7.愛する心
ドゥエイラ商会関連の仕事を一区切りさせたユウトたち――パベルをはじめとする他の人間は、これからが大変なのだが――は、チェルノフ邸を辞して拠点をツバサ号へと移していた。
そこは、港ではあるが海上ではない。
美しい船影が目立つのを嫌って、港近くの倉庫内に停泊――といえるかは分からないが――している。
その特殊能力により陸へ上がるのは問題なく、倉庫のほうも《木材成形》という呪文で壁に穴を開け、同じ呪文で塞いでおいた。
夜間に移動したため目撃者もなく、怪談騒ぎになることもなかった。
いたずらを仕掛けたわけではないが、ユウトは妙な達成感に浸っている。ラーシアやヨナも似たようなものなので、子供が秘密基地を手に入れたという状況に近いのかもしれない。
「なにこれ?」
ヴェルガとのデートを翌日に控えた、その夜。
ツバサ号の船室内で、ユウトは来客を迎えていた。
「見れば分かるわよ」
「できれば、その前に説明がほしいんだけど」
アカネから差し出された冊子――プリンタで印刷してステープラーでまとめたもの――をまじまじと眺め、ベッドに座ったままのユウトは困惑の声をもらす。
「いいから」
彼の眼前で仁王立ちする来訪者の少女は、怒っているかのように唇を結び、視線も合わせようとしない。全身で、その行為が不本意だと語っていた。
派手な顔立ちの彼女がそうすると、端から見ればやや威圧感もある。もちろん、ユウトはそんなものは感じていなかったが。
「なんなんだ……?」
幼なじみと一緒に入ってきた、もう二人の婚約者たちも無言。
その表情から読みとれるのは、不本意と困惑といったところか。
(まあ、読めば分かるか)
そう思っても、なかなか手が出ない。
ユウトは、冒険者時代に発見した秘宝具のことを、どういうわけだか思い出していた。
この世の悪がすべて記され、目を通しただけで邪悪の力を得るというそれ。
人の皮で装丁され見るからに禍々しい本を破壊した功績により、ヴァルトルーデは討魔神剣を授けられたのだ。
そんな秘宝具に遭遇するなど滅多にあるわけではないし、アカネが渡そうとするはずもない。
だが、なぜか思い出してしまったのだ。
「勇人」
「ああ……」
再度促され、ようやく受け取る。その最初のページを見て、ひとつ目の疑問――これがなんなのか――は氷解した。
「フォリオ=ファリナのデートスポット……?」
出かけていたのは、これをまとめるためだったらしい。だがそうなると、次の疑問が湧いてくる。
即ち――
「なぜ俺にこれを?」
ヴェルガとの「デート」のあとに、連れていってほしいということなのだろうか?
もちろん、なにか埋め合わせは必要だと思ってはいた。継続しているものもたくさんあるものの、新規かつ重要な案件は概ね処理できた。
後回しになってしまったのは申し訳ないが、一週間程度フォリオ=ファリナを見て回る余裕ぐらいある。
「予習のためよ」
「やっぱり、そうか」
パラパラと、プリントアウトされた書類をめくっていった。フォーマットも状況も異なるが、地球へ帰還したあとに、父がまとめたプレゼンテーション資料を思い出す。
「明日のね」
「明日?」
明日は、ヴェルガとの約束の日。
「《瞬間移動》も、無限に使えるわけじゃないんだ。さすがに、ダブルブッキングは厳しいぞ」
「なんの話よ」
「え? 朱音たちと、そのデートみたいのをするんだろ?」
「え?」
「え?」
違ったらしい。
どこでボタンの掛け違いが起こったというのか。
それを指摘したのは、意外にもヴァルトルーデだった。
「ヴェルガとのデート……。いや、会合の参考にしてほしい」
デートとは言いたくなかったらしい彼女が、複雑そうな声と表情で伝える。
「勇人、仕事ばっかりでデートコースとか考えてないでしょ?」
「うっ、まあ……」
