵家が王家への影響力を大とするためという理由が裏に隠れている。
もっともサーキュラ公爵はその意図を隠そうともしなかったが。
2つ、シド少年の才が比類ないものであったという点。
凡そ剣を振らせても棒を突かせても、シド少年は大人達の誰よりも達者であった。
しかも単に武に優れているだけに留まらず、その学識もまた大人顔負けという天才振りだ。
まぁ、2番目の理由には種があるのだが。
ともあれ10歳のシド少年は、同じく10歳のオリヴィエ王太子の傍付きとなり、その身辺を護るだけではなく、オリヴィエの心の無聊を慰める役を任せられたのである。
◆
「貴様がシドか。ふん、連中め、年が近ければ懐柔されるとでも思ったか!下がれ!余に傍付きなど必要ない!権力に集る蛆虫の如き者共の子息ならばその性根もまた親譲りであろうよ!」
当初、オリヴィエはシドを激しく拒絶した。
なぜならシドはオリヴィエの嫌う貴族達の子息であるからだ。
オリヴィエは聡明で、だからこそ国の腐敗に周囲の貴族が大きくかかわっている事を理解していた。
「また来たのか、懲りない奴!下がれ!…なに?そこまで親からの言いつけが大事か!王太子である余よりも!」
オリヴィエは暫くの間シドを寄せ付けなかった。
だがシドはどれ程罵倒されてもオリヴィエの元へと通い続けた。
それが仕事だからである。
それ以上の感情はなかった。
「ええい!しつこい!どうしても傍付きの任を果たしたくば、扉の外に1日中立っておれ虚け者!」
オリヴィエが命じてくる事が理不尽なものであっても、シドは従った。
そもそも子供が命じてくる事などたかが知れていたからだ。
シドはその気になれば一ヶ月だってずっと立ち続けて居られる。
「なに!?貴様、まさか一晩中立っていたというのか?阿呆め…それにしてもそこまでしなければならないほど親が恐ろしいのか?…はあ?余と親しくなるにはどうすればいいか、だと?それを余に聞くのか…だがそこまでするほど余と親しくなりたいという事だな?…え?それが仕事…?……下がれ戯けが!二度と余に顔を見せるなァ!」
仕事とはいえシドはオリヴィエに媚びたりはしなかった。
シドは誰にも媚びない。
その必要がないからである。
「な、なんだ貴様!勝手に部屋へ入ってくるなど不敬であるぞ!」
ある日、シドはオリヴィエの命令に初めて反抗し、無理やりに部屋へ押し入った。
そうするだけの理由があったからだ。
◆
「殿下、すぐ終わりますので。…そこの侍女。そう、貴女だ。今淹れたお茶、飲んでみてください。…いや、面倒くさいな…毒でしょうそれは。どちらの手の者です?」
侍女に茶を淹れさせていたオリヴィエは、突如乱入してきたシドに面喰らって叱責しようとした。
しかしその日のシドは常の様子になく、まだ幼いオリヴィエはまるで冷水を頭から被ったかのような悪寒に襲われ声を発する事ができない。
これはシドが殺気を以てオリヴィエを縛り付けた為だ。
シドの視線は侍女の手元にある。
当の侍女と言えば端正な顔立ちを歪め、忌々しそうにシドを睨みつけていた。
もう一歩で王太子を弑逆できたものを、と侍女…ではない、暗殺者は歯噛みをする。
(でも所詮は餓鬼ね、武器も持たずに私から王太子を護れるとおもっているのかしら)
暗殺者はまずはシド、そして王太子と殺害対象を変えた。
侍女はゆっくりと懐に手を入れ、身を低くして素早く駆けだす。
いつのまにか手には短刀が握られていた。
あ、とオリヴィエの声が漏れ、短刀がシドに狙いを定め突き出され…る事はなかった。
ぱしん、と乾いた音が響く。
シドが眼前に広がる宙空を裏拳で叩いたのだ。
――ど、どこを狙っているッ
徒手で身を護るにせよ、せめて相手に当てなければ意味はないではないかとオリヴィエは表情を歪める。
しかしそれは無用な心配だった。
ばくん、と暗殺者の顔面が跳ね上がったからだ。
まるで何かに打たれたかのように。
暗殺者は膝を突き、顔を抑えながら呻いている。
シドはすたすたと近寄り、小さい手で暗殺者の肩を掴むと、力任せに握り砕いた。
悲鳴、絶叫、苦悶
苦しむ暗殺者を見下ろしながら、シドはあくまでも淡々としていた。
「先程のアレは神術です。…ああ、この時代では法術と言うのでしたか?宙を叩く、これは古のまつろわぬ武神への祈りを示します。いまでこそ法神が幅を利かせていますが、かつてこの大陸には多くの神が存在したんです」
本当にシドは10歳なのだろうか?
