輪廻する剣士と紫毒姫(曇らせ剣士シド③・ハイファン)
◆
街道を行く豪奢な馬車に、何十対もの欲に塗れた双眼から視線が注がれていた。
御者は鎧を着込んだ青年1人。
端整な顔立ちではあるがその面影にはどことなく陰が差している。
青年は唐突に馬車を止め、馬車の中にいると見られる者へ声をかけた。
「お嬢様。掃除をしなければならないようだ。馬車の扉は開かず、待っていてくれ」
小さい声が青年へ投げかけられると、青年の口に淡い笑みが浮かんだ。
「かつて俺は魔将と対峙し、それを切り伏せた男だぞ。不逞の輩などに遅れは取らないとも」
青年の動作はゆるりとしていて、足取りはまるで散歩に出かけている者のようだった。
そんな光景を見ていた者達はほくそ笑む。
どうやらポンコツ騎士1人を護衛にしているようだぞ、と。
青年は侮蔑を多分に含んだ視線を感じ取り、両の眼を暗く濁らせ、馬車に積んである巨大ななにかを取り出す。
布を剥がし、肩に“それ”を担いだ青年に最早侮蔑の視線を送る者は誰1人としていなかった。
◆
青年が駆ける。
それは人の形をした殺意の具現であった。
標準的な成人男性程の長さの大剣が縦横無尽に振るわれ、その一振りごとに血飛沫と肉片が乱れ飛ぶ。
この犠牲となっているのは野盗だ。
ただの野盗ではない。
レグナム西域帝国に対するゲリラ的反抗を企図して亡国の残党が拠り集まっているのだ。
ゆえに彼等は単なる暴力的社会不適合者ではなく、その多くが戦闘訓練を受けた元騎士、兵士であった。
しかし青年…シド・デインの前ではその様な者は木っ端に等しい。
仮に野盗がその生涯で20年の戦闘経験を積んでいるとしても、シド・デインは輪廻の始まりから現在に至るまでに100倍以上の戦闘経験を積んでいる。
文字通り桁が違うのだ。
『シド・デイン』は一種の称号だと嘯かれている。
と言うのも、その名前は1000年前の歴史を紐解いてみても見かけるし、2000年前だって見かけるからだ。
通常、人間種がそれだけの月日を生きる事は出来ない。
だがシドの場合は種がある。
彼には輪廻の呪いがかけられている。
死ねば間を置かずにどこかの赤ん坊として生まれ、長じては“今代のシド”となるのだ。
血しぶき、肉引き裂かれ、骨が砕け散る殺戮の剣嵐は暫く続き、やがてとまった。
30名からなる野盗団はシドの手にかかり、瞬く間に壊滅の憂き目に遭った。
それも半刻にも満たない僅かな時間で。
◆
「お嬢様。終わったよ」
青年…シドは馬車の前で応えを待った。
その身は全身返り血を浴びており、控えめに言っても恐ろしい。
やがて、馬車からか細く震える声が聞こえたかと思いきや、綺麗だけど不幸な目にあってすぐ死にそう…としか思えない様な少女が顔を覗かせた。
薄い紫色の髪の毛、長い睫毛、淡い紫の瞳。
肌は病的な程に白く、また全身の肉付きも悪い。
レグナム西域帝国が貴族。
ルベラベラ子爵ことフェリシア・ルベラベラである。
人呼んで
――紫毒姫
◆
「ご苦労様…でも皆殺しは…いえ、でも貴族を襲撃したのですから…いえ、いえ!襲撃の理由というのかしら、誰かから頼まれたから、とか…そういう話を聞き出せないと言うのは失点ですよ、シドさん…って…あの、血が、あの…」
シドは“全て賊の返り血だ”と答え、布で顔についた血を拭った。
フェリシアはシドの様相を見ても恐れる様子はなかった。
二人の間にはある種の強固な関係性が既に構築されているからである。
「ああ、失態だった。謝罪する」
そんなシドをフェリシアは困った目で暫し見遣り
「…差し許します」
とだけ言う。
フェリシアはどうにもシドに強く出る事が出来ない。
それはただ彼が、彼のみがフェリシアに“触れる”事が出来るからであり、彼のみがフェリシアを恐れないからだ。
シドとフェリシア、二人は今レグナム西域帝国、帝都ベルンへ向かって馬車を走らせていた。
◆
フェリシア・ルベラベラは紫毒姫と呼ばれている。
これは侮蔑を以って呼ばれる事もあるが、基本的には畏怖を以って呼ばれる。
なぜならば彼女はその身に極めて強力な劇毒を宿すからだ。
彼女には古今東西あらゆる毒物が効かない。
だが自身が毒の泉と化すという代償を支払わなければならない。
彼女の体液に触れる、いや、その肌にふれるだけで通常の人間は皮膚が焼け爛れ、死に至る。
これは呪いであり、加護でもあった。
彼女を護る為に彼女の亡き母が掛けた呪毒の護りである。
この加護を解く条件を知るのはフェリシアの母で、その母はもうこの世に居ない。
◆
貴族家にはその家特有の慣例のようなものがあり、ルベラベラ子爵家の場合は女性が当主を引き継ぐというものであった。
だが当たり前の話だが、女性だけでは子供を為す事は出来ない。
どこから種を貰う必要がある。