「忙しくしていたのは、分かっています。だから、私たちが代わりに見て回りました」
「まあ、途中からヨナやラーシアも加わったので、偏りがあるかもしれんが……」
ユウトは、なにも言えなかった。
ベッドに座ったまま書類から目を上げ、船室にいる三人の婚約者たちをただ呆然と見つめる。
「いろんな意味で敵だけど、敵だけど。でも、相手がなんにも意識してないってのはあんまりでしょ」
「……不本意ですが。大いに不本意ですが」
「だが、借りがあるのも確かだからな」
複雑すぎて、自分自身の本心を知るのすら困難。
そんなユウトだったが、ひとつだけ分かっていることがある。
「ありがとう」
愉快ではないだろうデートを受け入れてくれて。
こんな男を見捨てずにいてくれて。
相手のことまで考えてくれて。
感謝。それに尽きた。
「じゃあ、早速これで概要ぐらいは――」
下見はできないし、ヴェルガがエスコートしてくる可能性も高いが、知っておいて損はない。頭に入れておこうと資料に視線を落とし……。
「えっと……」
三人とも、部屋から出ていこうとしなかった。
アカネはにんまりと――つまり、ラーシアやリトナのように――微笑み、ヴァルトルーデは普段は討魔神剣を振るうためにある白い指先をもじもじと組み合わせている。
アルシアも、頬を赤らめて横を向いている。
「暗記には、なにかと絡めるといいのよね」
「語呂合わせか?」
「騎士叙勲の時とか、剣で肩を叩いたりするじゃない?」
「ああ。それで?」
「あれってそもそもは、バーンッとビンタしてたらしいのよね。衝撃的な出来事と組み合わせると、印象深くなるわけよ」
意味ありげな表情で、メイド服を着た幼なじみがベッドの横に座る。
メイド服は別として、地球にいた頃から何度かあったシチュエーションだ。ユウトは、その行動ではなく、言葉のほうをいぶかしむ。
それが、失敗だった。
「それで――」
いきなり、唇がふさがれた。
完全な不意打ちで歯が当たってしまったかもしれないが、それすらも定かではない。
脳には、ただ、触れあう唇の柔らかさだけが情報として伝わってくる。
その衝撃が一段落すると、次には、甘さ。
本当に甘いわけではない。味覚ではなく、精神が感じている。
「ぷは……っ。びっくりしたわね?」
「あ、あたりまえだろっ」
小悪魔としか表現のしようがない口調と表情。
けれど、アカネにも、そこまでの余裕はなかった。今は勢いで押すしかない。兵は拙速を尊ぶ。
「ならばよし。続き行くわよ」
「せ、説明を要求する!」
「説明すれば良いのね?」
「うっ……」
ユウトを絶句させるなど、そうそうあることではない。
拒絶されていない。
当然だが、その事実に後押しされ、今度は唇ではなく耳へ顔を寄せる。
「まず、勇人は、そのデートスポットまとめを読むでしょう?」
「その前提はおかしい」
「その間、私たちがキスをするでしょう?」
「私……たち?」
思わず、壁際にいる二人を見る。
ヴァルトルーデとも、当然ながらアルシアとも視線をあわせることはできなかったが――二人とも否定はせず、船室から出ていくこともなかった。
「そうよ」
男が見たら、自分に気があると誤解する笑顔でアカネは至極当然と肯定する。
「俺が、デートスポットをちゃんと記憶するように、キスするって?」
「逆よ。その場所に行ったとき、私たちのことを思い出せるようにするのよ」
「なんっ」
再び、唇がふさがれる。
今度は、先ほどよりもお互い余裕があった。
目を閉じ――ては意味がないので、アカネの頭越しに見えるよう書類を持った手を伸ばす。
だが、これは無理があった。
吐息が混ざり合い、触れあう部分から快感が流れ、必死に唇をついばむ幼なじみが視界の端に存在している。書類なんかではなく、彼女の栗色の髪を撫でたい。
「だめよ? 集中しなさい」
しかし、見透かしたように注意を受ける。
(無茶言うな!)