オリヴィエはそんな思いを抱かざるを得なかった。
超然としたシドの態度に、オリヴィエは自身がシド少年に強烈に惹かれるのを自覚した。
目の前で躊躇なく行われた暴力。
普通なら怖気を感じて当然だが、なぜだかオリヴィエはシドの暴力に汚いものを感じなかった。
むしろ美しさすら感じてしまっていた。
当然ではある。
シドは暗殺者を痛めつける事に一切の感情をまじえていない。
余計な抵抗をさせないために肩を砕いたが、オリヴィエがシドに感じたものはおそらくは機能美の類のようなものだったのだろう。
だが、オリヴィエにとってこの一連の出来事は、皮肉にもシドの仕事…そう、オリヴィエの心の扉を開くに等しい出来事であった。
海に何故波が起こるのか。
月が出ている夜の波はなぜああも激しく騒めくのか。
それは波が月を恋しく思っているから。
波は月に恋をし、しかし決して届かぬ彼我の距離を悲しみ嘆いているからだ…と詠った詩人がいる。
オリヴィエは齢10にして、波の気持ちを知った思いをがした。
◆
結局、だれが暗殺者を放ったのかは分からなかった。
尋問が上手くいかなかったのか、暗殺者が口を割らなかったのか。
その両方が当てはまった。
暗殺者の女は口内に仕込んだ毒袋噛み自殺したのだ。
その日以来、オリヴィエはシドを決して身辺より離さなかった。
シドもまた文句を言わずにそれに従った。
シドは王太子に褒美を与えると言われたが、それを受取ろうとはしなかった。
周囲の者達はそれを忠節ゆえだと捉えたが、実の所は違う。
率直に言ってどうでもよかったのだ。
シドが求めるのは己の心を震わせる、潤わせる哀切の慟哭のみ。
成人してすらいない肉体でそういったモノを求めるのはやや厳しいとシドは理解していた。
だから成人するまでの人生の歩みとは、シドにとってはどこまでも無価値なものでしかない。
シドのそうした無関心さはオリヴィエにも伝わっており、オリヴィエはあの手この手でシドの関心をかおうとするが、しかしシドはオリヴィエという存在に一切の価値を見出していないような態度でありつづけ、それでいながらオリヴィエを利用しようともせずにただ傍に在り続けたのである。
◆
それから8年が経つ。
オリヴィエとシドは共に18歳となり、現王の病死によりオリヴィエは王太子から王へ、そしてシドは傍付きから近衛騎士団長となっていた。
余談だがオリヴィエの母はどうなったのか?
彼女は忌まわしき者を産んだと気に病み、オリヴィエが赤ん坊の頃に自殺している。
◆
当然の事ながら8年の間に色々な事が起こった。
そのほとんどはオリヴィエにとって不快な事だ。
政治の腐敗は甚だしく、オリヴィエが改革を断行しようとしても上級貴族達はこぞって反対し、さらにその改革というのも貴族の手を借りなければならないものである以上オリヴィエは為す術がなかった。
権力を支えるものは何か。
血筋か、法か。
それらも勿論大切な要素ではあるが、なによりも大切なものがある。
それは力である。
暴力と言い換えてもいいが、自身を軽んじるならば相応の目に遭わせてやるぞ、という隠然たる暴力がなければ権力は権力足りえない。
オリヴィエにはそれが決定的に無かった。
いや…オリヴィエにはシドがいる。
シドが只者ではない事をオリヴィエは知っていたが、万が一も彼をも失ったらどうすればいい?
