4.商談(前)
体調不良(急性腸炎)の影響と書籍化作業で、またも短めとなり申し訳ありません。
「ふう……。そろそろですか」
クロニカ神王国とロートシルト王国の国境沿いにある、まだ名もなき街。
そこに最近建てられた商館の一室で、月の女神ネルラに仕える司教ギルロントは、胸元の聖印をまさぐりながら交渉相手の到着を待っていた。
そうしているだけだが、エルフ特有の端整な美貌には緊張が浮かんでいる。前回の交渉時は、神王セネカ二世が現れるというアクシデントもあった。さらにその前は、ファルヴがクロニカ神王国に参加して国を乗っ取るというブラフまで吹っ掛けられた。
今回はそんなことはないはずだが、警戒しないほうがおかしい。
「どうして、こうなったものか……」
ギルロント司教の口から、思わず愚痴に近いつぶやきが漏れる。
それを説明するには、彼が所属するクロニカ神王国の政治形態から説明する必要があった。
クロニカ神王国の政治形態は、一種の連邦制に近い。
国内は五つの行政区に分割されており、それぞれを神都と呼ばれる五つの都市が中核となって支配している。
レグラ神がエグザイルを誘った大競技大会が開かれるレグラクス。
太陽神フェルミナが降り立ったとの伝説を持つルテティア。
大瀑布ルーンの滝壺に浮かぶ、水の源素の加護を得た船上都市ミルラノン。
ドワーフの守護神ドゥコマースとその従属神の彫像が山肌に掘り抜かれた、山岳都市アーチワーグ。
悪魔の大軍勢が押し寄せた際、月の女神ネルラの奇跡により奇禍を逃れたという安息の都ネルクート
これらの神都は、そう呼ばれるきっかけとなった奇跡を起こした神と縁の深い神殿が治めており、その下に数十の貴族が実際の統治を行なっていた。
クロニカ神王国の軍事と外交の全権は、五つの神都の代表者――つまり、各神殿の長である総大司教――から互選された神王が握っている。
その分というわけではないが、各行政区は高度な自治権を保有しており、神王さえも易々と介入できない。
それでいて、行政区内で神都の権力が圧倒的かといえば、そうも言えなかった。
俗事に関わらないというわけではもちろんないが、徴税や治水など、いわゆる内政に関しては領主に任せたほうが効率がいい。
領主を罷免する権限は有しているが、それを乱発しては他の貴族からの不審を買いかねないため、領主の力関係は、神殿優位でやや拮抗していた。
ゆえに、ネルクートのネルラ神殿で渉外を担当するギルロンド司教が全権代理としてイスタス侯爵と交渉を行なったのは、珍しい事態だったと言える。
端的に言えば、貧乏くじを引いた結果だ。押しつけられたと言っても良い。
すべての始まりは、隣国ロートシルト王国と国境を接する一帯を領地とするプレイメア子爵が、当時のイスタス伯爵家に詐欺を働いたこと。
善と法を奉じるクロニカ神王国としてはそれだけで許し難い。賠償金を支払うことになったが、当然だ。
しかし、その額が問題だった。
プレイメア子爵家の身代が傾く――程度であれば許容範囲だが、それを大きく超え領民の生活にも悪影響が出るほどとあっては、見過ごすこともできない。
最初に交渉をまとめたアルシアもそれは本意ではなかった。そのため、軽く見られない程度のそこそこの金額を提示したのだ。
つまるところ、「そこそこ」の金額すら払えないプレイメア子爵家の放漫な財政状況が悪い。そのため詐欺を仕掛けようとしたのだから、もう、どうしようもない。
そのどうしようもない状況を打破するため、ギルロンド司教は交渉に臨んだ。
結果として賠償金の請求は放棄してもらい、その代わり、国境近くの一帯を租借地として差し出すことになった。
領土の一部で主権を失う結果となったが、交易のための街となるだけで、屈したわけではない。
結果としては上々だが、問題がひとつあった。
租借地での交易における、関税の自由化。
当たり前のことのように家宰ユウト・アマクサから提案されたそれは、確かに利益が見込める政策だった。
確かに税収は落ち込むだろうが、自由な取引は商人の往来を増やし、経済活動を活発にする効果がある。となれば、関税とは別の方面で税収の増加が見込める。
しかし、ギルロント司教は落とし穴に気づいた。
こちらから輸出できる産品が、農作物とワイン程度しかないのだ。
馬車鉄道を用いることで生鮮野菜の出荷も見込めるが、大した額にはならないだろう。となれば取引の主流は小麦などの穀物となる。
近年、やや生産量が落ちているとはいえ、クロニカ神王国は農業大国。輸出に回す分はいくらでもあるが、ヴェルガ帝国が崩壊した今、穀物価格は下落傾向にある。
逆に、輸入品は多い。
ハーデントゥルムで精製された塩はすでに少量入っているが、旧バルドゥル辺境伯領から輸入する岩塩よりも味がいいと評判だ。
また、フォリオ=ファリナでも流行を見せつつあるというヴェルミリオの服飾品に、玻璃鉄の産品も潜在的な需要がある。
最初のうちは、ある程度均衡するかも知れない。
しかし、イスタス侯爵領でも開発が進んでいるという兆候は掴んでいる。将来的に農産物を完全に賄えるようになったら、この交易はどうなるか。いや、逆に、食料品を輸入することになる可能性も考えられなくはない。
そして、関税でコントロールしようにも、それができないではないか。
ギルロントはエルフだ。
人間社会に身を長く置いているとはいえ、どうしても長いスパンで物事を考えてしまう。そのため、周囲の人間とかみ合わないことも多々あった。
今回の危機感も、まだ始まってもいないことだと共有されなかったが、そこを強引に押し進め、交易品になりそうな物を探し、ある液体を運び込んだ。
ギルロント司教は、胸元の聖印をまさぐりながらそれが詰まった樽へと視線を注ぐ。
希少であることは間違いないが、正直、価値があるかどうかは分からない。
だが、相手はあの大魔術師だ。こちらの想像など軽く飛び越えていく。今回は、その可能性に賭けた。
「お久しぶりです、ギルロント司教」
「私は、初めてだな。ヴァルトルーデ・イスタスだ。よろしく頼む」
「お待ちいたしておりました」
まだ名もない街で交渉相手を出迎えた月の神の司教は、ある意味悲壮な覚悟で交渉に臨むこととなった。




