3.苛烈な第二試合(後)
「勇人ッ」
無意識に立ち上がり、思わず幼なじみの名前を叫ぶ。
その声の大きさにびっくりして、アカネは自分がなにをしたのか自覚した。
王族が集うなか、お世辞にも行儀がいいとは言えない振る舞い。だが、眼下のフィールドでは、最愛の人が一方的に攻め立てられているのだ。
礼儀作法など知ったことではない。
「強いんじゃなかったの」
アカネがユウトの戦いを目の当たりにしたのは、ほんの数回。
そのときは、もっと余裕があって、怖かったけれど安心感があって、なにより格好良かった。
それなのに、今は一方的に追いつめられている。剣で斬られようとしている。死ぬことはないと頭で分かっていても、心は思い通りにならない。
「大丈夫ですわ」
そんなアカネの肩に手を置き、ユーディットは天使のような慈愛に満ちた笑顔を向ける。
心が洗われるような微笑。
無垢な少女そのものの外見でいて、国母と呼ぶにふさわしい魅力。
「あなたが信じずに、誰が信じるというのです」
「誰が……」
誰がという意味であれば、ヴァルトルーデもアルシアもいる。
けれど、だからといって、自分が信じなくて良いわけではない。
「信じてください、あなたの大好きな人を。そして、できればアルサス様も」
「分かったわ。ええ、信じる」
エグザイルが圧勝だっただけに、ユウトも……と無意識に思っていたようだ。それから、エルドリック王のことをよく理解していなかったのも一因だろう。
アカネは、そう自己分析をする。
そうでもしていないと、さっきの恥ずかしい取り乱しように直面しなければならない。
「あの……。名前を叫んで良かったのでしょうか……」
中立だからというよりは単純に乗り遅れたセネカ二世が、もっともな。しかし、空気の読めない指摘をする。
「あ、うっ。まあ、誰も聞いてないでしょ」
「それはそうでしょうけど……。不用心では?」
アカネが、セネカ二世の無垢な指摘に追い込まれていく。
そんな彼女たちへ、ローラ王妃は若さを羨むような眼差しを向ける。
「それはそれとして、エルにはあとでお仕置きが必要よね」
エルドリック王がこの場にいなかったのは、不幸中の幸いだっただろう。
聞けば、身震いが止められなかっただろうから。
「やはり、こうなったか」
闘技場内の歓声がなくとも、誰にも届かないだろう小さなつぶやき。
審判としてフィールドに立つメルエル学長は、エルドリックの攻勢をなんとかしのぐユウトに、むしろ感心していた。
事前に付与した呪文を確認した際に分かっていたことだが、今のユウトは近接戦用の呪文をほとんど使用していない。それでまだ耐えていられるのは大したものだ。
しかし、予想通りと言えばその通りの展開でもあった。
「攻める、攻める、攻める。エルドリック王が追いつめていく。さんざん稼がせてもらった伝説は健在だ!」
エルドリック王の英雄譚は、どこでも受けが良い。
メルラも、旅先の酒場や街の広場で披露しては糊口をしのいだ経験がある。
「謎の魔術師も、結構がんばっていると思うのですが」
「だが、それ以上にエルドリック王が押している!」
それゆえ、エルドリック王に好意的な実況になってしまうのだった。
「一方、仮面の剣士はクレス王子に足止めされて救援に行けない! ピンチだ! 謎の魔術師!!」
エルドリック王の剣技は、その性格とは裏腹に、慎重で堅実。正確で理詰めの剣だ。最終的な勝利のために、一見無駄とも思える攻撃を繰り出し、相手を誘導していく。
長剣と大盾を構えるスタイルはオーソドックスだが、その扱いの器用さは群を抜いている。
優勢だと思いこんでいたのに、いつの間にか負けている。
それが、エルドリック王の剣。
ゆえに、王手まで時間がかかる。
「《大魔術師の盾》!」
「砕け、魔術師殺し!」
とはいえ、その時間が有効活用できるかは別の問題だ。
なんとか時間を捻出してユウトが繰り出した防御壁は、あっさりと切り裂かれてしまった。
それに動揺しつつも、距離を取ることを忘れなかったのは、結婚以来ヴァルトルーデと訓練をするようになったお陰だろう。
「これがエルドリック王の愛刀、魔術師殺しの力だ! あらゆる呪文を無効化するという伝承は真実だった!」
「本当にすべてかはともかく、魔術を封じられては……」
嫌でも耳に入る実況と解説に、ユウトは歯噛みする。
貴重な使用枠から繰り出した呪文が無効化されたのも痛い。だが、最も腹立たしいのは、見通しの甘い自分自身だ。
いつの間に、そこまで追い込まれていたのか。