オリヴィエには父も母ももういないのだ。
それにこれが一番大きな点なのだが、オリヴィエはシドを暴力装置として扱いたくはなかった。
オリヴィエがシドに対して貴族に有形力を行使し、意に従わせるよう命じれば実行はしてくれるだろう。
しかしそれをしてしまえば、オリヴィエとシドの関係はもはや何の熱も通わないものになってしまうのではないか…彼はそれを何よりも恐れていた。
この不安は彼の潔癖な一面が影響している。
この潔癖さが幼いオリヴィエをして大人達に心の扉を開かなかった理由でもあった。
幼いオリヴィエは気付いていたのだ。
セイル王国の政治の腐敗が甚だしい事を。
政治の腐敗とは何かといえば、例えば賄賂を受取ったりコネのあるものを権力を利用して要職につけたり、そういう直接的な事を言うのではない。
それを佳しと考えない者達が声をあげる事が出来ないように有形無形の圧力をかける事…それが罷り通ってしまう政治の状態を腐敗しているという。
聡明なオリヴィエはそういった概念を明文化こそ出来なかったものの、感覚として理解していたのだ。
そしてそのような政治の状態を作り出し、そして継続させようとしている周囲の大人達が、オリヴィエの眼にはまるで頭から糞尿を被って周囲に汚臭を撒き散らしているが如き存在に見えて仕方なかったのである。
権力を、立場を利用してシドの力を自身の権勢拡大に利用するというのは、あるいは自身が嫌っていた汚職貴族達を同一の存在に堕落してしまうのではないかという不安がオリヴィエにはある。
まあ仮にシドがオリヴィエの振るう断罪の剣となれといわれれば、黙って頷き躊躇の無い暴力を振るい、其れに対して特に何かを思う事もないであろうが。
ともあれ貴族の殆どはオリヴィエを傀儡にしようと目論む者ばかりであった。
当初はオリヴィエを物理的に廃そうと刺客が送り込まれる事も多かったのだが、シドがその全てを排除した。
貴族達は当然シドを懐柔しようと金や女が積まれたが、シドは何一つ受け取る事はなかった。
これは忠誠心云々の理由ではなく、理由がある、
というのも、シドはこの頃には少し考えを変えていたのだ。
つまりたまには違う嗜好も悪くはないだろう、という事だ。
シドは男でもいけるし女でもいける。
なんだったら美醜すらも問わない。
シドが相手に求める事はただ一つ。
真摯なる想いで心からシドを欲している事、ただそれだけであった。
まあ流石のシドも、オリヴィエが男でもなければ女でもなく、また、男でもあり女でもある事などは想像すらしていなかったが。
兎にも角にもそういう意味でここ最近のオリヴィエのシドへの傾倒ぶりは、シドをして及第点を出しても構わないという程度には水準を満たしていた。
何様だという話ではあるが。
だが如何にして事を進めるか?
ただ悲しませる…というのはシドの趣味ではない。
シドは現状を確認する。
・帝国からは事実上の隷属国として置かれ、毎年品質の良い鉱石を納めねばならない
・それに逆らえば帝国から懲罰軍が派遣され、そして再び血が流される
・貴族達は王に権威なしとしてオリヴィエを侮り、そして利権を貪っている
この辺りを一気に解決する方法は…ある。
最後の点…貴族達の王への侮りは、セイル王国の現状への失望が招いているという事もここ最近の調べでわかった事だ。
これは都合が良い。
事がうまく運べば、この最後の点は綺麗さっぱりと解決できるだろう。
◆
その日の夜、シドはオリヴィエの寝室を訪れ、とある話を持ち掛けた。
「なっ…それは、それは無謀すぎる!認められるわけがないだろう!」
案の定オリヴィエはシドの提案を拒んだが、シドはここが正念場とばかりに両の眼に力を込めた。
シドの凄烈な視線がオリヴィエを貫くと、オリヴィエは下腹部に妙な熱を覚える。
そしてオリヴィエの心の態勢を崩したと感じたシドは、一気にその距離を詰め、オリヴィエのまるで白魚のような手を両手で握りしめた。
――体温の上昇を確認
だが勝負とは"押さば押せ、ひたすら押せ"という様に、有利な時こそ更に勢いという炎に薪をくべねばならないのだ。
シドはグイグイとオリヴィエに顔を近づけ、一気に言葉の奔流を浴びせた。
「サーキュラ公爵家が裏で動いています。既にレグナム西域帝国の有力な貴族を複数取り込んでおりますれば。セイル王国からの見返りは通常帝国に納める3年分の魔鉱石。それはそれで財政に打撃とはなりますが、それ以上はありません」
無口を常としていたシドがこの時ばかりは饒舌であった。
