幕間その2 正義と正義(後)
今回、約一万字あります。大体、普段の倍です。
前回同様、視点も変わりますので、ご注意ください。
「そんなことがあったのか……」
「まあ、異国の文化は尊重せねばならぬものでありますが」
「それと、許すかどうかは、話が別です!」
クレス、アレーナ、ペトラ。
再びイブン船長の船室に集った三人が、見聞きしたことを、それぞれに語り終える。既に夜遅い時刻だが、誰も問題にはしていない。それほどまでに、ショッキングな内容だったのだ。
そして、一様に難しい表情を浮かべ――それは、事情をよく知るイブン船長も同じだった。
「そうか、セラが……」
悲しんでいるのか、喜んでいるのか。
数々の航海による痕跡が刻まれた顔からは、感情を読みとることが難しい。
個人的な事情には踏み込まず、アレーナが方針を確認する。
「まあそこはともかく、どうするでありますか?」
「もちろん、助けたいです!」
「そうだね。根本的な解決にならないのは分かっているけれど……」
「では、やはり、その方法でありますな」
改めて目標が確認できたところで、議題が元に戻る。
どうやって、モレーノという男の農場から奴隷を解放するか。
「モレーノのところには、何度か行くつもりだ。そのときに、セラと接触して、助けに来たことを伝える」
「……怪しまれないでありますか?」
「とっくに、怪しまれているだろう」
伝えれば、信じてもらえるにせよ、疑われるにせよ、奴隷たちの間で噂になることは避けられない。となれば、モレーノに警戒される可能性は高くなる。
「だが、それよりも優先したいことがある」
「……そうか。それよりも、我々が助けに行くとなったときに、動いてもらえるようにすべきか」
クレスも、その方針に同意した。
ほとんど縁もゆかりもない異国の人間が突然助けに来たと言っても、怪しまれるだけで終わってしまう。それなら、多少のリスクを背負ってでも、希望を持ってくれたほうが良い。
しかし、事態は予想を遙かに超えて動く。
「せ、船長!」
「入れ」
ノックももどかしく外から呼びかける声に、イブン船長は即答した。
船員たちには、誰も通すなと伝えている。
つまり、緊急事態ということだ。
入ってきたのは、アーケロンの子と意思の疎通ができた船員見習いの少年。
先ほどまで沖合で待機するアーケロンのところにおり、子アーケロンに乗って船へ帰ってきたところ、異変に出くわしたのだという。
「女の人が駆け込んできて、船長に話があるって」
「女?」
常に沈着冷静なイブン船長が、思わず立ち上がった。
「はい。自分はセラだ。イブンに言えば分かるって。あのそれだけですけど、嘘を吐いているようには見えなくて、凄く必死で」
「どこにいる」
「は、はい?」
「セラは、どこにいる!?」
比喩ではなくその場で飛び上がり、足の怪我が酷かったため船医に診せている。
船員身見習いの少年がそこまで伝えたところで、イブン船長は脱兎の如く船長室を飛び出してしまった。
「春でありますかなぁ」
「ロマンスですよね? ね?」
一人では逃げられないと語っていたというセラが、一人脱走した理由。
盛り上がる女性陣をよそに、クレスは不吉なものを感じずにはいられなかった。
「意外と、早かったな」
船へと近づいてくる人の集団をサティアの呪文で強化した視覚で捉えながら、甲板に立つクレスは言った。声に震えはない。完全にいつも通りだ。
「知らせてくれたセラ殿には、感謝でありますな」
夜陰に紛れてはいるが、百を超える武装した一団の移動だ。警戒してかなりゆっくりとした歩みだが、意識して見れば気づかないはずもない。
呪文が付与されていないアレーナにも、接近する集団――軍勢と呼んで良いだろう――の気配が感じられた。
