第49話 秋葉原管弦楽団編 見学とあきかんの朝
冷房の音が小さく聞こえる中、ぺらりぺらりと紙をめくる音がする。
部屋にいる数十人が中心にいる人物の言葉を待つ。
「んー、158小節目トランペット1は『ターターター』じゃなくて『タァタァタァ』みたいに少し突いてもらった方が良いと思うので、やってみますか。えー、そうだな。149からチェロ、オーボエ、トランペット、トロンボーンで行きますね。ふたつでいきます。さんっ」
指揮者のコメントに答えるように、指名された楽器の音が練習室に響く。
半円状に座った演奏者は四十人前後いるだろうか。ヴァイオリンの人が一番多い。
「んー、良くなったと思うのでこれで行きましょうか」
「了解」
そんなやりとりを見ながら、深川さとりの中に不安感がむくむくと大きくなる。部屋の端に目立たないよう座っているとはいえ、とても場違いなところに来てしまった。
「はい、じゃあ最後、コーダの四つ前から全員で。雅で幽玄な雰囲気から、スッと静かに引いてください。ラストはソロ以外、音を立てたら殺しますね」
どこまで本気かわからない冗談だが、雰囲気がふっと緩む。
「いきます。ふたつ」
だが、指揮棒が上がった一瞬で、緊張が張り詰めた。
「さんっ……」
床を伝って感じる低音の響きと、高らかに歌い上げるような高音の旋律。
そして、急に静けさに包まれる。
その曲のコーダは、ソロのフルートとコントラバスの音でメロディが締めくくられ、ラストはどこか聞き覚えのある鈴の音。
それが少しずつ小さくなって、遠くなって、やがて消えていった。
指揮者が腕を下げた瞬間、部屋中に満ちていた緊張が解かれる。
その切り替わりに毎回驚いてしまう。
「はい、こんな感じになります。コーダの後半は本番では振らないですけど、今ぐらいの感じでお願いします。鳴らし方がブレると気になるかも知れないので、えー、今の三回目の音がちょっと引っかかるような感じがあったんで、気をつけて。最後は聞こえるか聞こえないかを目指して、なるべく均等な減衰でお願いします」
「はい」
鈴の音ひとつにも、指示があるのだと感心する。さとりも神楽鈴を鳴らした経験はあるが、鳴らし方を気にしたことはなかった。さすがは楽団。
「それじゃあ、お昼休みにしましょうか。何かある人……」
「いいですか」
「はい、クラマさん」
ようやく知っている人の声がした。
去年の冬コミで副ブロック長だった蔵前である。
クラマと呼ばれたその蔵前はヴィオラ片手に立ち上がる。さっと一同を見回すと、ばっちりさとりと目が合った。安心させるかのように笑いかける。
「えー、今回スタッフとして協力してくれる方が見学に来てくれています。後ろにいらっしゃる、深川さんです」
蔵前がさとりを指し、部屋にいる全員が、一斉に注目する。
男性が圧倒的に多いが、数人女性も混じっている。
大勢の注目を浴びてもそれほど慌てず、丁寧に頭を下げた。
コミマで人の目に慣れたのだが、当のさとりはそれをはっきり自覚していない。
「若い……」
「可愛いな」
「スタッフ見つかったんだ。良かった」
ぽつぽつと感想のようなものが聞こえてくる。概ね好意的なので緊張はするものの、少し安心する。
「はい拍手ー」
蔵前の合図で、演奏者全員がさとりに拍手してくれた。
今日は秋葉原管弦楽団、通称「あきかん」の練習日。
当たり前のように全員が楽器を持ち、さとりを見ている。
再度頭を下げながら、さとりはこの間のことを思い出していた。
この間夏コミの反省会があり、そこで偶然去年の冬コミで同じブロックだった蔵前に出会い、誘われた。いや、誘われたというよりむしろ懇願された。
『演奏会スタッフがどうしても足りなくて……お願いします!』
成人男性に頭を下げられ、手を合わされてしまっては、ただの女子高生であるさとりに断れるはずもなく。
あれよあれよと演奏会スタッフとして引き込まれ、ここにいる。
昼休みですっかり緩んだ空気の中、蔵前がさとりに近づいてきた。さっきまで持っていたヴィオラはもうその手にない。
「お待たせ、深川さん」
「いえ、生演奏すごいですね」
「ふふ、ありがとう」
嬉しそうな蔵前。聞くところによると、副団長らしい。
コミマでも責任者をして、楽団でも責任者をする。大変だと思うのだが本人は飄々としている。
「今回深川さんにお願いすることなんだけど、えーと、あ、まずはスタッフの全体的な業務からの方がいいか。基本的にはお客さんの誘導と、問い合わせ対応、警備業務だけど……」
コミマスタッフと似ていると思いながら、業務と時間帯に区切られた表が載った紙の資料に目を落とす。
「……とまあ、演奏時間以外が割と忙しくて申し訳ないんだけど、コミマスタッフのノウハウも活かせると思う」