雄弁は銀、沈黙は金。
ただしこれには裏の意味がある。
普段は沈黙しているからこそここぞと言う時の雄弁が金以上の価値を持つ、という事だ。
シドの言葉の奔流は不可視の鎖となり、オリヴィエの精神を渾身の力で束縛した。
オリヴィエはシドの爛々と輝く瞳から眼を逸らすことが出来ない。
「帝国はセイル王国から搾取した財をそのまま軍事力に転用しており、帝国貴族への分け前はないも同然です。彼等からすれば、ここでセイル王国からの搾取に対し掣肘すれば一時とはいえど多大な財を得る事になるのですから、協力を取り付ける事は簡単でした」
「大義名分も御座います。セイル王国は敗戦における一般的な賠償金を既に支払っております。それを理由に、これ以上の搾取は適当ではない…そういう筋道を立てます。帝国側としても大義名分があればそれを理由に方針変更が出来るでしょう。名分がなければ面子が邪魔をしますからね」
「だが口約束では意味がない。だからそれらの約を冒険者ギルドを通して守らせます。私はこれでも冒険者ギルドではそれなりに名が通っておりますし、ギルドとしても半端な仕事はしないでしょう。ご存じの通り、冒険者ギルドはレグナム西域帝国の権勢に屈さぬ数少ない組織です。セイル王国が再び翼を得るには、もはやここで決断をする以外にございません」
結局オリヴィエは喘ぐような呼吸と共に、か細い声でシドの提案を受け入れた。
この時シドは多分の嘘に僅かな真実を混ぜ込んだ。
嘘とは有力な貴族云々の下りで、真実は冒険者ギルド云々のくだりだ。
嘘が発覚した時にはもはや取返しがつかないことになっているはずなので何の問題もなかった。
大体シドがやろうとしている事を真にオリヴィエが察知していたなら、兵を動かしてでもシドを食い止めようとしていただろう。
――オリヴィエはうまく説得できた。あとはギルドへ話を通しておくか。そして…
オリヴィエの部屋を辞したシドは、自室で一通の文をしたためた。
これは“全て”が済んだ後、オリヴィエに読んでもらう為に書いたものだ。
◆
数日後。
シドは眼前に展開するレグナム西域帝国セイル王国懲罰軍の軍勢を色の無い視線で見渡していた。
シドが見る所、五千はいる。
――問題はどの程度までやるか、だが
そう、シドの提案によりオリヴィエ、ひいてはセイル王国はこの年の上納を取りやめると帝国へ通達したのだ。
この通達案に対してセイル王国の貴族達は顔を真っ赤にして反対したが、シドが"説得"をする事で理解を得た。
なお、この説得とは先立ってオリヴィエへ語った条理と、暴力をちらつかせる事による不条理の、双方からなる説得だ。
セイル王国の貴族としても帝国の頚城から解き放たれるのならば、とシドの話を受け入れた。
もしシドが本当に帝国貴族の協力を取り付けられていたのならば話はここで終わったのだが、あいにくそういうわけにもいかず、シドは僅かな手勢を連れて共に帝国軍と最終的な交渉をする為に、と出向いていったのだ。
オリヴィエもセイル王国の貴族も、まさかシドが帝国軍と一戦交えるなどとは、ましてやただの一人で挑むとは思ってもいなかったに違いない。
勿論シドが連れてきた手勢の者達もだ。
「シ、シド殿!?あれは、あれはどういうことなのですか!?帝国は我々と交渉をしにきたはずでは…あれではまるで、セイル王国への懲罰軍の様ではないですか!」
文官の一人がそうつげると、シドは真実を告げた。
衝撃という名のこん棒が文官の膝を叩き砕いたかのように、その文官は地面へ座り込んでしまう。
他の者達も似たり寄ったりの反応だった。
しかしシドはそんな彼等に一瞥をくれるなり、これからの"手順"に思いを馳せる。
(命を触媒とし、"デカいの"を数発も打ち込んでやれば皆殺しには出来るだろう。だがそれでは意味がない。帝国は威信にかけて復讐の誓いをかたくするはずだ。星術を使えば俺は死に、そうなればセイル王国自体が消滅してしまう。それでは意味が無い。深刻な損害を与えるには与えるが、帝国が損得計算をしてくれる範疇内に納めねばならない)
シドは一見真っ当な事を考えているように見えるが、『“獲物”の前で死んで滅茶苦茶に悲しませて、その悲しみを味わうのがサイコーなんだから、戦場でくたばったら何の意味もないだろ』というのがシドの本音である。
かといって、手心を加えて損害軽微とするにもいかなかった。
セイル王国侮りがたしと帝国軍に知らしめねばならないのだから。
