幕間その2 正義と正義(中)
「大変助かりました、異国の御方よ。ささ、なにもありませぬが、遠慮せずどうぞ召し上がりください」
浅黒い肌をした白髪頭の老人が満面の笑みを浮かべ、低い卓の上に並べられた南方料理の数々を若者――クレスへと勧める。
数日前に洗礼を受けた酒場の料理よりは洗練されており、味付けも上品――つまり、辛さ控えめ――ではあるようだった。
「いえ、当然のことをしたまでですから」
老人だけでなく、その家族――というよりは一族か――も集っているため、数十の視線がクレスへと注がれる。
「なんの。あのまま見捨てられておったら、今頃わしはどうなっていたことか」
大したことをしていないという認識は相変わらずだが、クレスもその言葉には、確かにうなずくしかなかった。
そして、この老人との出会いを振り返る。
タイドラック王国の王孫クレスは、考え事がしたいと、一人カステオの目抜き通りを歩いていた。
街に出れば奴隷の件で、なにか実態を目の当たりにできるかもしれない。
そう思って長剣だけ持って街に出たが、その意味では、肩すかしだった。途中で、イブン船長と一緒に件の農場へ行けば良かったと、後悔したほど。
理由は単純。街中で奴隷を見かけることが、ほとんどなかったからだ。
奴隷のほとんどは、農場や鉱山で使役されている。一部、元知識階級の奴隷が貴族や商人に雇われ家庭教師などに就いているケースもあるが、稀だという。
しかし、その長剣があとで、役に立った。
そうとは知らないクレスは、諦めて異国の見学をすることにした。
ろくに舗装もされていない町並み。
熱風で砂が舞い上がるのは参ったが、道の両脇に並ぶ露店には色鮮やかな魚や果物が山盛りにされており、露天で働く人間や道往く人々の肌は全体的に浅黒く、髪も黒い者が目立つ。
服装は白い生成りのシャツやワンピースが多く、その代わり、手の込んだ刺繍が施されている物が多かった。なにか意味があるのかもしれないと、クレスは思う。
基本的に言葉は通じるが、時折聞き慣れない固有名詞が飛び出し、ここが異国なのだとまざまざと思い知らされた。
そんなクレスが目抜き通りを歩いていると、この老人が数名の荒くれ者に因縁を付けられているところに遭遇したのだ。
当然のように割って入ったクレスが、船上刀を抜き放った男たちをあっさりと長剣で追い払う。
そして、その老人がお礼をしたいと自宅に招かれたら、この状況。場末の酒場で吟遊詩人が歌いそうな経緯を経て、クレスはここにいた。
壁一面には、クレスですら見たことのない巨大なタペストリが飾られ、要所に黄金の燭台が配されている。
今クレスが座っている絨毯も触れただけで高級品とわかり、手にしている杯も銀でできていた。
(いや、それよりも……)
そんな目に見える贅沢品よりも重要なのは、灼熱のこの国において、比較的快適に過ごせているということ。
石造りの室内は、きつい日差しを遮り、入る前に見た広い庭に植えられた樹木で暑さを緩和しているのだろう。空気は乾いており不快感は、それほどでもなかった。
時折吹く、汗も一瞬で乾いてしまいそうな熱風が入ってこないだけでも、断然ましだ。
他にも、なにか生活の知恵があるのかもしれない。
そして、それを実行できるということは、好々爺然とした老人がかなりの資産家か権力者であることを意味していた。
「異国からの客人よ、わしは、旅の話を聞くのが大好きでしてな。恩人にこのようなお願いをするのは、心苦しいのだが、なにかお聞かせ願えませんかな」
「……その程度であれば、喜んで」
用心して、薄い生地で具材を挟んだパンを中心に手を出していたクレスが、食事を中断して語り出す。
しかし、航海自体は大きなトラブルもなく、アーケロンのことは喋れないので、早々に百層迷宮やフォリオ=ファリナの話にシフトする。
また、さすがに、ファルヴの武闘会のことも話せない。
あまりにも荒唐無稽だし、そもそも、酔いつぶれて決勝戦を見逃したなど、笑い話にもならないではないか。
そのため、限定的ではあったが、老人は大いに喜んでくれた。
「わしは、今は息子に譲って隠居の身だが、若い頃は農場を営んでおってな」
そして、老人としてはある意味定番。身の上話へと移り変わる。
クレスとしては、願ったり叶ったりの展開。
しかし、話が進むにつれ、そんな感想は吹き飛んでしまった。
「今は、奴隷たちの逃亡に手を焼いておりましてな。わしの若い頃には、そんなことはなかったんじゃが」
「はぁ……」
クレスは、なにも言えない。
少し前なら罵倒して席を立っていたことだろう。いや、あまりにも価値観の違う見解に、やはり、呆然としていたかもしれない。
「逃亡狂――心の病なのではないかと、わしなどは思っておるのですわ」
そう、なんとも言えない表情で語る。
ごろつきから助けた、この人の良さそうな老人が、クレスにはまったく別の生き物のように見えていた。
