4.空中庭園の盟約(前)
空中庭園リムナス。
古代の大魔術師たちが創造したとも、青き盟約を締結する以前にとある神が座所としていたとも言われる古代の遺跡。
ブルーワーズの至る所で伝承に残っていることから、この世界を周回しているものと推定されている。それは事実であったが、その仕組みまでは解明されていない。
褪せることなき白亜の城と、その前庭で空中庭園は構成されているが、無論、地上に住まう者たちのための施設ではなかった。
そこに降り立つ資格のある者と、天の高みを移動する庭園をさらに上空から俯瞰することのできる存在のためだけに、永久の美しさを誇っている。
麗しのリムナス。
不変の楽園。
天の国への扉。
考えられる限りの美辞麗句で称賛され、吟遊詩人に謳われしリムナス。
スミレ、ツバキ、ダリア、アジサイ、キンモクセイ、コスモス、カトレア、ネリネ。季節に関係なく美しい花が咲き誇り、どこからともなく妙なる調が聞こえてくる。
カラフルな鳥や小妖精たちが楽しげに飛び、歌う。
いかなる仕組みによるものか、庭園には水路が張り巡らされ、常に新鮮な水が循環し、いくつもある噴水が目を楽しませる。
見ることはできる。しかし、決して手の届かない陽炎の楽園。
そこに住まう者は、飢えることも老いることもなく、永遠に生き続けるのだという。
空中庭園へとつながる次元門の探索に一生を捧げた冒険者がいた。
いつしか姿を消したが、野垂れ死んだのか、それとも本当に空中庭園へたどり着いたのかは分からない。
とある雪山の頂で、偶然にも空中庭園との邂逅を果たした岩巨人がいた。
その美しさに心を。否、魂を奪われた男は、再び空中庭園が現れる日を待ち続け、終いには石になってしまった。
リムナスから落ちた天女を助け空中庭園へ招かれた男がいた。
そこで一晩の歓待を受けて意気揚々と帰った男は、数十年が過ぎたことを知って絶望したという。
ユウトたちは、空中庭園リムナスの支配者である赤火竜パーラ・ヴェントの招待を受け、その伝説の地へと足を踏み入れた。
「……なんか、こっちに来てから、こういう正統派ファンタジーみたいな風景って初めてな気がする」
そうつぶやくユウトの声には、実感がこもっていた。
思えば、ファルヴ地下のオベリスクに始まり、黒妖の城郭地下のダンジョンに延々と潜り続けた日々。遭遇するモンスターたちはファンタジックだったが、泥と血と金にまみれた思い出ばかり。
さすがに、オズリック村の素朴な風景やフォリオ=ファリナの街並みといった例外はあるが同時に、それらは生活感が付随したリアルな現実であり、幻想的なファンタジーとは異なる。
天上では、確かに美しい風景を目にしたが、ジャンルとしてはファンタジーではなく冒険もの。秘境探検に近い。
一方、この空中庭園は、どうだ。
様々な都合から夜間の訪問となったが、月光と星明かりに照らされた光景は、神秘的という他ない。美しさに妖艶さが加わり、魅力はいや増すばかりだ。
次があれば、アカネも連れてきたいと素直に思う。
「ここは凄いんだけど……」
「喜んでいるのなら、なぜ肩を落とすのだ?」
「今までの余裕のなさを反省してるんだよ」
冒険、戦闘、仕事、戦闘、仕事。
こちらに来てからは、観光とか娯楽とか趣味とか。そんな潤いに欠けていたのではないかと、思い知らされた気分だ。
実に、今更だが。
それに、ユウトの感動も、この空中庭園の美しさからすると、まだ足りない。
別に、美意識が不足しているわけではなかった。ただ、毎日もっと美しいものを目にしているので、目が肥えているだけ。
ブルーワーズにしかない、世界で最も美しく大切なものは、すぐ側にあったのだ。
「いやー。さすがは、空中庭園。結構、ボロボロにしたのに、綺麗に直ってるね」
「おい。こら、待て」
幸か不幸か、そんな恥ずかしい事実に気づく前に、草原の種族によって現実へ引き戻される。
「あの辺りとか、焼け野原にした記憶がある」
「気に病むことはない。形ある物は壊れるのだからな」
「よりによって、どうしてここで戦うかな……」