しかしこれも当たり前の話だが、男なら誰でもいいわけではない。
よって、ルベラベラ子爵家は同格の貴族家の次男、三男を婿として受け入れ、当主の補佐としてきた。
これまでは。
◆
ルベラベラ子爵家の乗っ取りが画策された。
フェリシアの母ルピスはフォード男爵家の次男、ルイオス・フォードを婿として迎えたのだが、このルイオスが腹に一物を抱えていたのだ。
いや、抱えさせられた、というのが正しいか。
ルイオスには外に愛人がいた。
女の仕事は娼婦だ。
シリカという。
外見と中身が見事に反比例した、まさに遊ぶためだけなら付き合っても構わない女の典型とも言える女だった。
ルイオスに見る目がないといえばそれまでなのだが、実際の所は決してそうではない。
ルイオスにも平均的貴族子弟が備えているべき人を見る目というものはあったのだ。
「ねえ、ルイオス様?私って賎しい生まれでしょう?こんな私がルイオス様という素敵な紳士にこれほどまでに可愛がって貰えて…女として幸せです。嗚呼、このような場所で知り合わなければもっと夢を見る事が出来たのに。ルイオス様のような高貴な方は、きっとこの娼館を一歩でたら私の事なんて忘れてしまうのでしょうね」
「そんな事はない!そんな悲しい事を言わないでくれシリカ。確かに私は最初は、その、肉欲というか…そういう目的で君と逢っていたさ。だが何度も身体を重ねていく内に気付いたのだ。真実の愛に!」
だが典型的なボンボンであったルイオスは、物の見事にシリカに篭絡されてしまう。
仮にも帝国貴族の嫡男である者がこのていたらく…と侮蔑する事は簡単だが、それを差し引いてもシリカの女の武器の使い方は見事に尽きた。
ルイオスはガバガバであった。
何がガバガバなのか。
お口である。
それはもうベラベラと話したのだ。
貴族として平民に伏せておかなければいけない事は山ほどあるのだが、そういう事もべらべらと話したし、ルイオス自身がルベラベラ子爵家からの入り婿の打診が来ている事、それを受ければ多額の金子を受取る事が出来る、というのもひたすらに話した。
それもこれもシリカが寝室でルイオスのルイオスをペロペロしたせいかどうかは分からないが、5度の逢瀬を重ねる頃にはシリカはルイオスを取り巻く状況をすっかり理解してしまった。
当初、シリカは単純にルイオスを骨抜きにして彼個人の金融資産を搾取しようと企図していたのだが、状況を把握したシリカはふと考えた。
――ルイオスは頭が悪い。うまく操り人形にしてしまえば…私はこんな人生を変えられるかもしれない。その為には……
◆
「ねえ、ルイオス様。ご存知?ルベラベラ子爵家について実はあまり良くない噂を聞いてしまったの…」
その日、ルイオスはシリカと“真実の愛の所作”を終えた後、シリカから自身が入婿する事になる貴族家についての話を聞いて驚愕した。
シリカの話ではなんとルベラベラ子爵家は外から迎え入れた婿が家の差配に余計な口出しをしないように、頭の働きが鈍くなる遅効性の毒を少しずつ飲ませているというのだ。
そんなものは普通は信じない。
いや、信じたとしても裏を取る。
が、既にルイオスの頭の働きは肉欲愛にかき回され、正常に働いているとは言いがたかった。
ゆえに信じてしまった。
肉欲由来の情を愛と誤認させるのは商売女の基本的技巧であるが、ルイオスはその社会経験のなさゆえにきれいにハメられてしまったのだ。
愛は人を強くする。
これは事実だ。
だが頭を弱くする。
これも事実だ。
況やそれが粗製の愛であるならば…
◆
ルイオス・フォードがルベラベラ子爵家に入婿し、多額の金子を受取るには条件がある。
ルピス・ルベラベラを孕ませ、子を成さしめる事である。それも、女児を。
極論を言えば、女児さえ生ませればどこで何をしてようが、子爵家の風評を悪くするような事でないかぎりは構わない。
そしてルベラベラ子爵家はその女児が継承する。
…そのはずだが、強欲なシリカはその女児に取ってかわることを考えた。
簡単に言えば、ルピス・ルベラベラとその子を排し、一時的に混乱状態に陥った子爵家をルイオスが一気に掌握。
その後自身は妾という立場でルイオスの傍らに立ち…順を置いてやがては本妻に、という算段であった。
女児を生ませないと金子が得られないのだからそこはルイオスが頑張らねばならない。
そして首尾よく女児が生まれたならば、ルピスの摂る食事に少しずつ少しずつ毒を混ぜていく。
これは少しずつでなければならない。
なぜならば、出産による消耗が死につながったと周囲に誤認をさせるためである。
それに毒というのも本来は毒足りえない薬物を使うつもりであった。
その薬物とは賦活剤だ。
これは所謂元気の前借りである。
健康体の者が、ほんの一時身体に無理をさせる為に使うもので、一時的に元気がわいてくるものの、薬効が切れたらその反動は辛いものとなる。