「な、なんでさ。どうして、平然としていられるんだい?」
命がけで脱走を試み、この襲撃を知らせてくれたセラ。私兵を出撃させたため奴隷への見張りが薄くなったという皮肉な状況はあったものの、先んじて到着したのは、足の裏がぼろぼろになるほど走り抜いたからに他ならない。
だというのに、イブン船長に連れられ甲板に出てみれば、当たり前のようにそれを眺めている男女の姿があった。
怒り、戸惑うのも無理はないだろう。
「英雄と呼ばれた人たちと戦った経験があるからかな」
そんな彼女へ、肩をすくめながら、クレスは答えた。
あのなかに、アルサス王や祖父エルドリック。あるいは、レイ・クルスに匹敵する存在がいれば、確実に浮き足立っていただろう。
だが、そんな相手はそうそうお目にかかれるものではないし、そもそもそんな強者も気配はない。
もっとも――
「まあこの程度、いきなり奈落で悪魔と戦う羽目になったのに比べたら、なんてことはないでありますな」
「奇遇ですね! 私も、その経験あります!」
――経験という意味では、アレーナとペトラのほうが、規格外だった。
「あれ? 二人のほうが、過酷な経験を積んでる?」
「大丈夫よ、クレス。普通、いきなり奈落へなんか行かないのよ」
不幸自慢をしているわけではない。それは分かっているが、女性二人よりも安穏としているようでは、男としてどうなのか。
そんなクレスを、サティアがなだめる。
それを横目に見ながら、奴隷の女――セラの肩を抱いたイブン船長は忌々しそうに言った。
「こいつは、俺のミスだな……」
「もしかして、白金貨を見せたのがですか?」
「奪いに来たということでありますか?」
まさかそんな短絡的なと、アレーナがあきれたように言う。
深謀遠慮という言葉からはほど遠いアレーナが肩をすくめるほど、モレーノの動きは拙速だった。
「帰りに襲われなかっただけ、ましだったのかもしれんな」
「どうせなら、船にある残りも一緒にと……でも、思ったのか」
立ち直ったクレスも、イブン船長の推測にうなずく。
こうなっては、手段を選んでいる場合ではない。
「私は、降ろしておくれよ。みんなの所に戻らなくちゃ」
「え? これから戦いになるでありますよ。みすみす危険にさらせないであります」
「戦い? 逃げるんじゃないのかい?」
どうなってるのかと、セラはイブン船長の顔をのぞき込む。
てっきり、船を出して襲撃をやり過ごすものだとばかり思っていたのだ。
「俺たちは、あの農場でこき使われてる人間をさらって、北の国へ連れていくために来たんだ」
かみしめるように、覚悟を決めるように。
イブン船長は、ゆっくりと、はっきりと、セラへと。甲板の皆へと告げる。
「だから、飛んで火に入る夏の虫はあっちのほうだ! あいつらを倒して、農場まで進撃。お宝ちょうだいして、凱旋と行くぞ」
イブン船長の宣言に、クレスはにやりと微笑んだ。
この国に来てから、随分と戸惑わされた。最後ぐらい、シンプルにやっても罰は当たるまい。
それはアレーナも同じだったようで、船に分散して乗っているヘレノニアの神官戦士団を集めるよう、船員に依頼をする。
「ちょっと、待ってください。こんなときに参考にするよう、師匠から預かっていた手紙が……」
多額の現金とともに、ユウトがペトラに渡した封筒。
そこには、緊急時に参考になればと、彼なりのアドバイスが書かれていた紙が入っていた。
ペトラは、肌身離さず大事に持っていた手紙を取り出し、小魔法で灯した小さな明かりで内容を確かめる。
「……さすが、師匠」
記されていた、最後の手段。
それを伝えられ、ペトラ以外の誰も彼もが困惑する。いや、正気を疑う。
「どこのどいつだい。そんな非常識なことを言い出すのは。まるで、狂人の妄想じゃないか」