背中を壁にぶつけ、後がなくなった瞬間。ユウトは、すべてを吹っ切った。
「もうちょっと頑張ってくれねえと、ヴァイと対戦するときの練習にならねえじゃねえか」
「そいつは、まだ気が早いんじゃないかと」
ユウトの目の色が変わっている。
それに気づいたエルドリックは、慎重に距離を取る――ようなことはしなかった。
魔術師、それも大魔術師と呼ばれるような相手に、時間と空間を与えてはならない。
剣術のお手本にしたくなるような、ほれぼれとした踏み込みで、ユウトをさらに追いつめる。
続けて放たれる、鋭い突き。
壁が邪魔になるため斬撃ではなく、頭部を狙った刺突。
「壁際に追い込まれた謎の魔術師が攻撃を受ける。これで、決着かーー!」
それが両者の命運を分けた。
「――やるじゃねえか」
魔術師殺しの一撃は、謎の魔術師の額を割った。
正確には、その仮面を割らせたのだ。
「《時間停止》」
仮面が完全に分かたれ素顔が明らかになる寸前、第九階梯の理術呪文が完成した。
時が止まった灰色の空間で、ユウトは真っ先に仮面を回収し、《物品修理》で修復。それを再び身につけると、自らに|《飛行》《フライト》の呪文を使用し、上空へ離脱。
ここで、やっと一息。
このまま呪文を使用するだけで勝てるとは言わないまでもかなり有利になるが、そんなことをするつもりなかった。
そもそも、審判のメルエル学長が許すはずもない。
では、どうするか。
《差分爆裂》は威力も効果範囲も大きすぎ、《三対精霊槍》は悪の相を持つ対象にしか効果がない。
今まで戦ってきた相手とは勝手が違い、やりにくい。
「おっさん用の切り札、ひとつ切るか」
とはいえ、対抗手段は用意している。
武闘会という限定した戦場で、より役立つ呪文があるのだ。
「《召喚:大精霊》」
完成まで普通の呪文よりも時間がかかるため常用はしていないが、この停止した空間であれば問題はなくなる。
呪文書から9ページ分切り裂き、三枚ずつに分かれてエルドリックを半円形に囲んだ。
10秒ほどして、そのページが解け、絡まり合い、大きく光を放つ。
時を同じくして灰色の世界が解除され、観衆の目に飛び込んできたのは、想像もしない光景だった。
「なんとー。ほんの一瞬、目を離した隙に、謎の魔術師は空を飛び、エルドリック王はモンスターに囲まれているーー」
「大したものですね」
「なぜかアルシーが勝ち誇ってますが、これは確かにすごい!」
メルラや観客たちが驚愕し、アルシアが得意になるのも無理はない。
火と水と土。
源素のエネルギーそのもので構成されたエレメンタル。それも、10メートル近い源素の巨人が三体。エルドリックを取り囲んでいるのだから。
「源素界の住人がエレメンタルです。意志を持ち、独自の価値観を有する彼らですが、時に召喚に応じ助力をしてくれることがあります。呪文で召喚した場合は、本体ではなく仮初めの肉体なのですが――」
ゆえに長い間は留まれないが、実力は変わらない。
そして、エルダーエレメンタルは、エレメンタルのなかでも強力な個体である。
アルシアは、そう力を込めて解説した。
恥ずかしい思いをして、眼帯を外して戦いを目に焼き付けようとした甲斐があるというものだ。ユウトが、こっちをまったく気にしていないのが、多少しゃくではあったが。
「そっちがその気なら、こっちも本気でお相手しましょう」
「やりすぎなんじゃね?」
「そっくりそのままお返しします」
今までの鬱憤を晴らすかのように、ユウトは仮面の内側で笑って言う。
「けど、俺の魔術師殺しなら、こいつら何発か殴れば送還できると思うぜ」
「そのときは、また別の手段をとりますよ」
「そいつは楽しみだ」
ユウトに呼応するかのように、エルドリックも鮫のように笑った。
「どうやら、こちらへ集中できるようだな」
唖然とするクレスの表情。
そして、実況と観衆の反応から、ユウトがエルドリック王を封じ込めたことを知る。
とはいえ、ユウトも、あれだけで勝てるとは思っていまい。
時間稼ぎに過ぎないと分かっている。
では、なぜ時間を稼いだのか。
(他ならぬ、私のための時間だ)
臣下であり戦友でもある彼の期待に応えなくてはなるまい。
仮面の下からクレス王子を真っ直ぐに見据え、トレイターを両手で握り直す。エルドリック王から盾で突き飛ばされたダメージはない。吹き飛ばすことが目的だったので、元々、ダメージを与えるような攻撃でもなかった。
アルサスは、戸惑い、それでも長剣と盾を構えるクレスから目を離さない。