用法・用量を誤れば命に関わるし、産後の弱った身体に使うなどもっての他だ。
だが毒ではない。
ゆえに毒検知の魔術では検知できない。
◆
◆
ルピスは子を孕み、それを産んだ。
女児だ。
女児はフェリシアと名付けられた。
早産だったが、母子ともに健康体である。
さてここからがルイオスの、いいや、シリカの仕掛けなのだがここで誤算が起きた。
ルイオスに親心が生まれたのだ。
早産ゆえか、常よりか弱く見える娘の姿をみて、ルイオスは陳腐な言い方だが反省をした。
とてもではないが幼い娘を殺そうなどとは思えなかった。
か弱い、そして愛すべき娘を産んでくれた妻の事もだ。
こうなると困るのがシリカである。
己の欲を充足させるためにこれまでどれだけの準備をしてきたのか。
年単位の計画だった。
シリカも財産を大分放出した。
それもこれも、未来の貴族生活の為である。
なにより、金では替えられぬモノも失ったのだ。
それは年齢である。
たかが3年。
しかし、されど3年。
シリカのように春をひさぐ女にとって、3年という年月がどれ程の価値を持つか。
シリカは、腹の底にどす黒く燃える炎の塊がうまれるのを感得した。
だが、だがなによりも耐え難い事があった。
ルイオスの変心である。
もはや娼館へ通う事もできない、だと?
あれだけ私の身体を貪っておいてそれか?
シリカの偽らざる本心であった。
ましてや、シリカの粗製ではない愛に似た何かがルイオスへ注がれ始めていた矢先の事だ。
だが、彼女はその噴飯を一片も表に出す事はなく、内に潜め、逆にルイオスに言った。
「実を言うとね、ルイオス。私もこれまで貴方と身体を重ね、言葉を重ねているうちに自分の行動が酷く醜いものだと理解してしまって…世の中、お金とか権力よりも大切な…尊いものがあると気付いた所なの。だから謝らせて。貴方にとんでもない過ちを犯させてしまうところだったわ」
ルイオスはシリカの謝罪を受け入れ、少なくとも彼の中ではシリカとの関係は愛人関係でも恋人関係でもなく、ましてや娼婦と客でもなく、一時の熱情の残滓、少し煤けた友人関係のようなものとして位置づけられた。
当然シリカは全く納得などはしていない。
暫くは大人しくしてルイオスと文などを交わしていた。
やがて、シリカは文に仕事が続けられなくなった事を書き記す。
心ない貴族により酷く痛めつけられ、心が男性を恐怖しもはや仕事を続ける事ができないのだと。
ついてはルイオスの屋敷で使用人として雇ってはくれないかと。
ルイオスはそれを受け入れてしまった。
金でも渡して済ませればよいものを、家族愛に目覚め、善性が表出した彼はかつての“友人”にすげない真似ができなかったのだ。
愚かさというのも度を越えれば悲しみを覚えるというが、ルイオスの更生擬きはまさにそれであった。
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まんまとルベラベラ子爵家へ潜りこんだシリカは、直ぐに何かをしでかすという事もなく暫くは真面目に働き、周囲からの信頼も得た。
当主であるルピスとも言葉を交わすようになり、時には幼い娘の様子をみているようにと頼まれることすらもあった。
シリカは己が暴走しかけている、いや、すでに暴走しているという事に薄々気付いている。
だが僅かに残された理性はシリカの悪意を止めようとはしなかった。
愛に似た何かを抱くようになってしまった男が妻に優しく接するのを見て、そして男とその妻、子供が3人揃って幸せそうにしているのを見て、シリカの精神は加速度的に破滅の淵へと進んでいった。
感情に限った話ではないが、万理万象は一定の閾値を超えてしまうと、それ自体が破滅なり破壊なりされてしまうまで止められなくなるものなのかも知れない。
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シリカはもはや発覚と言うものを恐れはしなかった。
というより己諸共ルイオスもルピスもその娘であるフェリシアも破滅してしまえとすら思っていた。
だから検知の事など考えずに堂々と毒を使った。
シリカは既に信頼を得ている身である。
毒物を持ち込むのも、それを使うのも容易かった。
シリカがどこから毒を得ていたのかといえば、それは亡国の者達からだ。
レグナム西域帝国の領土拡張主義を根幹とした政策が生んだのは、侵略につぐ侵略である。
帝国は急速に領土を拡張し、雪だるま式に恨みやつらみを受けるに至った。
なぜ帝国は此れ程までに領土の拡大を求めるのかといえば、それは誰にも答える事が出来ない。
ただ、権力を持ったものが老境に至り、そして狂えばこうなる確率は決して低くは無い。