ならば、とシドの両手がまるで狼がその顎を開いているかの様に構えられた。
―糾える縛鎖、打たれし封杭
――我が瞋恚の剣にて此れを絶つ
―――吼えろ氷狼、顎を閉ざせ
シドが使おうとしているのは大気中及び地中の水分を凝固させて氷の槍と化し、それらを上方、下方の両方から突き出す氷結術式だ。
巨大な氷の狼が噛みついたかのように広い範囲を鋭利な"牙"で咬み貫く。
協会式魔術でも大魔術に分類されるこの術は、かつて西域を荒らしまわっていた月魔狼フェンリークにちなんで開発された。
その名も
――月咬
牙に見立てたシドの上掌が下方に、下掌が上方へ勢いよく"咬み"合わされ、瞬間、何百何千もの氷の槍が懲罰軍へと襲い掛かった。
氷片が乱舞し、太陽の光が反射する。
虹色に輝く雪がひらひらと戦場を舞うような、そんな幻想的な光景を帝国兵達はその目に焼き付けて、千を超える命が一時に失われた。
シドの鎧の中心部にはめこんであった触媒が砕け散る。これはセイル王国産の特別な触媒だ。
シドをして先ほどの大魔術は素のままで使用するには厳しい。
闘争の嚆矢としては十分すぎるほどの一撃を見届けたシドは、大剣を構えつつ雄叫びを上げながら帝国軍へと躍りかかった。
◆
氷の大魔術は懲罰軍の態勢を盛大に崩し、また死傷者も夥しい。
そこへ躍りかかってきたシドはたちまちのうちに1人斬り2人斬り、10人斬り20人を斬り、斬殺数が100に至ってなお帝国兵達はシドを止める事が出来ない。
だが帝国兵もただやられるだけではなく、取り囲んで槍を突き出したり、術撃を浴びせかけたりとシドも無傷ではいられない。
やがて左手の肘から先が斬り飛ばされた時、シドは大音声で自身の正体を告げた。
帝国軍にどよめきが走る。
シドが正体を伝えたかった相手は指揮官階級以上の者だ。
およそ戦を生業とする者で『禍剣』の名を知らない者はいない。
一子相伝の剣術を累々と継承し続けている、大陸でも3名しかいない黒金等級の冒険者は広く畏怖されている。
『禍剣』の何が恐ろしいかといえば、本人の戦闘能力は勿論の事、例え殺してもすぐに次の『禍剣』が現れるという点である。
この種はといえばシドの輪廻の呪いであるのだが、多くの者はそれを知らないため、『禍剣』とはその存在自体ギルドがつくりだしたもので、ギルドにとって都合の悪い存在を葬るための実働部隊だと思っている者も少なくない。
勿論それは間違いだ。
冒険者ギルドの実働部隊は別にちゃんといる。
ともかく帝国側の認識としても、下手に手を出せば容易には排除できない者に延々とつき纏われるという具合であって、懲罰軍の指揮官は多大な損害を出しながらも退却を選択せざるを得なかった。
ところで組織に属さずともどうとでもなるシドではあるが、それでも冒険者ギルドに登録しているのは理由がある。
それは自身の陰湿な欲望を満たすためには、時には直接的な暴力以外の力も必要であるというものだ。
例えば今回のように。
シドにとって暴力を以ってレグナム西域帝国の懲罰軍を屈服させる事は容易い事だが、暴力を以ってその後の帝国軍の復讐心などを抑制させるのはシドをして困難だ。
だからシドはギルドの影響力を利用した。
帝国と冒険者ギルドの間で約を結ばせる事は、かがり火の燃料となる薪に水をかけることに等しい。
薪という復讐心の源があったとしても、薪に多分に水分が含まれていたならば火はつきにくいだろう。
勿論ギルドとてただただシドに利用されるばかりではなく、ギルドに不利益を齎す者…例えば裏切り者だとかそういう者を始末させたり、あるいはギルドの要人を護衛させたりと便利使いしている事も少なくないため、両者の関係は持ちつ持たれつといえる。
◆
その日の夕暮れ、オリヴィエの前に満身創痍となったシドが連れてこられた。
シドが連れていった文官達の顔色は蒼白だが、全身から血を流すシドをしっかりと支えている。
文官達の高級な衣や手はシドの血で濡れ、汚れていた。
しかし、文官達にはそれを厭う様子は見られない。
貴族達はその光景に困惑の念を禁じえなかった。
なぜならばシドが連れて行った文官達は確かに文官としての能力には優れるが、気位も高く…分かりやすく言えば高飛車で嫌な野郎共、であったのだ。
それが自身の衣や手が血で汚れるのを厭わずに、とは。
シドが帝国軍と一戦を交えるまえに、彼は文官達に事の真実を告げた。
現実主義者である文官達からすればそんなものは夢物語でしかない。
長年帝国の飼い犬としてその尻を舐めてきたセイル王国が解き放たれる?