「お前さんの怪我に、惜しみもなく魔法薬を使えたのも、その非常識な男のお陰だよ」
けれど、上手くいけば、この上なく効率的で――なにより、痛快だ。
「確かに荒唐無稽だが、あの大魔術師が勝算のない提案などしないだろう」
「でありますな」
「大丈夫。師匠の作戦ですから!」
「……野郎ども! 出港だ! 帆を張れ! 夜だからって、関係ねえぞ!」
素早く打ち合わせをし、クレスたちを地上に降ろしたイブン船長は、ツバサ号を残して夜の海に船を走らせる。
一路、帝亀アーケロンの下へと。
「気づかれたか」
夜間にもかかわらず、滑るように出港する数隻の船。
それを見て、私兵を率いていたモレーノの護衛頭は失敗を悟った。
しかし、名誉を挽回するチャンスがあることも、同時に気づいていた。
「まだ、一隻残っているぞ。あれを手に入れるだけで、モレーノ様もお喜びになる」
男が率いる私兵たちの士気が、見る見る回復していく。
闇夜のなかでも、光り輝く高貴な船。あれを手にすれば、白金貨を奪えなかった失敗を補って余りある。
けれど、彼らは気づくべきだった。
なぜ、一隻だけ残っているのかに。
逃げ遅れるなど、あり得ないことにも。
「ヘレノニア神より下賜されしツバサ号に目を付けるなど、不届き千万であります!」
「下賜されたのは、ヴァルトルーデ様ですよね……」
「些細なことであります!」
不埒なモレーノの私兵たちの前に、二人の少女が立ちふさがった。さらに、その背後には、ヘレノニア神の神官戦士団も控えていた。
「邪魔をするなら、生かしてはおけんぞ」
「生きていても、捕まったら奴隷にされるだけでしょう」
ペトラは一歩前へ出て、モレーノの屋敷で出会った護衛の男と向き合う。
クレスとサティアは、イブン船長らと同行し、本命の作戦に従事している。つまり、ここにいる戦力はアレーナたちと、ペトラの仲間だけ。
「だが、死ぬよりはましだろう」
「いえ、そうはなりません」
ペトラが、ユウトから譲られた魔法具、知識神の魔槍を突きつける。
「《火球》」
そして、槍に込めていた呪文が放たれた。
男は間一髪避けたものの、背後の私兵たちは、そうもいかない。
轟音とともに炎が荒れ狂い、ぱっと夜闇を照らし出す。
「ぎゃああ」
「ひ、火だ!」
続けて、100メートルほど離れた船上からも火球が放たれ、私兵集団のただ中に着弾。
確かに、放たれた火球の呪文は、ひとつだった。しかし、爆発は複数起こり、大きく爆ぜて、有象無象をなぎ倒す。
ひとつは魔術師のネラ、が唱えたもの。もうひとつは、ドワーフの盗賊であるデガルが、ツバサ号の投石機から放った火炎弾なのだが、襲撃者たちは知る由もない。
それに、それどころではなかった。
「行くであります!」
その隙を見逃すアレーナではない。
配下の司祭、神官戦士たちとともに突撃していく。壊乱状態にとどめを刺されたようなもので、これはもう、どうしようもない。
(向こうは、任せて大丈夫)
ならばと、ペトラは目の前で呆然とする男に標的を絞る。
その戦意を感じてか、我に返った男が岩のような両腕に偃月刀を構え直し、ペトラと相対した。
「ゴルドム」
「ペトラ・チェルノフ」
お互い、名乗りを上げる。
だが、それだけ。言葉を交わす必要は、ない。
先手を取ったのはゴルドム。
偃月刀を嵐のように振るい、あっさりとペトラを防戦一方に追い込む。魔法具の槍でなければ、柄から断ち切られていたかもしれない。
しかし、逆に言えば、目にも留まらぬ連撃にしっかりと、対処できていたということ。
(ヴァルトルーデ様に比べたらッ)
いや、比べるのもおこがましい。
比較になどならない。
暴風を巻き起こす偃月刀の一撃一撃を冷静にいなしつつ、ペトラは自らの成長を感じていた。
それは決して、錯覚ではない。