それは歴史が証明している事である。
自身が生きた証を残したいという老醜の極致。
本人からすれば何がしかの筋は通っているのかもしれないが、周辺諸国からすれば厄介な事は甚だしいといえよう。
そうした亡国の徒は帝国の各地に散り、あるものは小国へもぐりこみ、あるものは大陸最大勢力を誇る宗教組織へ潜りこみ…と混乱と戦乱の火種は広がっていくのだが、それはまた別の話である。
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「う…ぐ……っ…!?」
ある日、ルイオスが倒れた。
間の悪い事に、ルベラベラ子爵家のお抱えの医師は薬の材料を仕入れに数日の間留守としていた。
そんなものは使いなりを送ればいい話かもしれないが、医術に使う薬の材料というのは磨きぬいた知見をもってしなければその良し悪しが分からないものであり、特にこの医師は自身で足を動かして仕事道具を仕入れるというマメさを持っていた。
通常そういったマメさは良い方向へ作用するものだが、今回ばかりは運が悪い。
医師のマメさがルイオスを殺す事になる。
ルイオスは急速に衰弱し、そして死んだ。
シリカは朽ちていくルイオスを見て、一粒の涙を零した。それが愛の残滓であったかどうかはシリカに聞かなければ分からないだろう。
そして直ぐにルピスの体調が崩れた。
ルイオスと同じ症状だ。
彼女は自身の衰弱具合から、残された時間は余り多くは無い事を知った。
――でも、一体何者が
ルピスが思い至ったのはシリカだ。
だが、彼女は使用人の公募に応募してきた女性であり、その背景は当然洗ってある。
極々普通の農村出身の、極々普通の娘であった。
その経歴に一切の瑕疵はなく、不審な点も見当たらなかったはずだ。
まあその経歴とやらも、実はルイオスが手を加えていたのだが。
過不足なくシリカを雇う為の配慮とでもルイオスは言いたいのだろうか。
だが彼は既に死んでしまったので、その真意は分からない。
当然ルピスにだって真相は分からない。
――シリカが私達を害する理由はない
だが病床にあるルピスは水を求めると、その当のシリカが水差しを持ってきた。
ルピスはシリカの眼を見る。
それは暗い冥い、まるで底無しの穴の様な目であった。
理由は分からない。
だがシリカが下手人だ。
ルピスはそう考えた。
しかし、だからどうしたというのだろうか。
シリカが下手人だとして、だから何がどう変わるのだろうか?
根拠、証拠。そんなものは無いのだ。
そしてそれを探るだけの時間も残されてはいないだろう。
◆
「こ、これは…もはや……」
戻ってきたルベラベラお抱えの医師は押っ取り刀でルピスを診察するも、早々に匙を投げた。
シリカが使った毒物と言うのは貴族が貴族を殺す為の毒物だ。
そういった毒物に侵されたならば、初動の治療が遅れれば大体死ぬ。
ルピスは医師の激しい狼狽をみて、自身の死を確信し、同時に1つの覚悟を決めた。
娘に業を背負わせる覚悟を決めたのである。
◆
ルピスは娘を連れてこさせ、呪いをかけた。
呪いであり加護でもあるその術は、あらゆる毒物を無毒なものとする代わりに、その身を毒の源泉とするものであった。
呼気、体液、皮膚の一片、あらゆるものが致命的な猛毒となる。
例えば彼女が何かに恐怖を感じ怯えれば、その肉体より滴る汗はたちまちに空気中に拡散する毒霧と変じ、周辺の者共を毒殺せしめるであろう。
この術を解くためには陳腐な言い方だが愛を証明しなければならない。
愛とは何か。
そんなものは人それぞれでしかないのだが、ルピスが定めた愛の形とは、自身の命よりもその者の命を上位に置く事だ。
命に勝る財はなく、唯一無二の財を捨てさってでもフェリシアを選べる者でなければ術は解けない。
すなわち、死毒充ちる彼女の身を抱き締め、彼女の毒を全て自身の身の内へと満たす事である。
なんらかの手段をもって毒を防いではならない。
愛に保険をかけるなどもってのほかだ。
常軌を逸した強い肉体と、狂気的なほどに強い心、なによりフェリシアへの愛なくしては出来ない事だが、フェリシアを愛し、その身を護り支えるというのであれば、生半可な者では勤まらないとみた母の気配り…とみていいのかどうか。
ルピスもまた瀕死である以上、娘を護るという一念だけに支配され、正常な判断ができなかったというのが妥当なところであろうか。
容易に解術できたら意味がないとはいえ、ルピスに今一つ余裕があったなら決してこのような条件を設定する事は無かっただろうに。
◆
ルピスは死んだ。
それも苦しみぬいて死んだ。
死後、彼女の病床を片付けた者はその悍ましさに吐き気を抑えきれなかった程だという。
だが彼女の残した術はフェリシアに宿った。
娘を護らんとする母の愛とはお世辞にも言えないだろう。
