死というもの
「魔法使いハーニスに、人としての死を与え給え!」
ミルワナは、一瞬も迷わずそう叫んでいた。
彼女の中に、ほんのひとかけらでも人の部分が残っているのならば、この神の力は届くと思ったのだ。
死の神ニビリデアは、元々魔の眷属だったという。
なかなか死なない魔族より、ころころとよく死ぬ人の世界の方が退屈しないと、人の神の側にやってきた変り種の神である。
頼まれて人の命を奪うのが、一番好きな神のため、契約をするのは実は難しくはない。
ただし、契約を履行するのに必要な力は、膨大な上にいびつで、たいていの神子の器が壊されてしまう。
自分の命を賭けてまで、人を殺したいと考える神子は、この世にはほとんどおらず、契約神数をひとつ増やすだけの飾りのような神だった。
彼女が、魔界にかの神を入れてきたのも、魔界に縁のある神だったのと、契約の一行目の履行だけならば、ほとんど神力を必要としなかったからである。
その神に、ミルワナはハーニスを人として殺させようとしたのだ。
そう。
人として。
人は、黒曜石ではない。
人は、黒くどろりとした形のないものではない。
人は。
呆然と立ち尽くす戦士リューイの手に、ほとんど真っ黒ではあるものの、再び形が取り戻されるのを、ミルワナは見ていた。
ハーニスという人間の形は、死の神によって取り戻されたのである。
「ニビリデア! ニビリデア!」
ミルワナは、悲鳴をあげた。
せっかく人の形に戻った彼女から、これからまさに命を奪わんとする神の名を叫ぶのだ。
「貴神との契約を、無に還します! 私を貴神の加護から打ち捨て下さいまし!」
それは──魔界だったからこそ、出来る荒業だった。
人の世界であれば、契約書を引きちぎったところで、突然神は去っていく必要はない。
しかし、魔界で引きちぎられた場合、神という身分がある限り、ここにはいられなくなるのだ。
それがたとえ、元々魔の眷属であったとしても、だ。
死の冷たい指先を、いまやまさにハーニスに伸ばさんとしていた死の神は、ミルワナの言霊に引きずられるように、消えながら後方へと吹き飛んで行った。
「ハーニス!?」
神の消失を確認し終える前に、ミルワナは彼女の名を叫んだ。
本当に間に合って、ハーニスが生きているのか、分からなかったからだ。
戦士リューイが、彼女を引き上げる。
だらりと黒く力ない腕が、彼に抱きかかえられるのを、息を止めたまま見守った。
リューイが、彼女に口付ける。
長く深く、もはや赤い色も見えない黒い唇に、力を注いでいく。
そんな彼女の唇が。
白く、光った。
生きているのだと理解するより先に。
ミルワナは──血を吐いていた。
※
覚悟はしていた。
死の神との契約を履行した時点で、自分が無事でいられるなんて思ってもいない。
更にその契約を、一方的にぶっちぎったのである。
神が、ただで消えるはずがなかった。
彼女の力の器は、さぞやボロボロにされたことだろう。
力が漏れ出し、内側に入れていた道の神や癒しの神が消えるのも、そう遠いことではない。
だからこそ。
ミルワナは、血を吐きながらも倒れなかった。
まだ、彼女には最後の仕事が残っているのだ。
全ての力を失ってしまう前に、彼らの帰る道を作らなければならない。
「ウクシノーフ! 道の神よ! 私の足の下にいつもおわし給う道の神よ! 我らに人の道を示し給え!」
倒れず、血の咳もせずに済んだのは、癒しの神を身の内に入れていたおかげだろうか。
ああしかし、もはや彼女は長くはもたない。
道を保持出来るのは、ほんのあとちょっとだけ。
早くと、ミルワナは言おうとした。
早く、この道を通って、人の世界に帰るの、と。
しかし、言葉はもう出ない。
目の前も、ただ暗くなっていく。
けれど、聡明な聖騎士ロウンのことだ。
道が長くもたないことは、彼はちゃんと分かっているはず。
だから、きっとだいじょう──
その時。
血で濡れたミルワナの唇から、暖かい力が流れ込んできた。
血と唾液でぐちゃぐちゃの彼女の唇の中に、違う力が流れ込んでくるのだ。
同じ系統の力であり、違う人の力でもあるそれが、彼女の器の穴を、わずかではあるが埋めていく。
「神子ミルワナ……あなたはまったく本当に」
その苦しげな声を聞いたきり。
ミルワナの意識は、闇の世界へ閉じ込められたのだった。