少なくとも、この試合の間は絶対に離さない。
アルサスは静かに心に誓う。
クレスに足止めをされていたわけではなかった。
むしろ、足止めをされていたのはクレスのほうだ。
「さあ。語り合おうか、クレス王子」
「話すことなんざ――」
クレスは、最後まで言い終えることができなかった。
やや腰を沈めた体勢からバネが跳ね上がるようにアルサスの身体が浮き、左手で支えていたトレイターの剣身を一気に振り下ろす。
流れるような美しい一撃に、観客たちが暫時見惚れた。特に、貴賓室で見守る王妃は、両手を胸の前で組み、祈るかのようにして。
だが、次の瞬間。
美しい金属音が鳴り響き、大盾により阻まれたことを知る。
けれど、アルサスにとってはここからが本番だった。むしろ、今ので決着が付くようでは困る。
「追い抜かれたことが、それほどまでに悔しいかね?」
「ああっ?」
「これだと決めて邁進してきた道を、他人がぽんと飛び越えていったのは悔しいかねと聞いている」
クレスの顔が一気に紅潮した。
アルサスが膂力で盾を断ち切ろうとするのを、踏ん張って押し返しているからか。それとも、心の傷をえぐられたからか。
正解は、そのどちらも。だが、より、どちらの比重が高いかと言えば――
「悔しいさ! 決まってるだろうがっ!」
「そうか」
クレスが渾身の力を盾に込め、さすがに不利と見て取ったアルサスが自ら退く。
意外な軽さに踏鞴を踏んだクレスだったが、そうしながら体勢を整え、長剣の一撃を見舞う。
それは仮面の剣士アルサスへは届かなかったものの、この戦いで彼が初めて自発的に行なったアクションだった。
「私にも、その気持ちは分かる」
「何様だよっ!」
いらだち、悔しくて、無茶苦茶に長剣を振るう。
間合いも型もない。だだをこねているのと同じこと。アルサスへ届くはずがない。
しかし、思いだけは伝わっていた。
アルサス王といえば、ヴァイナマリネンらと百層迷宮を踏破したではないか。
王子時代には虚無の帳と果敢に戦い、王となってからもヴェルガ帝国の侵攻をたった一人で撃退したという。
そんな戦場の英雄が、言うに事欠いて落伍者の気持ちが分かるなど。
いったい、どの口が言うのか。
そんな思いをアルサスは、真っ向から受け止めた。
「私は、かつて英雄を目指していた」
その攻撃をいなしながら、アルサスは語る。
己の歴史を。
己の恥を。
「だが、あえなく邪悪なる者共に捕らえられ、本物の英雄に救出されたのだ。二十年も後にね」
その英雄たちは、世界を救った。
「私は、敗北した」
そして、英雄は貴族の列に叙され領地経営を任され――そこでも成功を収めた。
「私は、敗北した」
邪悪なるものへ変貌させられたところを、救われもした。
「だが、敗北がなんだ」
アルサスは宝剣トレイターを無造作に振るい、向かってきた長剣を叩き落とした。
そして、そのまま盾で守られていないがら空きの胴を薙ぎ、肩を腕を足を。致命傷にならぬ部位を無造作に打ち据える。
たまらず、クレスはその場に膝を突いた。
仮面の剣士はそれを見下ろし、激情のまま言葉を紡ぐ。
「その程度で諦められる道なのか。積み重ねた努力を無にしていいのか」
良いはずがないと、アルサスは続ける。
「辛いだろう。苦しいだろう。すべてを投げ出したくなるだろう。しかし、他者など関係あるまい。蹴落とされたわけではないのだ。否定されたように感じるかも知れないが、なにも失くしてなどいないのだ」
アルサスの言葉を。
魂を紡いで語られる言葉を、クレスは呆然と聞いていた。
実況や観衆の声は遠く、意味をなさない。祖父の戦いも意識の外。
アルサス王。クレスから見れば英雄と呼ばれるにふさわしい人物でも、劣等感を抱いている。それは、素直な驚きを与えた。
「訂正しよう。私は、今でも英雄を目指している。玉座が窮屈に思えるときもあるが、王として英雄を目指している。これは、イスタス侯にはできない道だ」
口元に微笑をたたえ、アルサスが宣言する。いっそ誇らしげに。
「クレス王子、君は、どうなんだ?」
「俺は……」
様々な思いが、クレスの胸に去来する。
最初は、ただの憧れだった。いや、今でも、結局はそうか。
祖父のように、英雄王エルドリックになりたかった。
だが、そんなものに意味があるのか。自分よりも優れた人物が、英雄がいるではないか。意味はない。なんの意味もない。
努力も怠らなかった。できる限りのことはした。それでも勝てなかった。
自分は、特別でもなんでもなかったのだ。英雄王の孫は、英雄王ではなかった。
