2.予兆
死と魔術の女神トラス=シンクに仕える大司教アルシア。
彼女の一日は、祈りから始まる。
祈りを捧げるのは、神殿ではなく、ほとんど物のない自室。オズリック村から旅立ち冒険者となった彼女は、逆に神殿での修行にほとんど縁がない。
アルシアが神殿の上位者と今一つ折り合いが悪いのは、もしかするとこの辺りに起因しているのかも知れない。
(麗しき神秘の女王、知識神の愛妻、死後の安寧の守護者よ)
心中で、トラス=シンク神へ呼びかけた。
その分神体に出会って以来、神との距離を身近に感じる。それが良いことなのかどうかは分からないが、精神の合一が容易くなったのは確か。
だが、それゆえにか、彼女の心に余裕が生まれる。
ここは、神殿ではなく、ファルヴの城塞にある自室だ。祈りに適した場所だからではなく、単に起居する場所だからに過ぎない。
最近、親友のヴァルトルーデとアルシアの婚約者であるユウトは同じ部屋で寝起きするようになった。
それはつまり、いずれ自分もそうなるということ。
そう。
ユウトが起きる前に目覚め、彼の寝顔を見てから、死と魔術の女神へ祈りを捧げるようになるのだ。
(うっ)
その想像――あるいは未来予想図――に集中が乱れる。
それどころか、雑念そのものの思考に、神との合一が途切れてもおかしくない。
しかし、そうはならなかった。
分神体との交流。
それにより、彼女は知った。
神々は、真に敬うべき偉大なるものである。同時に、ただ峻厳なだけでもない。機知に富み、稚気にも富む。
つまり、この程度で神は怒りなどしない。むしろ、微笑ましいと受け入れてくれるだろう。
それでいてなお、神に甘えることなく、アルシアは真摯な祈りを捧げる。
やがて邪念は消え、再び大いなるものの一部となったかのような感覚に没入した。それはまさしく、神との合一であった。
(……東?)
そのとき、アルシアの魂にある予感が生まれた。
それは、凶兆。
東の地に災いが起こるとの神託だ。
「ケラの森、ハーデントゥルム、アーケロン……。なにを指しているのかしら」
瞑想から醒めたアルシアが、イスタス侯爵領でファルヴの東に存在するものを列挙していく。まさか、東とはいえ遙か遠いリ・クトゥアになにかということはないだろう。
このように、予兆というのは曖昧だ。
けれど、決して意味が伝わらぬものでもない。
アルシアの下に、ハーデントゥルムから様子のおかしい複数の病人が現れたとの連絡がもたらされたのは、それから数時間後のことになる。
「ご足労いただいてしまい、申し訳ありません」
「いえ。こちらも渡りに船でした」
恐縮しきりのレジーナが、アルシアからの返答を聞いて頭上に疑問符を浮かべる。
連絡役としての正式な就任はまだだが、押し掛け女房のような勢いでファルヴへ向かおうとしていたニエベス商会の若き会頭。
まだ赴任することは叶わず、彼女の初仕事は旅と交易の守護神であるパリスの神殿が匙を投げた病人の存在を領主へと報告することになってしまった。
もちろん、なにかの前兆ということも考えられるし、ユウトからは些細なことでも教えてほしいと言われている。だから家宰の仕事が減らないのだが、問題を見過ごすよりはよほど良い。
レジーナは今、神殿関係者とともに、アルシアたちを病室へと案内をしているところだ。
「その患者たちは、きちんと隔離できているのね?」
「はい。興奮状態は続いているそうですが、なんとか」
ブルーワーズの医療水準は、お世辞にも高いとはいえない。アカネの母は女医だが、彼女が見たら難しい顔で首を振ることだろう。
地球から見れば民間療法紛いの治療がまかり通り、衛生観念も低い。
だが、神術呪文を考慮に入れると、途端に立場は逆転する。
神の奇跡を地上に顕現せしめる神術呪文は瞬く間に傷を癒し、重篤な病をも駆逐する。それは、地球の医療技術でもあり得ない所行だ。
それゆえにと言うべきか、その恩恵にあずかれる者は少ない。そもそも、すべての神官が神術呪文を使用できるわけではなく、その使用回数も限られている。
そのため、魔法薬同様高額に設定しなければならず、王侯貴族に独占されているわけではないが、庶民には縁遠いものでもあった。
このイスタス侯爵領を除けば。
「アルシア、さっさと治してご飯食べる」
「まだ、詳しい症状も確認していないでしょう」
まさかの時の“足”として同行するヨナは、自分には関係ないと最後尾に陣取っている。やる気のなさに一言言うべきかと思ったアルシアだが、すぐに考えを改めた。
(あの娘がやる気を出すような事態ではないということよね)
それはつまり、戦闘とか破壊とかそういった類の事態なので、この場合、だらけてくれていたほうが良いということになる。
「病気の話なら、さっき聞いた」
ヨナが言うとおり、レジーナの最初の報告にも、パリス神殿に到着した直後にも聞いている。
当初は、ただの怪我人だと思われていた。
昨日の早朝、港湾地区で胸に切り傷を負った男が倒れているのが見つかり、最寄りの診療所から神殿へと移送される。
呪文による処置を施され――緊急の医療行為に関しては、領主が負担することになっている――一命は取り留めた。
そこまでは良かったが、問題はその後。
夕方過ぎまで昏々と眠り続けた男は、夜になって突然暴れ始める。
衛兵まで呼びなんとか押さえつけ、今はベッドに縛り付けるような軟禁状態。そこから半日が経過してもなお、興奮状態は続いていた。