「やぁあッッ」
双刀を受け止めたペトラが、そのまま大きく前へ踏み込み、ゴルドムにたたらを踏ませる。
黒い筋肉の塊を、小柄な少女が弾き飛ばす。力だけでも、技だけでも成し得ない偉業。
二人の間に、距離ができる。
槍の間合いだ。
「はっ」
「させんっ」
ペトラが素早く槍を突き出し、ゴルドムが双刀で防御する。
先ほどの裏返し。
だが、ペトラは、結果まで同じにするつもりはない。
四肢の先を重点的に狙った、速く鋭い突きの嵐。致命傷にはならないが、防御をしくじれば、致命傷へとつながる連撃。ゴルドムの精神が、急速に削られていく。
無理もない。率いてきた私兵たちのことも気にしなければならないし、失敗すればどうなるかという重圧もある。なにより、呪文を使う戦士とは、予想外だったのだろう。
(勝つッ)
一方、ペトラは、目の前の壁を越えることだけを考えていた。この敵に打ち勝ったなら、自分の成長を実感できる。ゆえに、目指すは、ただ、勝利のみ。
「勝って、師匠に話を聞いてもらうッ!」
ユウトに、言いたいことがたくさんある。
母を救ってくれたことへの感謝もそう。まだまだ言い足りない。彼の故郷の感想も、ちゃんと伝えたい。初等教育院での仕事についても報告したい。ファルヴの武道会で優勝したお祝いも言えていない。
それも、これ以外も。この勝負に勝ったら。この冒険に成功したら。
きっと、伝えられる。勇気を得られる。
「やあぁっっ!」
そんな思いを乗せて、ペトラは叫んだ。いや、吼えた。
唐突に連撃を打ち切り、一瞬、膝を曲げ力をためる。
そのまま、全身のバネを使って必殺の突きを放った。
「うおおおおっっっ。させるかァッ!」
狙いは心臓。
だが、かわせない。
それを悟ったゴルドムは、逆に前へ出た。
相打ち狙い。死なば諸共。
戦士の意地で、双刀をペトラへと振り下ろす。
しかし、それは届かない。
心臓を貫くかと思った一撃はゴルドムの脇を通過し、ペトラも一緒に駆け抜けていく。
背後を取った。
ペトラはその場で飛び上がり、サイドテールが闇夜に舞う。
そのまま、知識神の槍を一閃。石突きで強かにゴルドムのこめかみを打ち据え、どうと巨体が沈む。
一撃。
ただ一撃での決着。
このあと、さらに攻撃を重ねるはずだったのに。
呪文だって使っていない。
致命的な一撃での決着に、ペトラは逆に戸惑った。
(あれ? あっさり、勝っちゃった)
すっかり、ヴァルトルーデにまで染められたペトラは、この程度の勝利で勇気を得て良いものか。少しだけ、途方に暮れた。
「くひゃひゃひゃひゃひゃ」
舶来品の天蓋つきベッドに腰掛けたモレーノが、豪快な思い出し笑いをする。
やはり、北から運ばせた極上のぶどう酒を鉛のカップであおりながら、一人、愉快な妄想に浸っていた。
「あの金があれば、農地を広げられるなぁ。いんや、余所の農場を買い取るのも良いか。収益は低いが、泡銭。ジャガイモやトマトの作付けを広げるのも……」
モレーノは、農場経営を心の底から愛していた。
既に、サトウキビや胡椒、唐辛子といった南方特有の農産物から莫大な富を得ている。だが、もっと広げて、もっと効率的に運営し、もっと収穫したいと考えていた。
無邪気に規模を拡大し、収穫量が増えることに単純で純粋な喜びを憶える。
その思考は、シミュレーションゲームに似ているかもしれなかった。
だから、イブン船長の申し出に乗るつもりは、最初からなかったのだ。
しかし、あの金は惜しい。
その二律背反を解消するため、モレーノは私兵たちに出撃を命じた。
当然、この国でも犯罪行為だが、もみ消す方法は、いくらでもある。
既に、モレーノのなかでは、あの白金貨は自分の物になっていた。
「いや、奴隷の買い付けもせねばなぁ。まったく、最近の奴隷は、なっとらんわ。直々に選らんばねばならんとは、面倒な」