たった一人で懲罰軍へ立ち向かい、これを半壊させ、冒険者ギルドまで動かして帝国にセイル王国への不干渉を約束させる?
そんな事を信じる者がいたとしたら、文官達は例外なく唾棄し、あざ笑うであろう。
しかしシドはやり遂げた。
しかも命を賭けてだ。
もはやセイル王国には忠誠を捧げる意味もなければ価値もないと思っていた彼等だが、シドが示した忠義の輝きはハンマーの衝撃力でもって彼等の蒙を啓き砕いた。
――此れ程の男が命をかけて忠節を尽くす王であるならば、あるいはセイル王国もやりなおす機会があるのかもしれない。
文官達はそのように思っていた。
勿論そんなものはただの勘違いだが。
◆
「シ、シド!!!」
もはやオリヴィエには周囲の目を気にする余裕は無かった。
王としては不適当である事は分かってはいても玉座を降り、シドの元へと駆け寄り、力を失ったその身体を抱きとめる。
「なぜ、なぜ、このような……」
オリヴィエは余りのショックで一時的に言語能力が失調したかのように、壊れたオルゴールのようにただなぜ、なぜ、とくりかえしていた。
シドの口元には赤いものが見える。
内臓もやられたに違いない。
オリヴィエはそれを見てあわてて医者を呼ぼうとしたが、シドがそれをおしとどめた。
「……陛下、良いのです。全身を剣で貫かれ、もはやこの身は死に体も同然…。しかし我が策が成るまでは死ねぬと冥府の川の橋渡しには暫し待ってもらっておりますれば…」
「しゃ、喋るんじゃない!ふざけるなよ、余は…私は…私は君が死ぬ事なんて絶対認めない!誰か!誰か医者を!」
オリヴィエの声色には恐慌の色が混じっている。
その声色はシドに僅かな法悦を齎した。
とはいえその余韻をいつまでも味わっているわけにはいかない、とシドは自身を鼓舞する。
死にかけているのは事実だからだ。
「し、仔細は私の部屋の、文机に…て、がみをしたためておりま、す…」
手紙にはこの先の展開、そして対応が書いてある。シドからすれば正直いって茶番以上のなにものでもなかったが、その茶番でセイル王国の未来は大きく変わるだろう。
◆
シドが描いた絵図はこうだ。
懲罰軍の撃退後、冒険者ギルドが帝国へ接触をする。帝国は内政干渉だとしてギルドからの接触を拒むかもしれないが、シドが最上位冒険者である以上、ギルドとしてはこれが失われる事を決して軽くは見ない。
ましてやその原因となったのは帝国による不当な搾取だ。帝国とセイル王国が争い、セイル王国が敗北し、領土を安堵するかわりに資源を提供…というのがそもそもの話だったのだが、これは通常の国家間の争いの帰結としては一般的ではない。
通常、このようなケースの場合は賠償金の支払いが提案されるものだ。
しかし帝国はこの賠償金の支払いという国際常識を資源の提供に置き換えた。
しかもその提供量に上限を設けずに。
これは国際常識に照らして不当と言わざるを得ない。
もっとも、帝国からセイル王国への搾取を不当だと糾弾する権利はギルドにはない。
ないのだが、糾弾は出来なくとも評価は出来る。
傍目からみてどう見ても不当な事に冒険者ギルドの最上位に位置する重要構成員が関わり、そして帝国に殺されたとあっては、これは帝国が冒険者ギルドの保有する戦力を削ろうと画策したと疑念を抱かざるを得ない。
セイル王国から恒久的に資源を搾取する為に冒険者ギルドに敵対行動を取るのであれば、ギルドとしてはこれに有形力の行使をもって抗する事となる…
しかしこれが一種の不幸な偶然であるならば、つまり、帝国がギルドへ敵対的行動を取る積もりがないのなら相応の行動を以ってこれを示してほしい…と、ここまで話が進めば後はこのような具合になるはずだ。