パーラ・ヴェントが所持していた秘宝具、那由他の門を便利に使い、熾天騎剣の作製時に協力もさせたのはユウト自身。文句を言う資格がないことは、よく分かっている。
それでも、ヨナとエグザイルから飛んだ追撃を受けて、ユウトは思わずヴァルトルーデとアルシアへ視線を向けてしまった。
それは、ヨナが指し示した「あの辺り」の範囲が、「見渡す限り」だったこととも無縁ではない。
「強敵だったからな。そこまで気を使う余裕がなかったのだ」
「あのとき、私の目は見えませんでしたから」
「アルシア姐さん……」
まさか、ヴァルトルーデよりも酷い言い訳がアルシアから飛び出すとは思わなかった。
もうこうなると、やっちゃったものは仕方がないと開き直りたくなってくる。
「それに、直っているのだから良いではないか」
「加害者の言うことじゃないけどな」
そう言いつつも、ユウトはこれ以上の追及を放棄した。
武闘会への乱入で、お互い様。勝者の論理だが、負けたほうが悪いのだ。
問題を片付けた――目を背けたとも言う――ユウトは、一人の同行者へと目を向ける。
「素晴らしいな……」
紅顔の美少年が、我を忘れて庭園に見入っていた。
真摯な横顔は、心の底から感動をしている証だろう。
「実に、美しい庭園だ。ユーディットのために、花を少し分けてもらえぬか聞いてみるとしよう」
「動じないなぁ……」
いつもと変わらぬマイペースなアルサス。
王としては、実に頼りになる。
しかし、王がこの場にいることは、あえて考えない。
武闘会に優勝したことでアルサスが願ったのは、「冒険に同行させる」こと。それを素直に叶えるのはどうなのかとは思うが、いろいろと世話になったのは確か。
加えて、これくらいの規模の冒険に同行させるだけでも不満の解消が見込めるのではないかという目算もあった。
「ところでさー、ユウト」
「なんだよ」
「パーラ・ヴェントは、なんで、ボクらを呼び出したんだと思う?」
ユウトは、すぐには答えず、花畑に転がって遊ぶアルビノの少女を眺める。リトナと一緒で、とても楽しそうだ。いつもなら眠っている時間だが、今夜のために昼寝をしたので、元気いっぱい。
「まあ、敵対的な話ではないと思う」
「そうなの? いつも通り呪文かけて武装してきてるけど」
「そりゃ、話し合いだからな」
交渉に自らの『武器』を持ち込んではいけないなどと、誰が決めたのか。見せつけるだけで有利に進められるのであれば、むしろ、平和に貢献しているとすら言える。
もっとも、今回は用心の意味合いが大きい。なにしろ、こちらからパーラ・ヴェントへの要求などないのだから。
「そうなのか……」
しかし、アルサス王は心底残念そうにうつむいた。どうやら、武闘会で見たあの赤火竜と戦えるのだと期待していたようだ。
そこまで落胆されると、罪悪感が刺激されてしまうが、こればかりはどうしようもない。まさか、こちらから仕掛けるわけにもいかない。
「いや、そんな残念そうにされても」
「てっきり、私の力が必要だから会談を夜に設定したのかと思ったのだがな」
「ああ……。それは申し訳ないことを」
夜ならば公務も終わり、《瞬間移動》で抜け出すことも容易。つまり、そこまでしても戦力として確保したかった。
アルサスはそう考えたようだが、パーラ・ヴェントとの会談が夜になったのは、個人的な事情に起因する。
即ち、妊娠中の《瞬間移動》や《テレポーテーション》によって、悪影響が出るのではないかという問題だ。
ふとしたことから気づいたのだが、この問題は、地球でもブルーワーズでも検証も研究もされたことがない。神託で一足飛びに答えを得る方法もあったが、念には念を入れ、今回は《瞬間移動》を使わないことにしたのだ。
そう強硬に主張したのはユウトであり、ラーシアをはじめとする仲間たちは――当事者のヴァルトルーデでさえも――形容しがたい微笑みを浮かべて、その意見を受け入れた。
となると、空中庭園への道は空路のみとなる。