そう言いながらも、声は弾んでいる。
今この瞬間が、モレーノという男の絶頂期だった。
「ん? 外が騒がしいではなぁ」
外というよりは、屋敷の内部か。
耳を澄まさずとも、怒号のようなものが聞こえてきた。
「まったく、なにをしているんか……」
ゴルドムが、仕事を終えて戻ってきたのだろう。それにしても、騒ぎすぎだ。
護衛や使用人が誰も伝えに来ないことを訝しく思いつつ、モレーノは寝室の扉を開く。
どん底を告げる使者が、そこにいるとは知らずに。
「農産物の苗や種をもらいに来たわ」
「なんだぁ!? 奴隷が、どうしてここにぃ?」
モレーノの耳に、彼女の言葉は届かない。
ただ、手枷に鉄球付きの足枷をはめた美女を見て、咄嗟に声をあげていた。
「奴隷ではないわ。ただ、彼らがこんな状態でも戦う手段を編み出したと聞いて、型稽古をしているのよ。我流だけれど」
「そ、そ、そっそんなこと知るかぁ!」
それは、魂の叫びだった。
もしも第三者がこの場にいたら、モレーノの肩を持ったに違いない。
「それよりも、なぜこんな女を通した! 護衛どもは、なにをやっている!」
「寝てるわよ。というよりは、私が寝かせたのだけれど。だって、種苗はご主人様が管理してるって口をそろえて言うものだから」
「当然だ。この私の右に出る者はおらん」
「じゃあ、改めて言うわ。ちょうだい」
「やれるかぁ!」
これも、魂の叫びだった。
第三者がこの場にいたら、モレーノの正しさを支持したに違いない。
「この程度の反撃も想像せずに、兵を出したの? それは、随分と恵まれて育ったのね」
だが、力の神の分神体は、無慈悲に自業自得だと告げる。
保護者として、この程度の意趣返しは当然――とも、思っていた。
平行線をたどる、話し合いとは口が裂けても言えない会話。
そこに、武器を持った乱入者が現れた。
「死ねっ」
後ろから斬りかかってきた護衛の戦士。
レラは、そちらを振り向きもせず、足かせが付けられた足を振り上げ、その足かせに付属している鉄球で打ち据えた。続けて、自らの足も振り下ろす。
二段構えの蹴り技だ。
「南方の格闘技。なかなか、恐ろしいわ」
「ちっ、ちちちち」
違うと、そんなわけがないと、モレーノは言いたかったのだろう。
だが、それ以上はなにも言えない。
なぜなら、猫のように首根っこを掴まれ、運ばれてしまったからだ。
体重で言えば倍は違いがある男と美女。
にもかかわらず、その美女は、モレーノを鞄のようにひょいと持ち上げたかと思うと、窓へと近づいていく。
「ここは三階――やめやめやめやめ」
そこから投げ捨てられると思ったのか。
モレーノが身も世もなく騒ぎ立てる。
その反応は、半分だけ正解だった。
窓から外へ出たのは、正解。
しかし、レラが掴んだまま。つまり、レラがモレーノを持って、飛び降りたのだ。
「さて、種苗の在処へ案内してもらいましょうか」
「そんなことでき……これは、なんの音や?」
遠雷のような音が響き、ずしん、ずしんと大地が揺れる。
例えるならば、巨人の足音か。
その“震源”の予想がついたのか、レラが嫣然と微笑んだ。
「奴隷の方々は、事前に自由にしておいたけれど……」
聞き捨てできないことを言われたはず。
しかし、モレーノは忘我の域にあった。
「んふふふふ。派手で、良いですね」
農場の柵をあっさりと壊し、“震源”が姿を現した。
巨大な頭。巨大な瞳。巨大な口。巨大な甲羅。
巨大、巨大、巨大な存在。
それは、海を越え、陸地を歩みやってきた帝亀アーケロンだった。
移動する島。
そう呼ぶにふさわしい帝亀アーケロンが、大きく口を開く。
そこからまろび出たのは、一隻の船。
建物に寄り添うようにして転倒を免れ、大海を越えてきた交易船が地上に屹立する。
