汚れた力
「私は、これからただの騎士になります」
瘴気の接続地点を前に、聖騎士ロウンが小さな声で呟く。
既に暗い穴に足をかけている二人の人間ではなく、後ろにいるミルワナに言っているように聞こえた。
「分かっています」
ロウンは、彼女のように神を身体の中に入れることが出来ない。
神子と違って、器が小さすぎるのだ。
必要な力を世界から受け取り、そのつど助けとなる契約神を呼ぶことは、聖騎士にも出来る。
しかし、この先は、本当に新たな神力を得ることは出来ない。
彼は、魔界では癒しの力も使えなくなるのだ。
剣と盾を使い、物理的に戦うしか出来ないのだと、ミルワナにきちんと自覚させようとしたのだろう。
「本当に……分かっていますか?」
困った視線が、肩越しに投げられた。
彼には、これまで本当に迷惑をかけた。
ロウンの助言に従わなかったことも多く、彼に余計な手間をかけさせまくった。
だからこそ、こんな風に念を押されるのだ。
「分かっています……自重します」
限りある力を、決して無駄に使わない。
それがいま、ミルワナに求められていることであり、魔法使いハーニスの戦いを止めた理由でもあった。
「はぁ……やっぱり分かってませんね。まあ、いいです」
聖騎士は肩を竦めて、前の二人が消える背中へと視線を戻した。
「行きましょう」
ミルワナの方を向かないまま、彼が後ろへと手を差し出す。
「はい」
彼女は、ためらうことなく、その手をしっかりと取った。
そして彼らは──魔界に呑み込まれたのだ。
※
そこからは、時間との勝負だった。
ミルワナの力が尽きてしまう前に、魔王の元にたどり着かなければならなかったからだ。
勿論、やり直しは出来る。
いざとなれば、ミルワナが帰り道をこじ開けて、魔界から緊急脱出することは可能だった。
しかし、そんなことなど誰も考えていない。
ここで全てを片付けて、晴れて人の世界に帰るつもりなのだ。
その証拠に、あのハーニスが暴走しないでいた。
前よりもまた少し白くなった気のする手をぎゅっと握って、戦いをこらえてくれたのだ。
ミルワナの恥ずかしい大声が、少しは役に立ったかと思っていた。
だが、そうではなかった。
そうではなかったのだ。
ミルワナがそれを知ったのは、ついにたどりついた魔王との戦いの真っ最中だった。
ここからは、ミルワナは見ているしか出来なかったし、そんな彼女を、聖騎士ロウンもまた守り続けていた。
魔王を倒すほどの力があるのは、神の加護のない者。
いま、その二人がおぞましい闇の塊と戦っている。
戦いは、とても長かった。
二人とも、疲れを知らない鬼神のごとく戦い続けていた。
いつもであれば、とっくにハーニスの魔力は切れているはずなのに、彼女は何の苦痛を訴える様子もなく、頭がおかしくなったように執拗に魔法を撃ち続けている。
その度に、少しずつ煤けていくのが分かった。
ほんの少しだけ、白くなっていたはずの肌も髪も目も、再び深い闇の彼方へと引きずられているのが、明らかだったのだ。
「……!」
ミルワナは、悲鳴をこらえた。
分かってしまったのだ。
彼女もまた、ミルワナと同じだったのである。
ミルワナが、神のいるところで自然に力が供給されていたように、彼女もまた魔界にいるだけで、勝手に身体の中に魔力が供給されていたのだ。
だから、これほど魔法を撃ち続けても、彼女の魔力は枯渇しないのである。
減った器の中に、次々とこの地の汚れた力が流れ込んでいく。その度に、彼女はどんどん暗い闇に突き落とされる。
これまで気づかなかったのは、ハーニスが魔界で魔法を使うのを自重していたから。
美しい中性の力でいっぱいに埋められていた彼女の器には、さすがの魔の力も流れ込むことが出来なかったのだろう。
ハーニスは、自分に再び汚れた力が流れ込むのが──嫌だったのだ。
嫌だったのに。
「やめて、もう撃たないで、撃たないで」
気がついたら、ミルワナは前にいたロウンの腕にしがみついて、そう呟き続けていた。
戦士リューイ一人いれば、おそらく勝てる戦いだ。
彼はまだ疲れてもおらず、着実に闇に苦痛を与え続けているのだから。
そこにハーニスが入ることにより、苦痛の量は倍増し、より早く戦いは終わるのかもしれない。
しかし、その前に、彼女の全てが真っ黒に塗りつぶされ、壊れてしまうのではないかと思った。
「大丈夫ですよ、神子ミルワナ」
大きな盾を構えたまま、前から視線をわずかもぶらすことなく、聖騎士ロウンは轟音の響き渡る世界に、静かな声を一筋通した。
「魔法使いハーニスは、必ず戦士リューイが連れ帰りますから」
それが、たとえどんな状態の彼女であろうとも。
ここでもまた、ミルワナは戦士リューイに祈りを捧げなければならない、
神ではなく、苦痛の人生を送ってきただろう、かの男に。
魔王の闇の霧が、少しずつ晴れると共に、その中からいくつもの黒い腕が伸びてくる。
その一本一本は、全て違う大きさや形をしていて、人に似たものもあれば、獣に似たものもあった。
それらの腕を、二人は剣と魔法で引きちぎり続ける。
何千、何万もの腕が落ちても落ちても、次の腕が現れる。
このまま永遠に、終わらないのではないかと、ミルワナは震えながら、いまにも闇に溶けてなくなってしまいそうなハーニスを見つめていた。
そんな時。
戦士リューイは、ハーニスの元へと飛んだ。
彼女という黒い闇の中に、リューイが飛び込んだように見えたのは、錯覚だったのか。
ひとつの塊となった二人が、頭から魔王の闇の中へと飛び込んだのを見て、ミルワナは驚きの悲鳴をあげる。
完全に、彼らは魔王に飲み込まれた──かのように見えた。
次の刹那。
闇は、内側から引きちぎられる。
リューイの剣の切っ先が、外へと飛び出してきたのだ。
人が、魔王の身体に入るなんて、普通ならば絶対に無理である。しかし、魔に限りなく近づいたハーニスならば、入れたのだ。
彼女を隠れ蓑に、リューイは魔王の内側から破壊したのである。
ミルワナには、決して思いつけない危険な行動だった。
闇が、ばたばたと力を失って落ちていくのを、彼女はロウンの陰から見つめていた。
その中から、出てこなければならないものがあるからだ。
どろどろの黒いものを振り払いながら、戦士リューイが顔を出す。
その手には。
黒曜石の塊のような腕が、しっかりと握られていた。
ああと。
ミルワナが、歓喜の声をあげようとした時。
黒曜石の腕が。
どろりと形を失った。
魔王の残骸に溶けるように、リューイの手から、彼女の形がなくなっていくのだ。
刹那。
「ニビリデア! 私の枕元に常に座り給う死の神よ!」
ミルワナは──その神を呼んだ。
道の神でもなく、癒しの神でもなく、お守りとして入れていた、死の神を呼び寄せたのだった。