普通ならば、気が狂れていると判断して終わりだっただろう。しかし、そんなケースが立て続けに発生すれば、誰しも不審に思うだろう。
日頃から、異常があれば些細なことでも報告するようユウトが念押ししていたこともあり、まずはアルシアが状況を確認するために訪れたのだ。
「こちらです」
そこは、交易を司るパリス神殿に併設された治療所……ではなかった。敷地内の倉庫へ、ベッドごと患者を運び込み、隔離をしていたのだ。
建物自体はしっかりした作りだったが、くぐもった音が漏れ聞こえてくる。今が夜なら、都市伝説でも産まれそうだ。
「なかには、私たちだけで」
アルビノの少女と一緒に、緊張した様子もなくトラス=シンク神の大司教が倉庫――病室へと足を踏み入れる。
扉を開けて入ったそこは、急いでスペースを作ったのだろう、雑然として薄暗い。患者同士の接触を嫌ったためか、ベッドもそれぞれ離れている。
患者は全部で四人。
年齢や性別に共通点は見受けられない。怪我をした場所もばらばら。
ただ、全員が、言葉にならない声を上げ続けている。喉はすり切れ、辺りには唾液ともつかぬ体液が飛び散っていた。
身じろぎどころではない。全身を激しく動かして拘束から逃れようとするため、ベッドが軋み、騒霊のような家鳴りがする。
数多のモンスターと戦い続けた彼女たちですら、眉をひそめる惨状。
ヨナが扉を閉め、アルシアが手近な一人へと移動する。
(人を狂気に陥らせる呪文なら、いくつかありますが……)
それはすべて、悪の神に仕える司祭、司教らが使用するようなもの。この状況にそぐわないし、殺害ではなく狂気に陥らせた動機が分からない。
(そうなると、悪魔が?)
確かに奈落の住人であれば、その不整合は悪魔だからという一言で許容される。
直接的にどの悪魔とは思いつかないが、奈落の住人は今この瞬間にも新種が産まれ、作り出されていることだろうから、それもある意味で仕方がない。
けれど、その予想は外れる。
まるでアルシアを待ち構えていたかのように、患者を拘束していた布帯が弾け飛んだ。
その程度であれば、ヨナも特に驚きはしなかっただろう。
だが、ベッドを半壊させる勢いで飛び上がりトラス=シンクの愛娘へと襲いかかろうとする患者たちは皆、異形。
肉食獣の頭部に、鋭い爪牙、分厚い毛皮に包まれた――半獣半人。獣憑きと呼ばれる、亜人種族と化していた。
「アルシア!」
「分かっています」
真紅の眼帯で視力を補助している彼女も、異変は感知している。人ならざる者からの攻撃にも、あわてることなく防御の姿勢を取った。
習慣として《魔装衣》をかけた法服は、鉄の鎧にも匹敵する防御性能を誇る。こうなることを予想していたわけではないが、神託の下りた後なのだ。他にも、自衛のための呪文は事前にかけてあった。
「さあ、こっちですよ」
あえて獣憑きたちを呼び集めるように声を上げた。無論、アルビノの少女をかばうためだが、実のところ、その必要もなかった。
獣憑きたちはヨナに目もくれず、アルシアへと殺到する。
だが、その選択は最も危険な少女に時間を与えただけだった。
「《エレメンタル・ミサイル》」
八本の氷の矢。
それが二本ずつ、獣憑きへと突き刺さった。
その鋭い牙や爪がアルシアの身へと届く寸前、宙を踊っていた獣憑きたちはビー玉のように弾かれて倉庫の壁へ激突した。
銀の武器でしか傷つけられないというのは誤りで、それ以外の攻撃には耐性を持つというだけなのだが、そんなものはなんの意味もなさない攻撃。
「いいと言うまで入ってこないでください!」
外で待機するレジーナたちへ警告を発するが、彼女の意識は獣憑きたち――ではなく、ヨナへと向かっていた。
「殺してはいけませんよ」
「アルシアを傷つけようとした、殺す」
獣憑きには二種類ある。
産まれながらの獣憑き――獣人と自らを称する亜人種族。人狼、虎人、熊人といった、山林で原始的な生活をする者たち。
一口に悪とは言えないが、その倫理観は人間とは大きく異なる。
もうひとつは、彼らに傷つけられ獣化病に感染した人間。
獣人と違い、変身や理性を制御できない。ブルーワーズにおける獣憑きの伝承は、ほとんどが彼らだ。
そして、加害者であると同時に哀れな被害者でもある。
「元々、罪のない人たちなのですから」
「……分かった」
不承不承――というよりは、アルシアには逆らえないとアルビノの少女は殺意を霧散させた。代わりに、背中から数本の鞭を生やしてそれで獣憑きたちを打ち据える。
「これで、許す」
「ぐ、ぐグぐ、ガァッ」
断末魔の声を上げ、獣憑きたちが意識を失っていく。
アルシアの言いつけ通り、殺したわけではない。超能力のひとつ、《ソウル・ウィップ》で気絶させるに止めたのだ。
獣化病は一種の呪いのようなものだが、決して不治の病ではない。特に、神術呪文を極めた彼女にとっては。
「ですが……」
だから、真紅の眼帯で顔が半分隠れていても分かるほど表情を曇らせているのは別のことに対して。
感染源となる獣人がどこからか侵入し、獣憑きの犠牲者を作り出した。
そこまでは理解できるが、やはり、動機が分からない。
単に、混乱を招きたかっただけなのか。
それとも……。
神に祈りを捧げ獣化の呪いを順番に解除しながら、アルシアは一人静かに考えを巡らせていた。