打ちのめされた。
祖父にも、仲間たちにも。誰にも会いたくなかった。
消えてしまいたかった。
けれど――それは、自分一人ではなかった。
自分よりも強いアルサス王が、何度も挫折したと言っている。その口振りからすると、嫉妬もしていたはずだ。
それでも、彼は諦めなかった。乗り越えた。
そんなアルサス王が、自分はどうするのかと言っている。
道を捨てるのか。
それとも、苦難を知りつつ頂を目指すのか。
クレスはよろよろと体を動かし、フィールドに落ちた長剣を拾った。それを支えに死にかけた獣のように立ち上がる。
荒い息を吐き、それでもアルサスを正面からにらみ返し。
そして、吼えるように言った。
「そんなん、分かるかよーー!」
「ならば、自ら答えを掴み取るしかあるまい」
ここで諦めないと言うよりは、よほど見込みがある。
先ほどとは種類の違う微笑が、アルサスの口元に宿った。
しかし、心配事がひとつ。
果たして、まだ余裕はあるのか。
後ろを向くわけにはいかず、アルサスは友と英雄王の戦いに耳をそばだてる。
「そういえば、昔フォリオ=ファリナの世襲議員の娘さんとデートしたことがあるらしいですね」
「……知らんな」
「ローラ王妃は、どう判断されるでしょうか?」
「そっちなんか、嫁が三人もいるくせしやがってからに」
「全員と愛し合ってますから」
「かぁっ。けしからんやつめ!」
……戦いは、精神戦へ移行していたようだ。
呪文を節約するという意味では、頭脳的と言えるだろう。そのはずだ。
「おおっとー!? どういうわけだか、エルドリック王の動きが鈍った。いったい、なにが起こったのでしょうか?」
「なにか話していたようだけど、内容までは分からないわね」
「もしかして、エルドリック王のお身内を誘拐したから、負けろと持ちかけたとか?」
「……普通に重罪よ、それは」
聴覚情報だけの判断だが、もう少し余裕はありそうだ。
心が軽くなる。
何度か深呼吸を繰り返し、肺の空気を新鮮なものに交換してからクレスへとトレイターの切っ先を向ける。
「覚悟を問う。私が認める一撃を放てなければ、きっぱりと剣を捨てることだ」
「そんなことを勝手に……」
「分からないのだろう? 先延ばしにしても仕方がない。なら、この場できっぱり引導を渡すのもひとつの道だ」
「ああ……。そうだ。そりゃそうだ!」
自暴自棄の言葉を吐き捨てるクレス。
しかし、その瞳には生気が宿っていた。
アルサスが満足そうにうなずいたそのとき、観客席から女性の悲鳴のような声が聞こえてきた。
「クレス! 負けないで!」
「サティア? どうして……」
フォリオ=ファリナで別れた、同じ冒険者パーティの女魔術師。いるはずのない彼女の姿を見て、クレスは目を丸くする。
最前列へ駆け下りてきたのだろう。そこにいた観客の男は戸惑いの表情を浮かべ、遅れて衛兵が階段を転がるように下りてくるのが見える。
「どうしてって、好きだからに決まってるでしょうが!」
「好きって、ええ?」
「突然恋人! 劣勢だったクレス王子に、まさかの後押しだっ」
実況に会場がどよめく。
「さあ、どうするね」
「知るか。だが、やるさ」
クレスはまぶたを閉じ、息を整える。
盾は捨てない。両手で振るったほうが威力は高くなる。それは道理だが、染み着いたスタイルは捨てられない。
それに、付け焼き刃では、絶対に後悔する。
クレスは、目を開いた。
仮面の剣士しか見えない。
「ああああっっっ!」
征くぞ。
そう心に決めた瞬間、自然と足が出ていた。
何万回と繰り返した動きは体に染み着き、意識せず長剣が最適で最高の軌道を取る。
その瞬間分かった。きっと、これは生涯最高の一撃だと。
「見事な一撃だ。その覚悟、確かに受け取った」
アルサス王も、認めてくれた。
けれど、それでも刃は届かない。
甲高い金属音が会場に響きわたり、一瞬の沈黙を作り出す。
不可避の一撃に見えたクレスの攻撃は、しかし、まるでそこに来るのが分かっていたかのように滑り込んできたトレイターによりはじき返された。
「誇っていい。最高の返し技は、最高の一撃でしか生まれないのだから」
そのまま、激流のごとく襲い来るトレイターの返し刃に抗する術はなかった。
腰の辺りに痛撃を受けたクレスは、そのまま意識を失う。
「それに、勝利の女神なら私にもいる。とびっきりの女神がね」
こうして英雄を目指した王と王子の一戦は決着し、それを見届けたもう一人の王は――不承不承――棄権を宣言した。




