7.女帝との再会
「待っておったぞ、この瞬間をの」
「止まれ」
感動を言の葉に乗せ、しみじみと語るヴェルガ。彼女が闇の中から姿を現そうとしたその瞬間、ヴァルトルーデが制止する。
それは、敵兵を阻む近衛兵のようであり、我が子を危険から遠ざけようとする母親のようでもあった。
だが、悪の半神は、聖堂騎士の感情など斟酌しない。警告を無視して、闇のなかから足音もなく進み出る。
「妾のこの態を見ても、まだ近づくなと言うのかえ? それは、慎重ではなく臆病というものぞ」
「これは……。随分と可愛くなったもんだな」
姿を露わにしたヴェルガを見て、ユウトは無意識にそんな感想を漏らす。
声も雰囲気も、ユウトがよく知る赤毛の女帝そのもの。
しかし、外見だけが違った。
といっても、禍々しく変化しているわけではない。
「婿殿からほめられるとはの。長生きはするものよの」
妖艶に微笑むヴェルガの姿は、その表情から受ける印象からかけ離れたものだった。
夜を染料にしたような漆黒のドレスも、燃えるような赤毛も、そのまま。けれど、妖精のように、小さく宙に浮いていた。この状態では、足音がないのも当然だろう。
無貌太母コーエリレナトを地球から百層迷宮へ送り返した際、力の使いすぎて彼女が幼い姿を取ったこともあったが、それとも違う。ツバサ号の運用を一手に引き受ける、ドラヴァエルのミニゴーレムに近かった。
「そう警戒するでないわ。今の妾など、まさに赤子の手をひねるようなものぞ」
「赤子が、そんな表情をするものか」
可憐とさえ言える今のヴェルガを目の当たりにしても、ヴァルトルーデは警戒を解かない。だが、討魔神剣を抜き放ってはいなかった。
目の前の妖精が、悪の半神と同一の存在であることは、間違いない。彼女の直感がそう告げている。
同時に、相対した当時のヴェルガとの差異を感じる。
もちろん、容姿の違いを言っているわけではない。もっと本質的な部分が異なっているのだと、他ならぬヴァルトルーデの直感が告げていた。
「気にくわないのは同じだが、今までのヴェルガとは違うようだ。認めたくはないが――良い意味でな」
「ヴァルがそう言うってことは、ダクストゥム神のように俺たちの邪魔をしに来たわけじゃないのか」
艶めかしいが愛らしい。
そんな矛盾を内包する――否、だからこそ魅力的な妖精ヴェルガを眺めやりながら、ユウトは、どう事態を収拾すべきか考える。
「おや、もうほめる時間は終わりかえ? まったく、意地の悪いことよ」
愛らしいマスコットのように周囲を飛び回る小さなヴェルガを横目で見つつ、ユウトはそっと息を吐いた。
そして、無言で歩き出す。
「ユウト、どこへ行くのだ」
「目的地は、決まってただろ。話なら、歩きながらできる」
ヴァルトルーデの言葉に素っ気なく答えて、玉座の間へと歩き始める。首を傾げながらも、そんなユウトを彼女も追った。
「珍しく強引だな」
「これも、妾の教育の成果であろ」
有無を言わせぬ彼の態度に、不満ではなく疑問を抱く聖堂騎士と、功を誇るように胸を張る赤毛の女帝。
「無理やりに拐かしておいてなにを言うか。盗みに入られたために守りを堅くした家に対し、盗賊自身が『もう盗みに入られることはないですね』と言うようなものだぞ」
「婿殿の故郷では、『盗人にも三分の理』とも言うそうだがの」
「そんな知識を、どこで仕入れるのだ」
どこでと言ったら、地球へ行ったときにでも耳にしたのだろう。ヴェルガとはほぼ別行動だったので、地球での彼女には謎が多い。
「……しかし、こんなユウトも悪くないな」
「うむうむ。そうであろう、そうであろう」
「今のは独り言だ。反応するな。そもそも、そんな姿だからといっても、私たちは敵同士だぞ。それを忘れるな」
「あな、恐ろしや」
口を挟まず――挟めず――黙って聞いていたユウトが、唐突に立ち止まった。これ以上は、精神衛生上よろしくない。
ヴァルトルーデには好評なようだが、アカネに聞かれたらなんと言われるか分からないと反省しつつ、視線を小さな悪の半神へと向ける。
「ヴェルガも絶望の螺旋を排除したがっている。この俺の推測に間違いはないんだな?」
「いかにも。我が父と叔母が協力して封じるような相手ぞ。なにより、世界の征服は望んでも消滅など一考にも値せぬわ」
絶望の螺旋との闘争には、善悪を問わずすべての神が協力して事に当たった。それは間違いないが、ヘレノニア神を『叔母』などと呼ばれ、ヘレノニアの聖女は顔をしかめる。
それすらも彼女の美しさを損ねることはなかったが、皮肉の一つも言いたくなってしまう。
「その割には、しっかり取り込まれているように思えるが」
小さなヴェルガの言葉に嘘は感じられない。だが、この城の構造や見せつけられたユウトとの映像など、ヴェルガ本人でなければ知り得ない情報も含まれている。
ヴァルトルーデがその点を指摘すると、淫靡だがシニカルな笑顔を浮かべた。
「それはもちろん、婿殿に袖にされて絶望したからよ」
「もちろんと言われると困るんだけどな……」
「では、今の貴様は、なんなのだ」
「切り離した“良心”と言ったところかの」
「“良心”?」
ユウトは、そんな思いがけないことを言う赤毛の女帝を、うさんくさそうに見つめる。その視線を受けて淫蕩に身をよじるヴェルガだったが、今の姿ではかわいらしさが先立つ。
「なるほど。“良心”か」
一方、善を強く奉じる聖堂騎士は、ヴェルガの説明をあっさりと受け入れた。善を標榜する者であっても、完全に悪徳とは無縁ではない。