黒金等級冒険者の喪失に対する賠償などはいかに帝国といえど出来ない。冒険者ギルドは思い切り吹っかけるはずだから。
ここから導き出される着地点は、セイル王国からの賠償金の支払いはこれまでの資源の提供により一般的な賠償金額を支払いきったとして以後の提供を停止。
帝国はそれを認める事。
これである。
というよりこれしかない。
帝国が欲得ずくでセイル王国を搾取しようとし、それを咎めようとしたギルド最上位の冒険者を殺害したわけではなく、あくまでも不幸な偶然、そして当時の戦後処理の解釈の誤解により今回の仕儀に至ってしまった…と言う事にしたいのであれば。
果たして事の次第はシドが描いた絵図の通りとなる。
セイル王国側の犠牲は0だ。
王国の一般国民も兵士も貴族も、誰一人として命を落としていない。
これは奇跡的な数字である。
もっとも、その数字は間もなく0から1になるだろうが。
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オリヴィエは侍従にその手紙を持ってこさせ、その場で開いて驚愕した。
「王国は…帝国から解き放たれたのです…我、われは、ようやく自らの翼を得ました…」
そんな事はどうでもいい、とはオリヴィエには言えない。セイル王国が長年にわたって帝国から搾取されてきた事には違いがないからだ。
鉱山の採掘は過酷であり、セイル王国の民は毎年少なくない犠牲を出しながら資源を掘り出している。
鉱山採掘技術の向上だけではどうにもならない問題もあるのだ。
獣は魔を宿し魔獣となるのだが、地脈が集中する地域ではその数が爆発的に増える。
この撃退は一般国民には困難を極める。
戦闘訓練を積んだものとて大なり小なり犠牲は伴うのだから採掘は過酷極まり無いものであった。
それから解放されたのだからそれはめでたい事だ。
めでたい事のはずなのだ。
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シドは一際激しく吐血をする。
血がオリヴィエの豪華な衣服にかかるも、オリヴィエはそれに構うことなくその顔色を青褪めた白に染め、シドの手を握りながら医者はまだかと周囲を怒鳴りつけた。
シドは自身の肉体が限界点を迎えた事を理解した。意識はこの後急速に暗転するだろう。
そして気付けば再びこの世界に生まれ出でているのだ。
(“次”へ行く前に…)
シドがオリヴィエの手を握った。
死に逝く者とは思えない程の力がその手には込められていた。
それに気付いたオリヴィエがシドの顔を見ると、二人の視線が比翼連理の番の如く絡み合う。
シドの血に塗れた震える手がオリヴィエの頬を撫で…オリヴィエは頬にあてられたシドの手に、己のそれを重ね合わせた。
――お慕いしておりました
思ってもいなかった言葉が、そして内心強く希求していた言葉がシドの唇から漏れると、オリヴィエの表情は瞬く間に二転、三転とした。
彼は男でもなければ女でもない自身は決して人から愛される事はないと思っていた。
ある意味で人生の一部を早期に諦めていたのだ。
まして、自身が心憎からず想っていた相手からほしかった言葉をかけられる…その喜び。
しかし、喜びの後には絶望が訪れる。
なぜならどうみてもシドはもうじき死ぬからである。
これは残酷な仕儀だ。
少しでも精神が健常ならば、いくらなんでもこのタイミングで睦言などを囁けるはずはない。
だがシドの精神は健常ではないし、彼はオリヴィエの、喜びから悲哀へと代わる表情の転換が見たかったので特に問題はない。
オリヴィエの絶望の波動がシドに叩きつけられ、シドは瀕死にも拘らず内心で雄たけびをあげていた。
――ウォオオオオォアアア!!!
