幸福な死
自分の色恋のことなど、ミルワナには考える余裕もなかった。
彼らと旅をする前は、神殿でずっと修行の日々で、そういうものとは無縁だった。
実際、神子は結婚出来ないワケではない。
多神教という宗教柄、契約する神も多種多様で。異性を知らないままでは、契約出来ない神もいるくらいなのだ。
神子同士が結婚するのを、彼女も何度か目撃はしていたし、良家の子女が結婚前のたしなみとして、神子修行をしに来ることもあった。
しかし、彼女自身はそんな浮ついた世界とは、縁遠い性質だったのと、彼らと共に旅をするようになってからは、魔法使いハーニスのことで頭が一杯だったせいで、それどころではなかったのだ。
旅の間、戦士リューイが多弁な方ではなく、よくハーニスと一緒に部屋に消えるため、結果的にミルワナは多くの時間を聖騎士ロウンと過ごすこととなった。
彼は話上手であったし、これまでの事情もよく知っている人で、多くの話を彼女にしてくれたのである。
聖騎士という職業柄、神子のことにも詳しく、優しく彼女を気遣ってくれることも多かった。
しかし、それもミルワナからすれば、消去法だと思っていたのだ。
ハーニスのことは、リューイがするというのが暗黙の了解だったため、ロウンは余った彼女に構ってくれただけなのだと。
しかし、彼の言葉からすると、そうではなかったらしい。
「ご迷惑をおかけしたと思ってました」
「ええ、迷惑ですよ」
ぽつりと呟いたミルワナの言葉に、即答が返って来る。
「貴女は、最後の最後まで魔法使いハーニスのことばかり気にしていますし、挙句、ついていこうとまでしていました。彼女を気にかける、ほんの十分の一でも私を気にしてくれたなら、私の気持ちに気づいてくれたはずです。そして、貴女はそんな私に言うのです。『ご迷惑を』と。その言葉こそが、私には迷惑です」
きっと、ロウンは怒っているのだ。
彼女の手を離さないまま、緑の視線を少し横にそらして、よく回る口でミルワナに言葉をぶつけてくるのだから。
「ごめんな……」
「それも迷惑です」
ピシャリ。
穏やかな聖騎士は、一体どこへ行ってしまったのか。
ミルワナの次の言葉も、途中でばしっと打ち切られてしまった。
こうなると、彼女は何を言えばいいのか分からない。
愛していると言われたことが嘘であるかのように、責められている気分になるからだ。
「私のことを、嫌いではないでしょう? こうして手に触れても不快ではないでしょう? 私が口づけをしても、不快ではなかったでしょう?」
黙ってしまった空気に耐え切れなかったのか、ロウンが視線を彼女に戻しながら瞳を近づけてくる。
「嫌いではないです。手も、嫌ではないです……口付けは、ごめんなさい、よく覚えていなく……んっ」
馬鹿正直に、ひとつずつミルワナは答えようとした。
しかし、最後の部分は全部言い切ることは出来なかった。
彼女の唇から、ロウンの力が流れ込んできてしまったからである。
「ん……んっ」
唇がこじあけられ、一方的に力が流し込まれる。
人間界にいて、力も使っていないミルワナの器に、それは入りきれずに溢れていくだけだというのに。
「不快では……ないでしょう?」
両方の頬を手で挟まれ、逃げられないほど唇のすぐ側で囁かれる。
どうしたらいいのか、分からなかった。
自分のことだというのに、何も分からなくなった。
口づけは、ミルワナの命をつなぐための、緊急回避的な行動ではなかったのか。
いや、そうではないと──いままさに、ロウンが訴えているのだ。
「不快では……ないです」
彼女の素直な答えに、ロウンは切なく目を細めて、もう一度口づけてきた。
「きっと貴女を幸せにします」
彼の優しすぎる言葉に、ミルワナは困ってしまう。
「私はもう幸せなのです」
足りない人生を生きていたわけではないのだと、彼女は訴える。
「では、もっと幸せにします……あなたが魔法使いハーニスに願ったものより、もっともっと多く」
だから、と。
ロウンは、もう一度口づけてくる。
彼に、これまで一体何度、ミルワナは唇を奪われたのだろうか。
「だから……貴女も私を幸せにして下さい。貴女に幸せを願ってもらえるのであれば、いますぐ私は不幸になっても構いません」
彼の緑の目は、本当に真剣な色をしていた。
強くミルワナの愛を、欲しているのだと、気恥ずかしいほどに彼女に伝わってくる。
「聖騎士ロウン……貴方の幸福を祈っています」
その瞳にうまく答えることが出来ず、彼女は精一杯にその言葉を紡いだ。ほんの塵ほどの嘘も、そこにはない。
彼は本当に素晴らしい聖騎士だった。素晴らしい男だった。そんな彼の幸せを、祈ることを忘れていたわけではないのだ。
しかし、彼もまた、ミルワナと同じく幸福な側の人間だったのである。
そのため、彼女の中の優先順位は、確かに彼らの中では一番低かった。
少なくとも、ミルワナが祈らなくても、彼には加護する神がいたのだから。
そんな彼女の心が、読まれたのだろうか。
「神ではなく、ミルワナ……貴女の加護を」
鼻が触れ合う。
彼もまた、か弱い人間の一人なのだと、その身に触れた部分から伝わってくる。
「わ、私の加護でよければ」
ためらいの言葉は、温度の高い男に飲み込まれた。
「貴女の加護しか……いらないのです」
※
その後、聖騎士ロウンと神子ミルワナは結婚したが、式に『彼ら』を呼ぶことは出来なかった。
どこへ行ってしまったのか、消息が掴めなくなったのだ。
しかし。
何年も遅れて、ミルワナとロウンの元へ結婚祝いが届く。
それは。
ニビリデア──死の神が、人の手によって殺されるという、前代未聞の『神殺し』の話だった。
この世には、神の加護から外れた人間がいる。
生き延びれば生き延びるほど、その力は強大となり、魔王すら倒すことの出来るという。
そんな人間が、もし、二人もいたら。
神くらい、殺せるのではないだろうか。
そう思いはするものの、言葉に出すのを憚られていたミルワナに、彼女の夫はこう言った。
「ああもうまったく……これで、私がミルワナと共に死ぬ権利さえ剥奪されましたよ」
どうしてくれるんですかと言われても、ミルワナは困った顔しか出来ない。
そんな夫が、気づいていないかもしれないことを、やはりここで彼女は言うことが出来なかった。
神殺しは、過去にも実はあった。
神が神を殺すという意味でのそれだ。
もし、それが起きた場合、殺した側の神が殺された神の仕事を兼任するのである。
この法則が、何も変わっていないとなると。
ミルワナは、死の間際に『彼女』と会うことが出来るかもしれない。
それは──何という幸福な死だろうか。
『終』