第47話 銃声の向こう側、目覚めを待つ力
第47話 銃声の向こう側、目覚めを待つ力
帝政歴三四三年、五月三日。
帝国陸軍中央志願兵教育学校。
第一選抜試験場に隣接する第二総合射撃訓練区画。
午前七時四十二分。
薄い雲が春の空を覆っていた。
昨夜まで降り続いていた雨は夜明け前に止み、射撃場の周囲に広がる草地には、まだ無数の水滴が残っている。
遠くでは整備車両のエンジン音が響き、訓練区画を隔てる防護壁の向こうから、金属製の標的を設置する音が聞こえていた。
レイブン・S・クロウは、候補者番号四一七番の識別票を胸に取りつけ、待機列に並んでいた。
黒い猫耳は緊張から少し立ち、金色と黒色の左右異なる瞳は、目の前に広がる射撃施設を見つめている。
第一試験から約三週間。
父ヴァルターと、使用人兼護衛のファニータから受けた訓練は、決して楽なものではなかった。
泥にまみれた匍匐訓練。
重い模擬銃を保持し続けた姿勢訓練。
通信機の基本的な取り扱い。
そして、ファニータから繰り返し教わった銃器の安全管理。
しかし、今日の試験は、それまでとは明確に異なっていた。
実際に弾を発射する。
その事実が、レイブンの胸を静かに締めつけていた。
「候補者諸君、前方に注目!」
射撃試験を統括する教官の声が響いた。
濃緑色の軍服を着た男性士官が、候補者たちの前に立つ。
胸には帝国陸軍中央教育学校の徽章があり、その隣には射撃教官の資格章が輝いていた。
「私は本日の第二選抜試験を担当する、マティアス・クルーガー大尉だ。これより射撃能力、指示理解、安全管理、および模擬戦闘環境下での判断能力を評価する」
大尉は候補者たちを見渡した。
「最初に言っておく。ここは戦場ではない。諸君はまだ兵士ではなく、教育課程への入学を希望する候補者だ」
レイブンは背筋を伸ばした。
「実射撃は安全設備を備えた射場で、教官の直接監督下でのみ実施する。最後の模擬戦闘区画では実弾を使用しない。指示を聞き逃した者、危険な行為をした者は、その場で試験を停止させる」
候補者たちの表情が引き締まる。
「命令を聞き、理解し、自分と周囲の安全を守ること。それができない者に、武器を扱う資格はない」
クルーガー大尉は腕時計を確認した。
「以上。各班、担当教官に従って移動せよ!」
号令とともに、候補者たちが動き始めた。
レイブンは一度だけ深く息を吸った。
そして、指定された射撃区画へ向かった。
午前八時十三分。
第二総合射撃訓練区画、第一射場。
射撃場の内部には、厚い防護壁と防音設備が設けられていた。
床には射撃位置を示す白線が引かれ、その先には距離ごとに設置された標的が並んでいる。
レイブンは担当教官から説明を受けた。
「四一七番。第一段階は五メートル。指定された八発を発射し、命中状況と安全管理を確認する」
「了解しました!」
レイブンの前に置かれたのは、教育用に管理された小口径の訓練銃だった。
実銃を扱うことへの緊張が、指先へ伝わる。
教官はその様子を見逃さなかった。
「緊張しているな」
「……はい」
「結構。緊張していることを自覚できているなら、まずは落ち着ける」
レイブンは頷いた。
教官は必要な安全確認を済ませ、射撃開始の許可を与えた。
「四一七番、射撃開始」
レイブンは標的へ意識を向けた。
五メートル。
数字だけなら短い距離だった。
だが、目の前にある標的へ向けて本当に弾を発射するという経験は、模擬銃を使った訓練とはまったく違っていた。
最初の銃声が響く。
乾いた破裂音が耳の保護具越しに伝わり、腕へ衝撃が返ってきた。
レイブンは一瞬、目を見開いた。
――これが、本物の銃。
父から贈られた鉄製の模擬銃は重かった。
だが、実際に発射した瞬間の衝撃は、重量だけでは理解できないものだった。
二発目。
三発目。
教官の監督の下、レイブンは指定された射撃を続けた。
途中、わずかに集中が乱れた。
それでも、無理に急ぐことはしなかった。
八発目の銃声が響く。
やがて、教官から終了の指示が出された。
「四一七番、射撃終了。指示に従って待機」
「了解しました!」
レイブンは指示どおりに行動し、標的の確認を待った。
少しして、教官が記録票へ数字を書き込んだ。
