1.天上の境界
神々が住まう天上世界。
その領域は広大で、恐らく神々自身も完全には把握していないに違いない。
天上世界の中央を横断するパリストア河には数多の支流があり、大きく世界中へ広がっている。そのか細いひとつですら、地上の大河と互する莫大な水量を誇っていた。
河にもかかわらず、この河にはありとあらゆる水界の生物が住まい、水域の覇者リヴァイアサンが守護している。
また、天上世界の各地には、数多の霊峰も存在している。その頂は雲の向こうに隠され、杳として知れない。そんな高山がいくつもあった。
ドワーフの守護神ドゥコマースが住まうダヴィド山など、山頂が空の先にあるという。
空には、巨鳥ルフや多様なドラゴンが飛び交い、一定の航路で天上を巡る浮遊島も存在していた。そのいくつかには、神々が宮殿を構えている。
植生も、地上――ブルーワーズ――とは似て非なるものだ。
木々は旺盛に生い茂り、しかし、葉が黄金そのものである樹木があれば、幹が常に黒い炎に包まれている大木もある。そのなかで最も巨大で尊いのは天空樹と呼ばれる山々よりも巨大な霊木。
深い叡智と思慮深き魂を持つ天空樹は、もはや神と呼んで差し支えない。
その根本には、かつて大賢者ヴァイナマリネンが訪れた知識の泉があり、その向こうには国がひとつふたつすっぽり収まるほど広大な聖獣の野と魔獣の荒野が続いている。
雄大な自然と、想像を絶する秘境。
善あるいは悪の祝福を受けたモンスターたち。
源素の力に溢れ、神々が君臨する地。
地上の常識が通じぬ天上世界だが、大まかに善と悪。そして、中庸の神が支配する三つに領域が分かれている。
ユウトたちが現れたのは、そのちょうど中間に当たる土地だった。
持続時間の残っていた《飛行》の呪文などで空を飛ぶ彼らの眼下に、漆黒の闇を具現化したような次元の穴がある。
地面は岩場になっているようで、ムルグーシュ聖堂があった台地を思い起こさせた。
「おー。聞いてた通り、なんか世界が斜めってる!?」
「大丈夫だ。俺たちに影響はない」
次元の穴から飛び出した直後、大声で驚きを露わにする草原の種族へ大魔術師が冷静に返す。
けれど、今の場合、正常と言えるのはラーシアのほうだった。
光そのものが屈折でもしているのか。陽光――天上でも太陽は輝いている――は、地面へ平行ではなく垂直に降り注ぎ、風が吹く向きもおかしい。
そういった違和感を憶えるのもそうだが、なにより、ともに天上へとやってきたベヒモスがおかしい。
眼下の地面ではなく、まるでそこに透明のバンクでもあるかのように、斜め向きに疾走している。攻撃されたことなど気にしていないのか、その巨体に見合わぬスピードで急速に遠ざかっていった。
本当に、偶然迷い込んだだけなのか。それとも、いずれかの悪の神から放たれたが、ヴァルトルーデたちから攻撃を受けて理性を取り戻したのか。
どちらにしろ、これ以上、戦闘を続けずに済んだのは幸運だった。負けるとは思わないし、実際、勝てただろうが、可能なら力は温存しておきたい。
エグザイルは、とても残念そうにしていたが。
「きゃあっ」
唐突に、可愛らしい悲鳴が響いた。
ベヒモスに気を取られ気づかなかったが、《飛行》で空中にいるはずのセネカ二世が斜めに落下している。
そういう遊びだと思ったのか、その横を同じように――いつもの無表情で――落下するヨナ。端から見れば、微笑ましい光景に見えなくもない。けれど、神王に余裕はなく、真剣というよりはせっぱ詰まっていた。
「おっかしいな」
近くにいたアルシアが神王を抱き留めるのを横目に見つつ、ラーシアが咎めるように言う。
「影響はないんじゃなかったの?」
「……信じるものは救われる」
「便利な言葉だね!」
その指摘は完全に聞き流していたが、適当に言い訳をしているわけでもない。
次元の穴へ飛び込む前に巻物から使用したのは、《法則保全》の呪文。この第七階梯の理術呪文は、別の世界でも自らの出身世界の法則を保つことができる。
魔力を見られる者がいたならば、彼らの周囲が虹色の泡で覆われていることに気づくだろう。
ただしそれも、『常識』を意識していなければならない。そうでなければ、今のセネカ二世のように現地の法則に引っ張られてしまう。神に仕えるもの特有の感受性の強さが、災いしたのかも知れない。
「天上だと、場所によっては重力の向きが変動したり、その辺から炎の柱が噴出したり、雷の雨が降ったりということが起こるって言ったろ」
事前に注意はしたが、聞くと見るとでは大違いなのだろう。ユウトにしても知識はあるというだけなので、ある意味仕方がない。