「これは、見るからに大変そうな作業でありますな」
自らの身長よりも遙かに高い――恐らく、岩巨人と同程度だろう――サトウキビの茎を眺め、感心したように言うアレーナ。
葉の部分まで合わせれば、彼女の倍はあるだろうサトウキビ。
巨大と表現しても良いそれを、収穫するだけで過酷な労働だろうと想像がつく。
「ええ。だから、奴隷を使っているのです」
しかし、そんな感想は慣れているのか、アレーナと数名の司祭や神官戦士たちを案内する男は、平然と答えた。
アレーナは、思わず拳をぎゅっと握った。いや、アレーナだけではない。同行する彼女の部下も同じだ。農場を管理する従業員の男が、当たり前のことのように言うので、やや毒気が抜かれてしまったが、怒りをこらえるのには相当な努力が必要だった。
「なるほど」
アレーナが、そう一言返すので精一杯。
一時、この暑ささえ忘れる。
「詳しくはお教えできませんが、収穫したあとの作業も重労働ですから。奴隷なしでは、やっていけません」
モレーノという男が経営する農場へ、買い取り交渉のため訪れたイブン船長とペトラ。
アレーナたちは、それに同行し、農場の見学を行なっていた。サトウキビ以外にも、唐辛子などの香辛料やトマト、ジャガイモなどといった一般の農産物も栽培しているそうだが、最も過酷な労働を強いられる現場を希望したのだ。
最終手段を取るときのため、偵察をしていると言っても良いだろう。
個人の強さで言えば、今は行方不明だがレラが群を抜いている。次にクレス、さらにその次はアレーナとペトラが互角といったところだろうか。
しかし、船員たちを除けば、最大の戦力を保持しているのはアレーナだ。彼女の指揮下にあるヘレノニアの神官戦士団は、いざというとき、大いなる力を発揮する。
ゆえに、実態を見たいと同行したのだが、忍耐力を鍛える試練となってしまった。
「その奴隷と、話しても構わないでありますか」
「そうですね。私も、少し席を外さなければならないので……セラ!」
男が声をあげると、サトウキビ畑の向こうから人が近づいてくる音がする。
一分も経たず、若い女が姿を現した。
「私は少し、管理所へ戻る。その間、お客様の相手をしろ。粗相はするなよ」
「……かしこまりました」
居丈高に命令をした男は、同一人物とは思えないほど柔らかな口調でアレーナたちに挨拶をすると、その場をあとにする。
残されたのは、セラと呼ばれた奴隷の女。
顔形は整っているが、やせこけて健康状態は良くない。それ以前に、生気に欠けていた。
ブルネットの髪は、傷み放題。粗末で、元の色がなんだか分からないほど、汚れ色あせた服を身にまとっている。
「アレーナ・ノースティンであります。ひとつ、率直に聞くでありますが……もし、ここから出られるとしたら、どう思うでありますか?」
「どうって……」
セラが、戸惑いながら、日に焼けた顔で周囲を見回す。
正直に答えれば、どうなるか分からない。同時に、お客様に無礼は働けない。その板挟みだ。
「あー。困らせるつもりはなかったでありますが……」
「そんなことを聞いてきた男がいたけど、私は今でもここにいる。それが答えだよ」
「あっ。イブン船長でありますな?」
セラの黒い瞳が驚きに大きく見開かれる。
どうやら、当たりだったらしい。
「イブン船長の仲間だと思ってほしいのでありますが……。で、どうでありますか?」
「そりゃ、地獄から逃れられるのなら嬉しいさ。次が、ここよりひどい地獄でなきゃだけどね」
「まあ、最低でも普通の生活は約束できるでありますよ」
その言葉を聞いて、セラは瞳を輝かせる……ことはなかった。
希望を欠いた顔に諦観した表情を浮かべ、億劫そうに首を振る。
「余計な気を持たせるのは止めておくれ。それに、ここを一人で出ていくつもりなんかないよ」
「義理堅いことでありますな」
「当たり前だろ。私は、こうやって客人の相手をすることがあるから、待遇もましなほうなんだ。それなのに、みんなを見捨てられるもんか」
「ましな……」
アレーナは思わず絶句する。
それは、彼女の部下たちも同じだった。
「正義の対極は正義でありますが……」
この国では、奴隷の所有は合法で、この扱いが当たり前なのだろう。
ゆえに、奴隷の使用者は、法を守っている。
けれど、この行いは悪である。
アレーナは、そう断じた。
「悪の対極は、善であります」
悪を倒して善を為す。
そう決心するのに、時間はかからなかった。
「ほおぉう。私の農場を、買い取りたいと?」
「そうだ。丸ごとな」
イブン船長の申し出に、農場の主であるモレーノが、蛇のように鋭くナメクジのように粘つく視線を向ける。その真意は、どこにあるのか。なにをたくらんでいるのか。どうすれば、自らの利益を最大化できるのか。
それを探っているような視線だと、同席するペトラには感じられた。
(師匠がいたら、笑顔で潰しそう!)