――やはりこれだ、心が潤っていくのが分かる
――悲しめ!もっと悲しめ!いや、泣け!
――フゥゥ…もう少し味わっていたい、が
最期にふっと笑ったシドは全身を脱力させ、オリヴィエの胸元に倒れこむ。
「シド…?」
オリヴィエの声は幼い響きを伴っていた。
人は自身に処理しえない悲劇にまみえたとき、肉体に積み重ねてきた精神年齢という名の塔が傾くのかもしれない。
その時、医者が駆け寄ってきてシドの様子を診て…そして首を横に振った。
医者や周囲の者達はオリヴィエを気遣わしげにみるが、その表情は完全なる忘我だ。
優れた拳闘士がこれ以上ないというほど的確に顎部を打ち抜けば人は垂直に倒れこむというが、精神にも同じ事が言える。
シドの喪失はオリヴィエの精神をこれ以上無く強かに打ち据え、彼は自我を失調したのだ。
「陛下…お気持ちは分かりますが…」
貴族の1人が軽々しい言葉を発した。
「余の気持ちの、一体何が分かるというのだッ!!」
良く言えば穏やかで、悪く言えば陰に籠りがちというのが常であったオリヴィエの両眼から怒気の奔流が噴出した。
暗い怒りがオリヴィエの全身の毛穴から立ち昇るやいなや、オリヴィエは携えていた護身用の短刀の柄を握り締める。
――何の、誰の気持ちが分かるというのか
――今更誰の気持ちがわかったつもりでいるのだ
――今も昔も、私の気持ちを分かってくれていた者はもういない
負の感情に任せた凶刃が振るわれようとしたその瞬間、その手を止めたのは周囲の者達のいずれでもなかった。
――お慕いしておりました
耳朶に残ったシドの最期の言葉であった。
シドが誰の為に、何の為に死んだのか。
それを思えばこの短刀は決して振るってはならない。
これを振るい、狂してしまえるならばどれだけ楽な事か。
「シド…君は」
オリヴィエはそれから先を言葉にする事が出来なかった。現存するいかなる言語であっても、今の彼の言葉を明文化する事は出来ないだろう。
それだけ繊細で、それだけ複雑で、それだけ深いものだったからだ。
代わりにオリヴィエはシドの遺体を抱き起こし、血に濡れた唇へ自身のそれを落とした。
死者に接吻をするなど
ましてや同性で
その光景を批判しようと思えば、いくらでも言葉を見つける事が出来るだろう。
しかしその光景を周囲の者達はただ沈黙を以って見つめていた。
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オリヴィエ・マルティエラ・フォン・セイルはこの日、真の意味で国王となった。
男でもなければ女でもない、男でもあるし女でもある半陰陽の若き国王は、男だとか女だとかそういう区分を超越し、“王”という存在へ変容したのである。
この変容は生物学的な変容ではなく、精神的な変容だ。
彼は元々自身の肉体的特徴に強いコンプレックスを抱いていたが、シドが死んだこの日、オリヴィエは自身への絶対的な自信を手に入れる。
想い人からあのような言葉をかけられれば、それにまさる自己承認というものはなく、オリヴィエは自身の肉体についての引け目というものを完全に払拭したのだ。
元より聡明で才に溢れる若き国王は以後政戦両略において類稀な才を示し、セイル王国はそれから国政の建て直しに成功する。
これはオリヴィエの才にのみ頼ったからというわけではなく、シドの輝かしい忠義に蒙を啓かられた貴族達、官僚達の力も大きい。
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ある日。
深夜、寝室の壁に立てかけられた一振りの大剣を見ながら、オリヴィエは1人呟いた。
「私を蝕んでいた心の影は取り払われた。国はまだ十全とは言わないまでも健全さを取り戻してきている。冒険者ギルドの掣肘で帝国がセイル王国へ干渉してくることは無いし、王国の未来を覆っていた暗雲は大部分が晴れた」
でもね、とそこでオリヴィエはグラスに満たした葡萄酒を一息に飲み干した。
――君が居ないことが、とても寂しい
そうですか、と無感情に答えるシドの声が聞こえたような気がした。