とは思うものの、無理やり引きはがすこともその逆もできずにいた。
そのまま、数秒か、数分か、数十分か。
どれだけ時間が経ったのか分からない。今のユウトは、世界で一番実時間と体感時間の乖離が激しい人間だっただろう。
とにかく、全体の三割ほど過ぎたところで、顔を真っ赤にしたアカネが離れた。乱れた服を直し、ユウトも直してやり、軽く咳払いをする。
「前に言ったでしょ?」
「きっぱりと、誘惑を振り払うアイディアがあると」
幼なじみから言葉を引き継いだのは、真紅の眼帯を身につけた大司教。
「アルシア姐さん……」
「アルシアですよ」
そして、引き継いだのは言葉だけではなかった。
アカネがいたその場所に彼女も腰を下ろし、ためらいがちに唇を近づける。
拒否するという選択肢などありはしない。
「アルシア……」
興奮と緊張。
その両者により、ユウトの喉は乾いていた。少ししゃがれた声になってしまったが、それでもアルシアは嬉しそうに微笑む。
そして、ためらいがちに唇を重ね――
「むぐっ」
ためらわずに、舌をユウトの口内へ侵入させた。
そのまま婚約者の舌に絡め、ねっとりと蹂躙する。
(うわうわっ、うわっ)
もう、資料を読むどころの騒ぎではない。
どこでこんな行為を憶えたのか、心当たりはいくつかあるが、それを斟酌する余裕もない。
ただ必死に舌を動かし、絡め、歯を歯茎をなぞっていくその行為に身を委ねる。
「はっ、はあぁ……」
「ふっ、あぁあぁ……」
息を切らせて離れたその時、銀色の橋が二人をつないだ。
「……やりすぎてしまいましたか?」
「い、一所懸命なのは、いいことなのではないでしょうか」
もう、なにを言っているのか分からない。
「す、すごかったな。アルシア」
「いやぁ、マンガって役に立つわね」
「…………ひぁ」
外野の声で我に返ってしまった。
小さな悲鳴を上げて、トラス=シンクの愛娘はリタイアしてしまう。
「では、私の番だな」
すでに覚悟は決まっていたのか、ヴァルトルーデが前へ出る。
――右手と右足を、次に、左手と左足を同時に。
「ゆ、行くぞ」
「お、おう」
唇を重ねようとする恋人たちのかけ声ではない。
「なんっ……」
そして、実際に唇は重ならなかった。
「はむっ……んっ……」
彼女の愛らしい弾力のある唇は、ユウトの首筋に吸いついた。意外な攻撃に、ユウトはまたしても翻弄される。
「ユウト、ちゃんと読め」
「……分かったよ」
そのためにやっているのだと、宝石よりも美しく価値のある瞳が訴える。
「痕はつけぬ」
残念そうに、ヴァルトルーデが言った。
一応、それはヴェルガに失礼だと思っているらしい。
「だが、相手はあのヴェルガだ。どこになにをしてくるか分からぬからな」
聖堂騎士は、大魔術師の最愛は、そのまま押し倒すように馬乗りになって、耳をはむ。
「ヴァルっ……」
「きちんと憶えるのだ……ぞっ」
親愛の情を注ぎ込むかのように、額へキスの雨を降らす。
次は、両頬を唇で、舌でマーキングするかのようにねぶっていく。
唾液で、顔がべとべとになるが、不快感はない。
ただただ、夢見心地だった。
「うむ。ここなら、邪魔にならぬだろう」
「ちょっ」
最後には顔から離れ、制服のボタンを外して鎖骨や胸元に唇を寄せる。
確かに、これなら書類も読みやすい。真面目な彼女らしい配慮だ。
(そういう問題じゃないだろ!)
想像もしなかった光景。
夢にすら見なかった行為。
結局、それでも。
完全に翻弄されながらも、ユウトの目だけは書類の文字を追っていた。
(これ、逆にいけないことなのでは……)
そう思い至ったのは、一応、最後まで読んでから。
荒い息を吐く二人を見下ろし、首謀者――ユウトは確信していた――であるアカネが衝撃的な台詞を口にする。
「さあ、二周目ね」
「マジか」
愛の交歓は、その夜更けまで続いた。
翌日。
ユウトは、一人指定された場所を訪れていた。
ヴァルトルーデたちは、ツバサ号にいる。ヴァイナマリネンとは顔を会わせることはなかったが、どこかにはいるのだろう。
(平常心、平常心)
なにがあってもぶれないこと。
それが、文字通り体を張ってくれた婚約者たちへの礼儀だろう。
そんな決心は、ものの数秒で崩れ去った。
「婿殿、待ちわびたぞ」
時間に遅れたわけではない。
彼女が言っているのは、約束をしてから数ヶ月。一日千秋の思いでこの時を待っていた。そういうことなのだろう。
待ち合わせ場所はフォリオ=ファリナの中心、百層迷宮の入り口。
そこで、ヴェルガは待っていた。
「浴衣……」
燃えるような赤毛をポニーテールに結い上げ、得意げに微笑むヴェルガ。
悪の半神は、色とりどりの花があしらわれた、鮮やかな藍色の浴衣を着てユウトを待っていた。
「どうであるか? 妾自身が言うのもなんだが、似合うであろう?」
浴衣はスレンダーなほうが似合う。
よく言われていることだが、もちろん、例外は存在する。
「ああ……」
結局、元がよければなにを着ても魅力的なのだ。
ヴァルトルーデという一番の例外と一緒に過ごしてきたユウトだったが、もう一人の例外に、それを改めて思い知らされた。
こんな内容であれですが、昨日お伝えしたとおり、明日明後日の更新はお休みさせていただきます。
申訳ありませんが、よろしくお願いします。