いつの間にか評価がユウト中心になっていることも気づかず、ペトラは、そんな感想をもらす。
農場に隣接する豪華で巨大と言う他ない屋敷。
ペトラは、イブン船長とともに、件の農場の主モレーノとの交渉に臨んでいた。
「できるできないは別にして、理由を伺いたいですなぁ」
「詳しくは言えんが、安定して行き来できる目処が立ったのでな」
「なるほど、なるほど。だから、交易品を買い取るのではなく、自分で作って運んだほうが儲かると」
「そういうことだ」
ただ、相手は数百の奴隷を酷使する人物だという先入観があるからかもしれないが、まともな交渉にはなりそうになかった。
そもそも、補給の手配を終えたイブン船長が交渉を試みたのは、とりあえずのことでしかない。金で片が付けばそれで良いと思いつつも、モレーノのことを知っているだけに、本気でどうにかなるとも思っていない。
残念ながら、それが、交渉にもにじみ出ている。
モレーノにしても、取引はあったにしても所詮異邦人であるイブン船長からの突然の申し出を相当怪しんでいる。それでいてすぐに断ろうとしないのは、金の匂いに敏感だからだろう。
一代で大農場を築き上げただけあって、鼻が利く。頭のなかで、忙しなく損得計算をしているようだった。
モレーノが金儲けに長けた人物であることは、招かれたこの応接室を見れば分かる。
この国の伝統的な調度ではなく、フォリオ=ファリナから運ばれたのであろう品々で構成されていた。つまり、舶来の高級品が惜しげもなく並べられていることになり、それを集める財力はいかばかりか。
もっとも、この国においては異国情緒あふれる部屋ということになるのだろうが、ペトラからすると、ありふれた調度でしかない。
イブン船長の護衛を務める冒険者としか見えない彼女は、その実、世界最大の都市フォリオ=ファリナを治める世襲議員の令嬢なのだから。
それよりも、注目すべき相手がいた。
モレーノの背後に、一言も発することなく控えている巨漢。
体躯は墨で塗ったように黒く、筋肉はがちがちに盛り上がっていた。目つきも鋭く、こちらを警戒――否、威嚇している。さすがに武器は持ち込んでいないので得物は分からないが、相当、できる。
昔なら、気づかなかっただろう。ヴァルトルーデやアレーナと、日々鍛練を積んだたまものだ。
もし、力尽くでという算段になったなら、最大の壁になることだろう。
「しかし、砂糖の製法を国外に持ち出すことは禁止されていましてなぁ。農場を譲るのは、秘密を教えるのと同じですわ。いくら金を積まれても、牢屋に入る羽目になっては、割に合いませんな」
「それなら考えてある。あくまでも、俺たちが欲しいのは所有権。表向きの主は、あんたのままだ。街のほうにでかい屋敷でも建てて、悠々自適に暮らせばいい」
モレーノは、一度視線を下にやってから、わざとらしく首を振って言った。
「お役人さんを舐めたらいけません。その程度、ちょっと調べられたら丸わかりでしょうなぁ」
「鼻薬を効かせればいい」
「そんな単純なものでは――」
「これでもか?」
イブン船長が、床に置いていた革袋を卓上に移動させる。先ほどから、モレーノがちらちらと気にしていた、金袋だ。
「ほおお……」
その中身がぶちまけられると、モレーノは思わず声をあげた。
無理もない。金貨の10倍ほどの価値を持つ白金貨。それが、砂漠の砂のようにこぼれ落ちているのだから。
これだけで、モレーノが所有する数百人の奴隷と同じだけの価値があるだろう。
「こいつは、手付けとして持ってきた」
それだけの資金を目の前に、イブン船長はなんでもないように言った。
実際、自分の金ではない。目的のためなら、くれてやっても惜しくはない金だ。
しかし、モレーノの反応は冷たかった。
「……お引き取り願いますわ」
イブン船長の目を真っ直ぐに見て――つまり、白金貨からは目をそらして――愛想笑いを浮かべながら言う。
意外な展開にペトラは驚くが、表面上は、なんでもないように取り繕う。
それは、イブン船長も同じだった。
「……そうか。また、来る」
「お断り……と言いたいところですが、カステオの人間は客人に対して閉ざす扉を持ち合わせておりませんわ」
断りはしたが、含みを持たす。
舌なめずりでもしそうな表情で見送るモレーノからの視線を、背後からだったが、ペトラは確かに感じていた。
同時に、護衛の男からの殺意のこもった視線も、また。