この毒の護りは彼女を長きに渡って苦しめる事になるであろう事は明々白々だったからだ。
ともあれフェリシアに宿った毒の護りは早々に"仕事"をする事になった。
・
・
・
「ィギャァアアアアアアァァアッッ!!!!!」
ルベラベラ子爵邸に響く絶叫。
それはシリカのものだった。
屋敷の者が慌てて駆けつけると、そこには美しい相貌を持つ妙齢の侍女の姿はなく、全身を焼け爛れさせた屍人の如きモノが床でイモムシの様に蠢いていた。
そう、イモムシの様に、だ。
彼女の四肢は千切れてしまっている。
それを色を失った瞳で見つめる幼女がいた。
フェリシアだ。
シリカにとって憎しみと愛の対象であるルイオスと、嫉妬と憎しみの対象であるルピスの子供。
それを直接手に掛けようとした末路が"これ"であった。
フェリシアの細く白い首に手をかけたシリカは、両手に力を籠める前に死毒に侵され、まるで化物のような姿となって呻き苦しむ事となったのだ。
使用人達の前で見る見る内に肉を蕩けさせ、骨をむき出しにそのかつては美しかった肢体をグロテスクに崩壊させ、シリカは床の染みとなった。
爾来、フェリシアは誰一人として触れられぬ"紫毒姫"として生きる事になる。
◆
周囲の人々から恐れられ、忌避され、隔離され。
そんな生活に子供の精神がどれほど耐えうるだろうか?
まもなくフェリシアの精神の均衡が崩れたのは当然の帰結であった。
とはいえ彼女はルベラベラ子爵家の当主である。
彼女を護る者や世話をする者は必要だ。
そこで抜擢されたのがシド・デインだ。
黒金級冒険者…当代『禍剣』、シド。
当代の、というのは先述した通りだ。
世間一般では『禍剣』は一子相伝の剣術を継承した者が~、だとか勝手な事を言われている。
これは世間への説明のためにでっちあげられた口実で、実際は昔の『禍剣』も現在の『禍剣』も同一のシドだ。
肉体は度々替えられているが、人間が人間たる所以はその精神にある為、肉体が変わったとしても精神の継承が過不足なく行われているならばそれは同一人物なのだ。
子爵家の財産の大半を放出して、シドは暫くの間フェリシアの生活の手助けや、その護衛をする事となった。
彼に口を利いてくれたのは、何を書くそうフォード男爵家である。
ルイオスの薄暗いたくらみは結局明るみにはでなかったが、それはそれだ。
フォード男爵家としては息子どころか当代のルベラベラ子爵までもが死亡し、爵位を継いだ娘が毒気で近寄る事もできないという地獄のような状況を流石に見過ごす事はできなかった。
一応フェリシアは当代のフォード男爵の義理の孫にあたるのだから。
◆
「近寄らないで、ください。私からは毒が…」
言いかけた幼いフェリシアの肩を武骨な手が優しくつかむ。
その手には何か星にも似た白い光が宿っており、フェリシアから立ち上る毒気をうけてもその肌が爛れる事はなかった。
当然だ。
シドほどの戦士ともなれば燃え盛る炎に手をかざしても、全身を流動する魔力が肉体を保護するだろう。彼を傷つけるには互する魔力を込めて防護を貫くしかない。
「お嬢様、君が俺を殺すには2000年程早い。さあ、立って。食事の時間だろう?」
シドが手を差し伸べると、幼いフェリシアはおそるおそるその手を取った。
毒が、シドの手を傷つける事は無かった。
破滅的なまでの勢いで均衡を崩し崩壊も間近であったフェリシアの精神は、その日から安定を取り戻す事と相なったのである。
◆
それから5年が過ぎた。
それ程の長期間シドがルベラベラ子爵家にかかりっきりと言うのは、一般的な冒険者の常識ではあり得ない事である。
だがシドは一般的ではない。
輪廻の呪いは彼が自ら掛けたものである。
かつて某国の騎士団長であったシド・デインはその極まった忠誠心により、自身の死後も王統が健全に継がれるか、祖国が健やかに在り続けるかを自身の眼で確認し、国を永遠に護り続けたいと願った。
当時は真人間だったのだ、彼とて。
だが、そんな崇高な思いも100年200年…1000年と続く内に擦り切れてしまう。
輪廻につぐ輪廻、転生につぐ転生で彼の精神は摩耗し、もはや烈日に焼かれる砂漠のほうがまだ潤っているだろうという有様だ。
そんな人生を繰り返す事にシドはもはや苦痛を覚える心のリソースすらも無かったのだが、何百度目かの人生で彼は自身の精神が潤う瞬間を見つけてしまった。
それは彼を慕う女性の悲痛、悲哀…そういった感情を彼自身に向けられる事。
要するに、彼に焦がれる女性の為に生き、尽くし、最期はその女性のために命を投げ出す事で得られる感情の波動に快感を覚えるようになってしまったと言う事だ。
何ゆえに彼がその様な性癖を持つに至ったのかは定かではないが、それは一種の防衛本能の様なものだったのではないだろうか?
