2.黒き剣士の策謀(前)
主なき今も、帝都ヴェルガの象徴であり続けていた帝宮エボニィサークル。
しかし、ヴェルガが君臨していた頃のような活気は失われている。
否、失われていた。
主の帰還が叶うかもしれない。
その降って湧いた吉報に、ヴェルガを慕って城に残っていた住人たちの意気は上がっていた。
近衛のミノタウロスも、侍女を務めていたサキュバスも、文官のダークエルフも。立場や種族を問わず、彼らの顔は希望に輝いている。
そして、その雰囲気は街へも伝播していた。
柱石を失ったヴェルガ帝国の惨状に心を痛めていたというのも、ある。
ヴェルガが存在していた頃の栄華を懐かしんでいる者もいるだろう。
しかし、それよりもなによりも、ヴェルガが地上へ帰還するという事実そのものに喜んでいた。
あの天衣無縫な女帝の行いに困らなかった者はいない。けれど、同時に周囲の者たちも楽しんでいたのだ。
いつも無聊をかこっていた悪の女帝だったが、なにか面白いことがあれば童女のように無邪気に笑う。その笑顔に魅せられた者も多かった。
善の神が放った天使を、無造作に退ける悪の半神。その力に従っていた者もいるだろう。
だが、それ以上に、本人も意識はしていなかっただろうが、ヴェルガは愛されていたのだ。
ゆえに、詳しいことは知らされていないにもかかわらず、主を迎え入れる準備に勤しんでいた。
「無邪気なことだ」
窓に近づくと、走り回る侍女や近衛兵たちが見える。
あてがわれた城内の一室で、そんな熱を感じつつ、レイ・クルスは無感動につぶやいた。
そこには、見下した様子も、当然ながら祝福する気配もない。ただ、感想を口にしたという事実だけがあった。
やがて興味を失ったかのように――元々あったのか怪しいところではあるが――窓から離れ、この客室もあとにした。
廊下へと出た黒衣の剣士は、自分自身であった生命啜りを背負い、帝城を闊歩する。
威風堂々としていながら、誰にも寄せ付けぬ空気を合わせ持つレイ・クルス。
すれ違う者もいたが、誰もが道を譲る。感謝と畏怖とで。
だが、レイ・クルスは、それに気づいてすらいない。眼中にないと言ったほうが正しいだろうか。
リ・クトゥアにて最後の欠片を手にしてから、一年余り。
黒衣の剣士レイ・クルスは、ついに最後の一手を指し終えた。
残る作業はいくつかあるが、いずれも今までの苦労に比べれば単純な仕事。ルーティーンでこなせる、ただの仕事に過ぎない。
目的の達成は間近。
その胸に去来するのは、いかなる感情なのか。レイ・クルスの表情ひとつ動かない相貌からは、窺い知ることなどできなかった。
「スィギル……」
本人以外には聞こえないだろう、小さな声。
だが、それで構わない。聞かせたい相手は、遙か彼方にいる。
今は、まだ。
「さて、俺の目論見を知ったなら、なんと言うか。いや、言われるか……」
愛する者の名を呼んだことがきっかけとなったのか、レイ・クルスが楽しげにつぶやきをもらす。
初めて、唇が微笑の形に変わった。
ちょうどすれ違ったサキュバスの侍女が見惚れるほど、魅力的で獰猛な笑みだ。
レイ・クルスは、しかし、それには目もくれず。否、気づきすらせず、想像の翼を羽ばたかせる。
一本気なスィギルのことだ。
今までの行いも考えれば、本気で怒りを向けてくるに違いない。
恐らく、剣を交えることになるだろう。
黒衣の剣士の胸は、持ち主の意思によらず勝手に高鳴った。
運命の瞬間は、すぐ側まで近づいていた。
「待たせたようだな」
「…………」
「…………」
レイ・クルスがたどり着いたのは、玉座の間だった。
過日、女帝ヴェルガが陶然とした表情で窓の外の『島』を見ていた場。
そこで黒衣の剣士を待ちかまえていたのは、二人の重鎮。
ダークエルフの長にして、帝国宰相を務めるシェレイロン・ラテタル。
ヴェルガの後見人を自任する死巨人の長、“雲をも掴む”ボーンノヴォル。
ヴェルガの遺言――争い、強きものが後継者となるべし――を受けても、国体の護持を優先した二人。
シェレイロン・ラテタルは、廷臣の中でも最古参の一人だ。
ヴェルガと出会ったのは、悪の愛妻ベアトリーチェが天上へ去った直後。残された悪の半神を傀儡に据え覇を唱えようとしたダークエルフは、彼女を一目見てそんな考えを捨てた。
代わりに、幼きヴェルガを支え、地上の支配者とすることに決めたのだった。
ボーンノヴォルは、それよりもなお古い。
悪の愛妻ベアトリーチェと親交があったようで、ヴェルガのことは生まれたときから娘や孫のように慈しんでいた。
はもちろん、悪の死巨人なりにではあるが、その想いは本物だ。
ヴェルガにも、それは伝わっていたのだろう。このエボニィサークルは、ボーンノヴォルでも自由に出入りができるよう天井が高く設計されていた。
忠誠心に順番をつけることは困難だろうが、それでも、自他ともに一、二を争う二人。