ただ、その知識の範囲内では、ここまで酷い非常識は滅多にないはずだったが……。
「ユウト、あれを見ろ」
いち早く順応したヴァルトルーデが、地上の次元の穴。正確には、その周囲を指さす。
まるで最初からその一部だったかのようで気がつかなかったが、閉じられた瞳の聖印が刻まれた巨岩が並べられ、次元の穴へと光が注がれていた。
「ムルグーシュ神か……」
断定はできないが、そう思って間違いないだろう。まさか、無関係の誰かが、“空絶”を冤罪に陥れるため聖印を使ったというわけでもあるまい。
ムルグーシュ神がそれを意図していたのかは分からないが、この地の重力の乱れや、ベヒモスが現れたのも、巨岩から放たれる濃厚な神気により世界法則が不安定になっているのが原因かも知れなかった。
「ユウト、やっていい?」
神王の下から移動してきたアルビノの少女が許可を求める。普通に考えれば言葉足らずだが、それを発したのが彼女である以上、答は簡単。
眼下の巨岩を破壊してもいいか。
そう、聞いているのだ。
「ヨナがぶっ放す前に、確認するようになるなんて……。成長したな……」
「感動の沸点が低い!」
「説教した甲斐があったというものだな」
「なにこの夫婦、似たもの夫婦か!」
感慨に耽るユウトに、満足そうにうなずくヴァルトルーデ。そして、「そういうのは、二人のときにやってよっ」と吐き捨てるラーシア。
神々が住まう天上だろうとどこだろうと、彼らは変わらない。
「とりあえず、全力でやっていいぞ」
「動く前に確認できたからご褒美に……というわけでは、ないですよね?」
あっさりと許可を出したユウトに、セネカ二世の手を引いたアルシアが問う。
「それはもちろん。理由はいくつかあるけど――」
「《サイクロニック・ブラスト》――エンハンサー!」
だが、大魔術師が意図を語る前に、超能力が解き放たれた。かつて全知竜の精神世界で自らの“姉妹”や“生みの親”を一蹴した超能力の大渦が、そのときと同じように遠慮呵責なく巨岩を襲う。
その力の奔流は重力の歪みにより傾いてはいたが、巨岩ひとつを丸々効果範囲に収めてしまえば関係ない。
風が逆巻き、轟音が遠く離れた空中にまで響きわたる。
しかし――
「ぐっぬぬぬぬ……。無傷……」
巨岩は微動だにせず、刻まれた聖印にも傷ひとつ付いてはいなかった。
「《法則保全》なんかの呪文はこうして効果を発してるけど、超能力はどうなのか確認したかった。あと、あのストーンサークルは壊せるのか。壊したら、あるいは攻撃したらなにか起こるのか見たかったってところかな」
「そうなると、少なくとも半分は成功したわけね」
超能力はきちんと発動した。世界法則が異なる部分があるとはいえ、そう極端に違うというわけでもないようだ。
そして、次元の穴を開いているように見える巨石群は微動だにしない。
「でも、ここまでとは思わなかったですけどね」
アルシアがユウトに問う形で皆に意図を聞かせている間、ヴァルトルーデとラーシアは周囲を警戒し、エグザイルは今にも二発目を放ちそうなヨナをなだめていた。
神王は……既に色々とあきらめの境地に達している。
「もうひとつは――」
ユウトが隠れた目的を語ろうとしたそのとき、唐突に馬のいななきが鳴り響いた。
岩巨人がスパイク・フレイルを構えて警戒するなか、その前を素通りして、木造の屋敷のような馬車を引く黒白一対の天馬が滑り込んでくる。
その側面には、菊の花にも似た太陽を意匠化したフェルミナ神の聖印が描かれていた。
二頭の天馬は神王セネカ二世の前で、まるでかしづくようにその場に停止する。
「もしや……」
従順な天馬の額に手を差しだし、まるで会話をしているかのように幾度かうなずく。
「皆様、フェルミナ神からの迎えのようです」
その言葉に、ラーシアでさえも口笛を吹いて驚いてみせる。
だが、一人だけ例外がいた。
「もうひとつ、派手に動いたら呼び鈴代わりになるかなって」
「ユウトじゃなかったら怒ってる」
天上へやってきたと知らせるためだったと聞かされたアルビノの少女が、無表情だが頬を膨らますという難易度の高い行為で不満を表明する。
そんなヨナの頭を撫でて許しを乞いながら、馬車に乗るため一緒に移動した。なかなか機嫌が直りそうになく、後ろめたさもあるのか、ユウトは苦笑しつつアルビノの少女を抱き上げる。
「どこにいても、相変わらずね」
実のところ――そう言っているように――最初からヨナは怒ってなどいない。そのことをアルシアだけは知っていた。
けれど、わざわざ指摘するようなことはしない。
全員が馬車へと乗り込むと、黒白一対の天馬はいななきをあげて太陽神の下へと翔け出した。