ならば、悪の半神に善心があったとしても不思議ではない。むしろ、当然とさえ言える。
「まあ、ヴァルみたいに信じてるわけじゃないが……。このエボニィサークルの構造を見れば、少なくとも、今のところ敵対していない。それどころか、協力してくれていることは分かる」
「まあ、そういうことよの」
「ユウト……」
「分かってる。ちゃんと説明するから」
悪の半神の“良心”は信じられても、協力しているとは思えなかったのだろう。もともと違和感はあったが、それは意味のない遭遇のせいだった。
それなのに、言葉少なに通じ合うユウトと小さなヴェルガ。その間に分け入って、説明を求める。
「さっきも少し話したけど、妙にぬるかったろ」
「それは確かに、変な映像を見せられたが……。しかし、ダクストゥムまで持ち出して協力とはどういうことなのだ……?」
「そりゃ、本来なら悪神を出す必要なんかないからだよ」
ユウトが、明快に遊戯板をひっくり返す。
けれど、必要なことだ。なにしろ、前提条件が違うのだから。
「本当に絶望の螺旋を物質世界に引っ張り出したいんだったら、この城自体必要ない。外にある触手みたいなのを、何百と用意して俺たちを排除すれば良いだけじゃないか。もしくは、ひたすら防御に徹して時間稼ぎをしたって良い」
「それは、確かにそうだが……」
正論ではあるが、感覚的に納得できないのだろう。
ヴァルトルーデが鮮やかで形の良い唇に指を当てて考え込む。
(さっき、キスされたんだよな……)
初めてではない。
だが、それで感動や緊張がなくなるわけでもない。
無意識にユウトも彼女と同じように手を口へ持っていきそうになったが、それはなんとか理性を総動員して防いだ。
今そんなことをしたら、ヴェルガからなにを言われるか分からない。
「これもさっき言ったけど、エボニィサークルに入ってからは、まるでクリアを待っている。そんな感じじゃなかったか?」
「その通りよ」
ヴァルトルーデの返答を待たず、小さなヴェルガが可愛く拍手をして婿殿の叡智を讃える。
「やっぱりか。ここでも、ヴェルガの掌の上か」
「そうでもあるまい? 協力者――否、共犯者かの。とにかく、婿殿たちがおらねば、妾のあがきも砂上の楼閣に等しいのだから」
またしても、通じ合う二人。
焦る必要はないのだが、ヴァルトルーデは必死に思考を巡らせて同じ結論に至った。
「つまり、ダンジョンにも似た試練を用意し、それを踏破すれば絶望の螺旋を送り返すことができるように場を整えたというのか」
聖堂騎士の言葉に、赤毛の女帝はうなずく。まるで、焦らすかのようにゆっくりと。
「先ほども言うたが、妾は絶望にとらわれた。その空隙を、忌まわしき絶望の螺旋につけ込まれたわけだが、すべて身を委ねるには邪魔な部分があっての」
「それが、“良心”か」
目の前を飛び回る小さなヴェルガを、疎ましそうに痛ましそうに見ながらつぶやくヴァルトルーデ。
「切り捨てられる――いや、自分で分離したのか?」
「どちらかは、妾にも分からぬ」
「両方なのかな? とにかく、そのとき介入してこんな仕組みを作ったと」
「いかにも」
満足そうに、ヴェルガが微笑む。
その態度はいっそ尊大ともいえるもので、今の姿には似つかわしくない。けれど、悪の半神に相応しいものでもあった。
「ただ、環境を整備してくれたと言っても、極端にハードルを低くすることはできないんだろう。ダクストゥムが出てきたのは、その証拠だと思う」
「その通りではあるがの。妾としては、単に我が父と婿殿を引き合わせたかっただけ……と考えてくれなかったのは、大いに不満ぞ」
「ダァル=ルカッシュの精神世界で会ってるじゃないか」
「あれを、会うと表現して良いものかの」
「それは、自作自演というやつではないのか?」
そこで、沈黙を守っていたヴァルトルーデが口を開く。二人の会話に不満を抱いたというよりは、純粋に疑問を感じたのだろう。
だが、ヴェルガの返答は挑発同然だった。
「おや。それを言うのかえ? となると、そもそもの発端が、妾たちが一人の男を取り合っての諍いということになるのだがの」
「取り合ってなどいない。盗賊を退治したまでの話だ」
絶世の美女とマスコットのような妖精がいがみ合う。
外面だけであれば微笑ましく見えたかも知れない二人だったが、ブルーワーズにおける善と悪の代表。
それを目の前で見せられるユウトの精神的な負担は、筆舌に尽くしがたい。
「俺が仲裁に入るのもなんだが、とりあえず、絶望の螺旋をどうにかするまで休戦にしないか?」
「……仕方あるまい」
「妥当なところではあるがの……」
「なにが不満だ?」
「不満と言えば、不満だらけよ」
「それは私も同じだ」
同時に顔を背け、ユウトを置いて移動する二人。
どちらかというと聖堂騎士のほうが大人げなく見えるのは、明らかに見た目から受ける印象のせいだろう。
「ユウト、なにをしている」
「婿殿、早う」
「……実は、二人って仲良いんじゃないのか?」
「……ユウト。いくらなんでも、怒るぞ?」
「婿殿、物には限度というものがあるのだぞ?」
「俺が悪かったから、勘弁してくれ……」
そんな二人を追い抜いて、ユウトが先頭に立つ。
向かう先は、玉座の間。確認するまでもない。
お膳立てはしてもらっている。
世界が終わるのか、続くのか。
その結末は、善と悪と、その最愛に委ねられた。