人の基準では無限に続くであろう悠久を耐え抜く為に必要な事は、自己への強烈な承認に他ならない。
自分が自分である事、シド・デインである事…こうした強固な自我を柱としなければ積み重なる時の重みに耐えかねて、精神は立ちどころに崩壊してしまうだろう。
彼の精神的本能はそれを察知し、自己への承認欲求を満たす方法をひねりだしたのではないだろうか。
いずれにしても悪趣味な話ではある。
タチが悪いのは、彼自身が女性に非道・無道を働くわけではないという点だ。
むしろ女性の為に身を投げ出してすらいる。
彼が身を投げ出さなければ無惨に屍を晒した女性も数知れない。
しかし、慕った、愛した男が目の前で死んでいく様を見せつけられる女性の気持ちを慮れば、やはりこう言わざるを得ないのだ。
シドの屑野郎、と。
◆
話は戻る。
「休憩にしよう、お嬢様。馬が大分疲れている」
シドが言うと、フェリシアはぷくりと頬をふくらませた。
「わたくしはもうお嬢様ではないのですよ。幼いながらもルベラベラ子爵家の当主として立つにたる年齢を迎えましたし、わたくしを呼ぶならばご当主様が適切です」
ふっとシドは苦笑して言った。
「失礼しました、御当主様」
で、でも、とフェリシアがなおも言う。
「二人きりの時は、その…お嬢様でもいいですけど…名前で呼んでくれると嬉しいのですけれど…」
シドは一瞬ニタリとねちっこい笑みを浮かべかけ、すぐにいつもの淡い笑みを浮かべながら言った。
「フェリシア」
「はァ…っ、は、はひ」
フェリシアの頬がボウっと火が灯ったように赤くなり、つっかえながらかろうじて応えを返す。
ここまでのやりとりを見れば分かるが、フェリシアはシドに惚れていた。
というより依存していた。
「あ、シドさん…頬に血が」
フェリシアが言うなり手を伸ばしてくる。
シドは優しくその手を差し止め、逆の手で血をぬぐった。
流石に貴族のお嬢様に不浄を触らせるわけにはいかないからだ。
それが表向きの理由。
だがシドの気遣いが癪にさわったのか、フェリシアはまたもや頬をぷくりと膨らませた。
シドは苦笑し、彼女に詫びる。
フェリシアの手に触れた指を彼女には決して見せないようにして。
なぜなら指の先が焼け爛れていたからだ。
フェリシアの毒気が強まっていた。
シドが常に張り巡らせている防護を貫く程に。
それが裏の理由である。
◆
(とはいえ、予想通りだ。あの手の呪いは時と共に強くなる。だからこそ俺は知り合いを頼るつもりだった)
毒といえば帝国にはエキスパートと言うにふさわしい存在がいる。
皇帝が幼い少女にかわり、その補佐として辣腕を振るっている帝国宰相ゲルラッハだ。
魔導協会一等術師にして帝国の高位貴族のかの男は、毒と腐敗の術に関しては帝国広しといえども比肩するものはいない。
人呼んで、『死疫の』ゲルラッハ。
シドは彼とも面識がある。
まあ先代『禍剣』の頃の話だが。
ゲルラッハはシドの"体質"を知る数少ない者の一人だ。
そして現在、彼らはレグナム西域帝国の首都ベルンへと向かっていた。
フェリシアを守護しているはずの毒はどういうわけか日に日に強くなっていっている。
そして毒の蛇は加護の宿者たるフェリシアにさえも牙を剥きつつあった。
今の彼女は7日のうち3、4日は床に臥せている。
自身の内の毒がその様子を変じた事はフェリシア本人にもわかっており、だからこそベルンへの訪問を二つ返事で了承した。
まあ彼女としてはこのまま毒が強くなれば、あるいはシドとも離れなければならないのではないかという不安感から了承した事ではあったが。
◆
「葡萄酒があるだろう?あれは時を置けば置く程に美味く、そして複雑な味わいへと変じてくる。さらに時を置けば味自体が消えるがね。この類の呪術もそういうことだ。いや、それは人や物にも言える事かもしれないが」