あまり距離があってはたどり着くまで時間がかかるため、空中庭園それ自体をハーデントゥルム沖の高空へ移動させてもらい、混乱を避けるため夜間の訪問となったのだ。
現在のハーデントゥルム沖は、空には空中庭園リムナス。海には帝亀アーケロンと、世界の神秘が集まっている希有な土地と化していた。
「話し合いだとしたら……。案外、ユウトに結婚を申し込むためだったりして」
「俺に? なんで?」
ユウトは、真顔になって聞き返していた。
躊躇も、その気も一切ない。完全に脈のない反応だ。
「そりゃもちろん、これだよ、これ」
三下のように下衆な笑顔で、親指と人差し指を輪にしてユウトへ近づいていくラーシア。
妙に堂に入った演技だった。
そう。演技だ。本心ではない。
それもこれも、大切なユウトとヴァルトルーデとアルシアの仲を確かめ、発展させるためのものである。
パーティのバランサーは大変だ。
……と、思ってのこと。少なくとも、ラーシア自身はそう信じている。
「いや、金って」
「だって、ユウトと結婚したら、財産も自分の物になるじゃん」
「ああ……。なるほど」
赤火竜パーラ・ヴェントは、本を正せば竜神バハムートの妻の一人である。
しかし、病的な黄金への欲望に取り憑かれ、天上を出奔。その際、竜神の財産の一部を奪い、この空中庭園リムナスを占拠したのだと言われている。
「でも、魂胆が分かりすぎだろ。そんなん、引っかかるかよ」
「そこは、ほら。こっちにだってメリットがあるじゃん」
「まあ、言われてみれば確かに。どの程度言うことを聞いてもらえるかは分からないけど……」
レイ・クルスに敗れはしたものの、その実力は折り紙付き。
結婚というよりは契約のようだが、割り切った関係なら双方メリットがあるのは確かか。
「それに、ユウト。まさか、愛がないと結婚できないとか、そんな甘ちゃんな――」
「へぇ。ラーシアくんは、愛のない結婚ができるんだ」
ヨナと楽しそうに遊んでいたリトナのつぶやき声。
いつの間にかラーシアの背後に回り、誰にも気づかれずに発した声は、一際鮮明。
ぞくりと、エグザイルを除く男性陣の背筋に悪寒が走る。
それほどまでに、その声は低く、冷たく、歴戦の勇士たちすら恐怖を憶えるものだった。今が夜というのも、大いに関係しているだろう。
「え? やだなー。そんな。まさか」
「本当に?」
「もっちろんさ。愛だよ、愛。愛だけじゃ幸せになれないけど、愛がなくっちゃ本当の幸せとは言えない。うん。重要だよね。世界は愛でできている。むしろ、ボク自身が愛の可能性まである」
「良かった。安心したわ」
先ほどの光景は、夢だったのではないか。
そう思ってしまうほど鮮やかな切り替えを見せるリトナ。声も表情も別人だ。
けれど、もちろん、夢などではない。
「私とユーディットは、元は親が決めた婚姻ではあるが、しっかりと愛し合っているぞ」
「俺だって、打算じゃない。好きだから、一緒になろうって伝えたんだ」
「大丈夫、ユウト。愛されてるのは分かってるから」
「そこで、ヨナが入ってくるのかよ!」
アルビノの少女に先を越されたヴァルトルーデとアルシアの二人は……唐突な愛の告白を受けて照れていた。ある意味で、ラーシアの目論見は成功したと言える。
ところで、エグザイルだけは、一切うろたえていなかった。
結婚観も違うのだろうし、後ろ暗いこともない。
「おっさん、強すぎる……」
ユウトが、思わずエグザイルを尊敬しそうになったその瞬間。
空中庭園の奥。
城の入り口に、三方から光が注がれた。
「招待に応じ、よくぞ参った」
その中心にいるのは、原色をふんだんに用いたクラシカルなドレスを身にまとった、妙齢の美女。
顔の左右を彩る豪奢な巻き髪をスプリングのように揺らし、客人を歓迎する。
「ついて参れ。まずは、馳走してやろう」
赤火竜パーラ・ヴェント。
ブルーワーズで最も格の高いドラゴンが、小さき者を居城へと招き入れる。
人の身となって、人の言葉を用いて、人を歓待する。
前代未聞の事件だ。
だがそれは、後に結ばれる歴史的な契約の序章でしかなかった。