けれど、シェレイロン・ラテタルの表情は硬く、ボーンノヴォルは威嚇するように巨大な戦斧に手をかけている。
言葉通りであればヴェルガが再臨しようというのに、そろってそれを為すはずのレイ・クルスをにらみつけていた。
「そちらの要求に従い、諸種族の王に号令をかけた。ほどなくして、集まることだろう」
ダークエルフの宰相の声は固い。
レイ・クルスを信用していないのが、その態度で分かった。
しかし、それにも理由がある。
「今度は、そちらの番だ。いかにして、陛下を呼び戻すのか。諸種族の王たちが、なぜ必要なのか。詳しい話を聞かせてもらうぞ」
「もし、たばかるつもりであったら……覚悟せよ!」
決して仲が良いとは言えない、シェレイロン・ラテタルとボーンノヴォル。
だが、ヴェルガへの想いを通じ、二人の心はひとつになっている。
そんなヴェルガ帝国の重鎮たちを前にして、レイ・クルスは笑った。
威圧感など、ものともしない。
それもそのはず。それは、憐憫の笑みだった。
「なぜ、諸種族の王を呼んだか? 無論、敬愛する女帝が再臨する瞬間を、愛すべき民たちに披露したい……というわけではないな」
黒衣の剣士の笑みはさらに濃くなり、それに比例して二人の警戒心は跳ね上がる。
無駄なことだったが。
「神が。それも、すべての神が地上に降りてくるような事態が起これば、畢竟、あの悪の女帝も地上へ舞い戻ることに疑いの余地はない」
レイ・クルスの計画。
それを聞かされて、ボーンノヴォルはおろか、シェレイロン・ラテタルですら反応できなかった。
凶刃を見るような視線を黒衣の剣士に向けるので精一杯。
「そうか。気づかないか」
普通はそうかと、苦笑しつつレイ・クルスは剣を抜く。
脳裏には、その発端からして縁が深い、来訪者の大魔術師の姿が浮かんでいた。
エルドリックでも、ヴァイナマリネンでも。あまつさえ、スィギルでもない。
絶望の螺旋と何度も遭遇した、ユウト・アマクサの姿が。
「約束は守るぞ、約束はな」
それ以上の説明を放棄し、レイ・クルスは無造作に剣を振るった。
その剣閃はシェレイロン・ラテタルの虚を突き、首を狩る――寸前。
「やらせんぞ、若造!」
死巨人の長“雲をも掴む”ボーンノヴォルが、立ち塞がった。
巨大な戦斧を床に振り下ろし、生命啜りを打ち壊そうとする。
「抵抗するなとは言わん。その義務があるかどうかは分からんが、権利はある」
「なにを吐かすかッッ」
それは完全にレイ・クルスの本音だった。
自らの行いが、完全に個人の我が儘であることは自覚している。そこには、大義も名分もない。
ゆえに、抵抗を受けるのも自らが復讐の対象となるのも当然だと思っている。
もっとも、だからといってやられるつもりも、道を変えるつもりもなかったが。
力で、すべて押し通す。
「その魂まで吸い尽くされるのだ。教えておいてやろう」
「要らぬ世話だ!」
元々、警戒していたというよりは、信頼していなかったのだろう。
レイ・クルスが牙をむいた途端、ボーンノヴォルが死の霊気を全開にし、その巨大な戦斧を振り下ろした。
「《苦痛の刻印》」
窮地を脱したシェレイロン・ラテタルも、冷静に対応を取る。
ボーンノヴォルの攻撃に合わせて、予め仕込んでいた神術呪文を発動。ダークエルフと蜘蛛の守護女神ソラフの助力を得て、レイ・クルスの足下に激痛を発する魔法陣を創造した。
紫色の闇が噴き出し、黒衣の剣士にまとわりつく。
この第五階梯の神術呪文により足止めし、ボーンノヴォルが必殺の一撃を放つ。
普段は対立することも多い二人が繰り出した、不可避のコンビネーション。
「遥か東方の地リ・クトゥアに住む古竜の巣に、これは眠っていた」
しかし、レイ・クルスは一顧だにしない。
耐えがたい苦痛が襲っているはずにもかかわらず平然と活動を続ける。
「ぬぅっ、ああぁッ」
死巨人の長からあがる、戸惑いの声。
無理もあるまい。
体格にも得物にも比較にならないほどの差があるというのに、叩き付けた戦斧は防がれ。あまつさえ、全力で押し込んでも黒衣の剣士は微動だにしない。
「黒檀の狂熱の宝珠と同じく、絶望の螺旋を牢獄から解き放つ秘宝具、狂奔する黄昏の大鎌だ」
突如として、生命啜りが禍時の闇に包まれる。
次いで、その闇が妖しく踊り、形を変えた。
闇色をした、巨大な大鎌に。
「本来は、精霊皇子のような超常の存在の命が必要なのだが……今回は、質より量で行く予定でな」
レイ・クルスそのものであった魔剣生命啜り。
それが狂奔する黄昏の大鎌と融合し、絶望の螺旋はレイ・クルスの目的を果たすための道具となった。
絶望の螺旋の封印が解け、そして――
「そのための糧となれ」
大鎌が振るわれ、肉体だけでなく、帝宮そのものが斬り裂かれた。
無慈悲に、無感動に。
そして、惨劇が始まった。
書籍化作業のため、今週まで月・水・金の更新とさせていただきます。
申し訳ありませんが、よろしくお願いします。