禿頭の、いかにも悪そうな男が眉間に皺を寄せてシド達に言った。
この男こそが帝国宰相ゲルラッハである。
帝都ベルンでゲルラッハと首尾よく面会する事が出来たシド達は、状況打開への鍵を探るべく彼に話を聞いていた。
ゲルラッハはぎょろりとシドをねめつけながら続ける。
「シド、貴様には視えないか?儂には視えるぞ。ルベラベラ子爵を護る毒気の加護を通して、薄らぼんやりと纏わりつく彼女の母親と思しき人影が。…持って二月。それを過ぎれば子爵を護る加護は正真正銘の呪いと化し、たちまち彼女を蝕むであろう。この術を掛けた者は呪術のそうした性質を知らなかったのであろうな。確かに子爵はその術により身を護られておる。だがこんなものは刀剣を以て料理をするようなものだ…一時便利使いするのはよかろうが、それが常態ともなればいつかは大怪我をするだろう?子爵が置かれている状況もそのようなものだ」
「この術を解く方法はないのか、ゲルラッハ」
ゲルラッハは盛大に鼻息を吹き出し、そんなことも分からないのかという目でシドを見て言った。
「この術を仕掛けた者は子爵の母御であろう、先代ルベラベラ子爵は余程娘の事が心配だったのだろうな。だがどのような術でも永遠に継続するわけではない。かつて三代勇者が身命を賭して為した魔王封縛の大結界ですらも時と共に摩耗しているだろう?」
コツコツとゲルラッハの腸詰めのような太い指が机を叩く。
「要するに、子爵を護ろうとするその意思に比する意思を以て、彼女の毒気を受け止めてしまえばいいのだ。一切の打算なく、そして純粋なる想いで彼女を護ります、だから心配召されるな、と…行動で示せばよいだけの話だ。さすれば術はその意味を失い、消えてなくなるであろう」
◆
帰路の馬車は無言の空間が支配していた。
フェリシアは終始俯き、嗚咽を漏らす。
泣いているのだ。
シドはそんな彼女に言葉をかける事もなく、ただ馬車を走らせていた。
フェリシアは暗鬱と破滅の未来を悲観しての沈黙。
だがシドは…
――といってもな、接吻でもすればいいのか?あるいは抱けという事か?いや、あたら花を散らしては逆に呪いが強まる恐れもありそうだな。彼女の"中"で俺のモノがちぎれて残る可能性すらある。笑えるが全く笑えない。ふ、ふ、ふふふ
などと最低な事を考えていたが故の沈黙だったが。
◆
病は気から、という言葉があるが、呪術の類にも同じ事が言える。
フェリシアは屋敷に帰った後ふさぎこみ、伏せる日が増えた。
結句、彼女の弱気は"その日"が来るのを早めてしまう。
その日は朝からフェリシアの体調が思わしくなく、軽い吐血や高熱が続いた。
毒気の護りが暴走しているのだとシドは見てとった。
だが医者に診せる事もできない。
彼女の体液は猛毒であったし、なんなればこの部屋にみちる空気にすら毒気が混じっていたからだ。
「………シ、ドさん。わ、私もう…」
「喋るな、フェリシア」
シドは息も絶え絶えなフェリシアの細い手を握って答えた。
強まった毒気がシドの魔力の防護を貫通し、彼の肌を焼く。
強力な護りの術を使えばシドが傷つく事はないが、そういった術は強力な反発性もあるためにフェリシアを傷つける恐れが大であった。
だから最低限の魔力のみで膜を張るが、その程度の魔力膜はフェリシアの毒気は容易に貫通してしまう。
「ッ…だめ!離してください、毒がッ」
フェリシアは握る手を引き離そうとするが、シドは離さない。
離さないどころか、なんと彼女を抱きしめてしまった。
狼狽したフェリシアの全身から毒気が漏れこぼれる。
常人ならばただちに毒殺される猛毒に、しかしシドは僅かに顔を顰めただけで苦悶の声1つ漏らす事はなかった。
痛みや苦しみがない事はない。
だがそれを切り離し、俯瞰視出来るようになったのは輪廻の日々が始まって何百年目の事だったであろうか?