蔵前の言う通り、開場前と終演後に業務が集中しているようだ。変わったところでは『チラシの挟み込み』があるようだが、単純作業なので心配ないと笑う。
ひと通り説明を受けたところで、蔵前が居住まいを正した。
「それで、あー、一応断ってもらっても良いんだけど……」
少し言いにくそうだったが、意を決したようにさとりに目を合わせる。
「巫女服を、着てもらうことってできるかな」
「へ……」
思ってもみなかった申し出に、理解が少し遅れた。
「今回の演奏する作品に出てくる巫女のキャラが、深川さんとちょっと似ていて……」
スッと差し出される参考資料。ゲームのパッケージ画像と、簡単なあらすじ、登場人物が印刷されていた。
そこには、気弱そうな巫女装束の女の子が描かれている。なるほど、自分の髪型とも少し似ている気がする。ただ、こんなに可愛くはない……それに。
さとりはちらりと蔵前を見る。
「もちろん衣装はこっちで用意させてもらうし、あ、うん……エッチなゲームなので、その……」
パッケージの裏側は見せられないらしい。
「ただ、この作品はただのエロゲーじゃなくて、伝奇を絡めたミステリ風の展開なんだけど、シンプルな人間関係の中でお互いへの想いっていうのかな、気持ちのベクトルと、積み重ねてきた時間の重さがさ、ものすごくて……あ、この子が時折人の過去を見ることがあって、それが解決の糸口になったりするんだけど……」
何やら早口で喋り始めたが、とにかく蔵前がこの作品を好きであることは伝わってきた。
「あ、もちろんうちの楽団でもやるぐらいだから音楽も良くって、そう、この作曲の人が今度アニメの主題歌もやるんだ。いや、この頃から目をつけていたけど、いやビッグになったなあって思ってさあ。今回最初の曲とアンコールでやるんだけど、アンコールの曲のラストの余韻が良くてね」
そろそろ止めたほうがいいだろうか。
「あの、巫女装束なら、自分のがあるので……」
「えっ?」
あっという間に演奏会当日が来た。
コミマほど会議や打ち合わせを重ねるわけでもないため、何となく事前準備に不足があるような気がしてしまう。
最後に「気楽に構えてくれていいから」と、蔵前は笑っていたが。
「早く着いちゃった」
自転車を降りたさとりは、今日の会場の前でまだ誰もいないことに気づいた。
事前に教えられた駐輪場にも、一台も自転車がない。
集合時間の15分前。正真正銘の一番乗りだった。自転車で来たが、思った以上にスムーズだったらしい。
「緊張してきた……私が演奏するわけじゃないのに」
日曜日の朝、さとりがいる場所は、区の名前を冠するコンサートホール。
「小学生の時、来たような」
あまり覚えていない。それくらい縁のない場所だった。
そして同じくらい縁がなかった、アマチュア演奏会という世界にも踏み入れる。
少し前の自分には考えられないことだった。
(でも……)
背中に感じる重み。
頼まれていた巫女装束を持ってきたは良いが……正直気乗りしていない。
さとりにとってこの服は、失敗続きだった自分の象徴のようなものだ。
最近ようやくコミマを通じて自分を認められるようになってきたところで、この服に袖を通すとまた逆戻りするのではないかという怖さがあった。
自転車を置いたあと正面入口で立っていると、ようやくひとり女性が現れた。キャスター付きのスーツケースを引いている。コスプレの人がよく使うキャリーだが、楽団に関係ある人かどうかわからない。少なくともこの間の練習にはいなかったと思う。
視線を向けて良いかも判断できず、何となく目を泳がせる。
すると、そんなさとりに向こうから話しかけてきた。
「おはようございます。えっと『あきかん』の……?」
「あっ、はい、そうです。あの、スタッフで」
女性は安心したように笑う。大学生ぐらいだろうか。前髪に綺麗な白のメッシュが入っていて、少しダボついたパンツルックはあまりさとりが関わってきたことのない種類の人に見える。
「あ、私もスタッフ! ミーシャですよろしく!」
「深川さとりです、よろしくお願いします……」
「んえ? 本名?」
「あ、本名ですね……」
「珍しいね!」
「そう、なんですかね……」
そういえば蔵前もクラマと名乗っていた。単なる音読みのニックネームかと思っていたが、あれはハンドルネームというものなのかもしれない。
「ああ、深川さん、ミーシャさん、おはよう」
ちょうど蔵前が現れた。
集合時間の五分前。
「ふたりは女性奏者の控室で着替えて、それからロビーの一階で他のスタッフと合流してください」
「わかりました」
そこから演奏者が続々と集合し、時間になって正面のドアが開く。
どんな一日になるのだろう。
大きな不安と小さな期待を胸に、さとりは一歩足を踏み入れた。




