魔の力、神の力
「入れそうだな」
「ええ」
戦士リューイと、聖騎士ロウンの短い会話は、ミルワナの背を戦慄させた。
濃い瘴気に包まれ、人の住めなくなった廃村に、それはあったのだ。
彼らがくぐって魔界にいけるほどの、大きな接続地点である。
ついに、人の身でありながら、向こう側に渡る日が来たのである。
ミルワナは、少し離れたところで突っ立ったままのハーニスを見た。
彼女は、人っ子一人いない村を見ていた。
この村は、避難の間に合った数少ない幸運な村である。
ハーニスには、その幸運はなかった。
いや、もともと彼女には『幸運』という概念がない。
それを彼女に与える神など、ただの一人もいないのだから。
この村を、一体どんな気持ちで見つめているのか、ミルワナに想像できるはずもなかった。
ただ、見ているだけで痛々しい。
そんな彼女から、目をそらしてしまうのは簡単だ。
それでも、彼女の側に寄り添っていたいという気持ちに偽りはないミルワナは、ただ彼女を見つめていた。
同じ風景を見て、同じ思いは共有出来ないにせよ、この風景と彼女の姿を、自分の中に焼き付けることくらいは出来るのだから。
「神子ミルワナ……」
戦士リューイが、ハーニスの元へと歩いて行くのに気づいた彼女は、そこでやっと自分が呼ばれていることに気づいて視線を動かす。
いつの間にかロウンが、すぐ横にいた。
「これから、魔界に入ります。この先、無事に帰れるかどうかは、貴女にかかっていますので……決して無茶はしないでください」
これまでとは違うのだと、噛んで含めるようにロウンに説かれる。
さすがのミルワナも、頷かざるを得なかった。
魔界では、自分の内側に自分の器に見合うだけの神しか連れて行けず、その力の量も限られるのだ。
普通、神子の力は、神の影響を受ける場所にいるだけで、体内にためられていくようになっていた。
使い切れば、補充に時間はかかることはあっても、勝手にたまっていくのである。
しかし、これから行く先は、神のいない世界。
神力の追加補充は、されないということだ。
だから、ミルワナは連れて行く神をひとつずつ、自分の器の内側に入れる必要があった。
常に契約の最初の一行を履行している状態にして、一緒に連れていくのである。
瘴気の強い村から少し離れ、儀式の陣を地面に描き、彼女は神を入れる儀式を始めることにした。
儀式の最中は、完全なる無防備となり、彼らに守ってもらわねばならないため、周囲をリューイとロウンが固めてくれる。ハーニスは、少し離れたところに、やはり突っ立っていたが。
そんな中、ミルワナは契約神を一柱ずつ自分に下ろしていく。
最優先で、道の神を。
他のものはともあれ、かの神だけは必要だからだ。
癒しの神も入れる。
本来の神子であれば、この二つだけあれば、神子としての仕事は遂行出来るだろう。
迷いながら、ミルワナはもう一柱の神をを入れる。
呼び出すことは絶対にないと思っている。
ただ、魔界という場所を考えると、お守りくらいにはなるのではないか、と思ったのだ。
神を下ろしている間、ミルワナには半分意識はなかった。
だから、儀式が終わって陣の外を見た時、ぶすぶすと焦げくさい臭いが充満していることに、ようやく気がついたのだ。
廃村の大きな瘴気のつながりから出てきた魔族と、戦いが始まっていたのである。
魔族を前にして、ハーニスが大人しくしているはずがない。
「大した奴じゃない、下がれ」
戦士リューイの言葉も耳に入っていない彼女が、黒い目を獣のように見開き、その手のひらいっぱいに、炎の花を咲かせようとしていた。
「ああ、駄目!」
そんな彼女を、飛びついて止めたのはミルワナだった。
「勿体無いから駄目! 力を無駄に使わないで!」
物理的に非力なミルワナの力では、本気のハーニスを止めることは出来ないだろう。
しかし、ここで彼女を止めなければ、せっかく神を入れる儀式をしたことが無駄になるのだけは間違いなかった。
これから、彼らは魔界に入るのだ。
いままでのように安全な場所はなく、簡単にハーニスの魔力を回復させることは出来ない。
もしここで、彼女が魔力を使い過ぎるようなことがあれば、魔界入りは延期となる。魔力を補充できる場所まで、戻らなければならないからだ。
そうなれば、せっかく入れた神を、ミルワナも契約解除しなければならない。
神を入れている間中、自然と神子の力は減少していく。保持しきれないほどの量になれば、自然に契約が解除され神は彼女の元を去ってしまうのだ。
ここでハーニスを止めなければ、全て最初から仕切り直しである。
だから、ミルワナは、彼女に飛びついた。
「魔王を倒したいんでしょう!? それまで力は取っておいて、お願い!」
振り払われまいとしがみついたまま、ミルワナは大声をあげた。
こんなみっともないことをしたのは、子供の時以来である。
そんな二人の向こう側で、ズシャリと魔族の身体が地面へ叩きつけられる。
既に、その身は三つに分かれていた。
剣を収める二人の男が、安堵の吐息をついてこちらを見ているのに気づいて、慌ててミルワナは彼女から離れる。
もはや、ハーニスをおさえつけておく理由はなくなったのだ。
「助かった」
戦士リューイは、まっすぐに彼女たちの元へと近づいてきて、一言ミルワナに告げると、ハーニスの腕を取る。
そのまま。
初めてミルワナは、二人の口づけの様子を、目の前で見ることとなった。
前線にいない頃は見られなかったし、ミルワナが最前線で戦った時は、自分もボロボロでそれどころではなかったからだ。
ただの口づけでないことは、これまでのことから分かっている。
しかし、ハーニスの唇を舌でこじ開ける様まで見せられては、神子として慎ましやかに生きてきた彼女には、刺激が強すぎた。
思わず、目を大きく開いたまま、彼らに釘付けになり動けなくなってしまったのだ。
「減った分は、いまので足りるか?」
何事もなかったかのようにリューイが、そう彼女に語りかけていた。
「……足りる」
慣れたことなのだろう。
ハーニスも、淡々と答えるだけだった。
「待たせたな、行こう」
同じほど淡々と、戦士リューイは呆然としたままのミルワナを促す。
「行きましょう。貴女の時間が減っていきます」
後ろから聖騎士ロウンに肩を叩かれ、ようやく彼女は我に返ったのだった。