その光景を、唖然と見つめる奴隷たち。
手枷と足枷をつけた美女が見張りを打ち倒しただけで許容量を超えかけていたのに、恐る恐る外に出てみれば、この状況。
なにを、どうすれば良いのか分からない。
「みんな。新天地に行きたい奴は、この船に乗りな! 迷ってる暇なんてないよ!」
甲板から聞こえる怒号にも似た声。
あまりの事態に、完全に動きが止まっていた奴隷たちだったが、聞き憶えのある声を聞いて我に返った。
「なにぼさっとしてるんだい! 急ぎな!」
セラのいらだたしげな声。
それは、迅速に動けというのは無茶な状況だろうが、千載一遇の好機なのだ。それをふいにするつもりかと、いらだちが募る。
「ここは、任せてほしい」
「あんた……。分かったよ」
後ろからかけられた声に、戸惑いつつもセラは譲った。
問答している時間はない。
「ありがとう」
透明な笑顔を浮かべ、クレスが甲板の際まで移動する。
暗くてはっきりとは見えないが、騒ぎを聞きつけ外に出てきた奴隷たちがいくつかの集団に分かれて固まっているのが分かった。
「私は、クレスという。ただの冒険者だ」
ここでは、タイドラック王国の名も、エルドリックの威名も通用しない。
巻物から、声を遠くへ届ける理術呪文――《風の声》を使用してもらい、クレスは戸惑う人々に呼びかけた。
緊張に、体が震える。
これから発する言葉に、数百人の運命がかかっているのだ。
大それたことをしている。
失敗したら、どうなる。
それを思うと、声まで震えそうになる。
「あなたたちの境遇を完全に理解しているとは、言えない。その苦労は筆舌に尽くしがたいだろうと、想像しかできない」
怖じ気づきそうになった、その瞬間。
震える手に、もうひとつの手が重ねられた。
誰の手か。確かめるまでもない。
やはり震えている小さな手をぎゅっと握り、クレスは吼えた。
「だが、あえて言わせてもらう。我々は、あなたがたを救いにきたのだ!」
反応はない。戸惑いだけがある。
それでも構わず、クレスは続ける。
「我々が用意できる新天地は、理想郷ではない。相応に苦労し、相応に大変だろう。しかし、今よりはましな生活を送ることができる。これだけは、保証する」
情けないことを言っている。
今は確かめるすべなどないのだ。もっと景気のいい話をすればいい。
そう思いつつも、クレスは嘘を吐けなかった。吐きたくなかった。
「わざわざ、自分たちを助けになんか来るはずがない。そう思っているだろう? 正しい。その疑念は正しいと思う」
ヴァルトルーデ・イスタス。
彼女なら、もっと自信にあふれ、人々を先導したことだろう。
だが、自分は彼女にはなれない。自分は、自分だ。
それを、たくさんの人が、教えてくれた。
だから、自分ができる精一杯をやる。
「だが、損得勘定を超えて動くからこそ、善なのだ。誰かを信じるのではない。私を疑ってもいい。けれど、この世界に善があることを信じてほしい」
沈黙が世界を支配した。
一分が経ち、二分が過ぎる。
クレスには、それよりも長く感じられた。
やがて、ぽつりぽつりと、ざわめきが起こる。しばらくしてそれは、明確な意思を象り始めた。
「お、おお、俺は行くぞ!」
「だけど、そんなことをしたら――」
「もう、俺たちを止める奴はいねえんだ。そうだろ?」
「そうだ」
「そうだ!」
あとは、もう、雪崩を打ってという表現がぴったりな光景が広がった。
全員が乗り込んだことを確認し、アーケロンが再び船を飲み込む。
そして、のっそりと海を、遙か北を目指して進んでいく。
海を越え、新天地を目指した彼らは、“最初の逃亡者”と呼ばれることになる。
おとぎ話のような伝説は、禁止されても密かに広まり、後に、奴隷解放運動を支える一助となった。