シドが物理的な苦痛を厭う時期は既に過ぎ去っていた。
それに………
(良い顔だ。ここまで暴れるほどに俺が心配か。お前は今、俺の事だけを考えているのだな。そうだ、もっと俺を想え、焦がれてくれ。お前の慕う俺が毒におかされる様を悲しみを以て見続けろ)
ぺろりと自身の唇を舐めると、舌が痺れを捉えた。
フェリシアの毒気だ。
だが、常人ならば舌が腐れ落ちる毒であってもシドはへいちゃら…とまではいかないものの、その原型を保っている。
「やめてッ!!!離して!!シドさんッ!!離れてください、離れてくださいようッ…!!じゃないと、じゃないと死んじゃう…シドさんが…シドさんが死んじゃうじゃないですかぁ!」
フェリシアが絶叫する。
既に毒はシドをして苦痛を感じさせるほどに浸透している。
まあ彼は自身の苦痛を俯瞰出来るため、何程の事はないのだが。
それに彼女の悲痛の叫びはシドにとってはまるで天使が歌い上げる賛歌のようにも聞こえる。
なおも叫び、暴れ狂うフェリシアにシドが次にした事。
それは
「…う、むぐッ…!?」
接吻である。
「静かにしていろ。使用人が来てしまう。…大丈夫だ、フェリシア。君を苦しめる毒気は俺が全て受け止めてやろう。それにだ、言っただろう?君が俺を殺すのなんて、2000年は、早い、と」
シドの瞳が妖しく光る。
睡魔を呼ぶ魔眼である。
人生経験が豊富なら、色々と小手先の技術は身につくものだ。
このまま悲しみの絶叫を聞いていたかったシドだが、過ぎた狂乱はあるいは彼女を自傷…もしくは自殺へと至らしめるかもしれないと危惧した。
故の強制入眠である。
急速に強まっていく睡魔に、それでもフェリシアは抗おうとした。
基本的にこういった術は心を強くすれば抗えるものだが…
――愛している。フェリシア。幸せになりなさい
その言葉で精神の安定を崩れさせ、術はその弱みに十全につけ込み、フェリシアはすとんと眠りについた。
腕の中で安らかに眠るフェリシア。
しかし眠りの最中にあっても、毒気は次々と漏れ出し、シドを蝕んでいく。
だがシドは穏やかな顔をしてフェリシアを抱きしめ続けた。
その光景は知らないものがみれば神聖で尊い何かを感得するのかもしれない。
だがシドの内心を知れば、たちまち唾棄し、罵倒するはずだ。
――たまにはこういう趣向も良い。次の人生では、く、くくくく。フェリシアの顔を思い出し、堪能するとしよう…
その思考を最後にシドは死んだ。
長年フェリシアを苦しめていた毒気の加護を道連れにして。
◆
翌朝。
フェリシアは目を覚ました。
先日まで感じていた体の不調は一切感じられない。
これは毒気の加護が完全に解呪されたからだ。
寝起きでぼんやりしていた頭は、しかし周囲の血、それに傍らで眠ったように横たわる人影をみて瞬時に覚醒した。
シド。
フェリシアは慌ててシドに声をかけるもシドは目を覚まさない。
当然の仕儀ではある。
死体に話しかけても応えはないだろう。
なお死体が原型を保っているのは、シドがうまく調整したからだ。
さすがに起きたら横に肉がグズグズになった死体がいてはかわいそうだろうと、肉体の崩壊を可能な限り避けるようにして魔力で防護した結果である。
死ぬ事にかけて、シドに比肩する者は天地魔界を通して誰一人として存在しない。
「シ、シドさん…だ、だれか!!誰かある!」
フェリシアは慌てて使いを呼ぶも、それに応えるものは誰もいなかった。
当然だ。
フェリシアにかけられた毒気の加護が解けた事は彼女を含め誰もいない。
それから激昂したフェリシアは屋敷をかけまわり、死にたくないと叫ぶ侍従をとっつかまえてむりやり引き立て、シドを診させた。
侍従にしてもフェリシアから触れられても全く痛みを感じないため、不承不承ながら従うが……
「もう、彼は亡くなっています。死んでから随分たったのでしょうか…関節もかたまってしまってますね…。しかしなぜ彼が御当主様のベッドで死んでいるのですか?あ、い、いえ…その…決して私は胡乱な事を考えたわけではありませんが」
弁明する侍従を無視して、フェリシアはシドの死体をじっと見つめていた。
常に感じていた苦痛は既になく、そして先ほどの一件。
激昂の余り侍従へ触れてしまったが、侍従は平気そうだ。
さらに、先日の帝国宰相ゲルラッハの言葉。
パズルのピースが綺麗に合致した。
ややあってフェリシアはシドの骸に抱きつき、そして泣いた。
◆
それからややあって、フェリシア・ルベラベラ子爵は自身の毒気の加護が消えた事を公表した。
そしてそれを為したのはシド・デインであり、彼はかけがえのない恩人であったとも。
フェリシアは想い人の死を苦にして自棄となる事はなかった。
なぜならば彼女の中にはシドの言葉が道標となり、煌々とその精神世界を照らし出しているからだ。
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ルベラベラ子爵家には1つの墓が建てられている。
当主の寝室の窓から見える中庭にあるその墓には名前が刻まれていた痕跡がある。
削り取られたのだ。
削ったのはフェリシアであった。
なぜか。
それは………
◆
「ああ…うん…そうか…シドがな。まあ子爵を苦しめる毒気の加護が消えたのなら、それはそれで良かったと思うが…。ああ、泣かないでくれ、うむ…。うーむ…どうするか…いや、しかしな……。相分かった。ルベラベラ子爵よ、今からいう事は秘事である。決して口外せぬように。良いか、シド・デインという男は…」
帝国宰相ゲルラッハに事の次第を聞かされたフェリシアは、シドのシドたる所以を知った。
爾来彼女は各所へ手の者を送り、とある男を探し続けている。
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深夜、ルベラベラ子爵邸。
夜空に煌々と輝く満月を見ながら女性が呟いている。
――シドさん、シドさん。次にお逢いしたその時は、決して決して離しません…