「八発中、七発命中」
レイブンは思わず息を吐いた。
「……七発」
「初回としては悪くない。ただし、命中したことだけで満足するな」
教官は記録票を見ながら続けた。
「射撃姿勢、指示への対応、安全確認。すべて評価対象だ」
「はい!」
レイブンは頷いた。
しかし、胸の奥には小さな悔しさが残っていた。
あと一発。
その一発が、思った以上に遠く感じられた。
午前八時五十一分。
第二射場、二十メートル区画。
次の標的は、二十メートル先にあった。
五メートルの時とは違い、標的は明らかに小さく見える。
レイブンは指定位置へ進んだ。
隣の射撃区画では、別の候補者が試験を受けている。
乾いた銃声が断続的に響いていた。
「四一七番、第二段階を開始する」
「はい!」
担当教官の指示を受け、レイブンは射撃に臨んだ。
最初の銃声が響いた。
標的の周囲に、わずかな土煙が上がる。
レイブンは結果を気にしすぎないよう努めた。
しかし、距離が伸びたことで、緊張も増していた。
数発を終えた頃、彼は自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。
――落ち着け。
父の声が、頭の中によみがえる。
『焦るな。失敗を取り戻そうとして、次の失敗をするな』
レイブンは自分の状態を確かめ、教官の指示に従って試験を続けた。
最後の発射を終えた時、肩から力が抜けた。
「射撃終了」
教官が記録を確認する。
「八発中、六発命中」
レイブンは小さく頷いた。
「……はい」
「距離が変われば難しさも変わる。次は五十メートルだ」
少年は前方を見た。
射撃場の奥に、新たな標的が設置されている。
五十メートル。
そして、その先には百メートルの標的が待っていた。
午前九時二十七分。
第三射場、五十メートル区画。
ここから使用されるのは、教育用に管理された小銃型の訓練銃だった。
射撃位置の周囲には監督教官が配置され、候補者は一人ずつ指示を受ける。
レイブンは初めて目にする長い銃身を見つめた。
父から譲られた鉄製の模擬銃に、どこか似ている。
しかし、似ているだけだった。
これは実際に弾を発射する。
そう考えると、手に伝わる重さまで違って感じられた。
「四一七番、準備はいいか」
「……はい!」
教官はレイブンの表情を確認した。
「無理に力を入れる必要はない。説明された安全事項を守り、指示をよく聞け」
「了解しました!」
射撃が始まった。
五十メートル先の標的は、二十メートルのものよりさらに遠い。
銃声が響くたび、レイブンは自分が扱っているものの力を思い知らされた。
八発の射撃を終え、結果が告げられる。
「八発中、五発命中」
レイブンは唇を噛んだ。
決して満足できる結果ではなかった。
しかし、教官は淡々と記録を続けている。
「次は百メートル。移動して待機しろ」
「……はい!」
午前十時六分。
第四射場、百メートル区画。
レイブンは遠くの標的を見つめていた。
百メートル。
肉眼では、標的の細かな部分までは見えない。
周囲には風が吹き、射撃場の外側に立つ木々が揺れていた。
少年は自分の手を見た。
少し汗ばんでいる。
――できるのか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
しかし、すぐに別の言葉を思い出した。
『できないことを知るのも訓練の一つだ』
父の言葉だった。
レイブンは静かに息を吐いた。
できることを、できる範囲で。
今の自分に必要なのは、それだけだ。
「四一七番、準備」
「はい!」
教官の指示が続く。
レイブンは、これまで学んだことを思い返しながら試験へ臨んだ。
銃声が響く。
遠くの標的へ向けて、弾が放たれる。
結果はすぐには分からなかった。
八発を撃ち終えた後、レイブンは静かに待機した。
教官が記録を確認する。
「八発中、四発命中」
レイブンは目を伏せた。
「……四発」
半分だった。
五メートルでは七発。
二十メートルでは六発。
五十メートルでは五発。
百メートルでは四発。
距離が伸びるにつれ、命中数は減っていた。
教官は少年を見た。
「四一七番」
「……はい」
「悔しいか?」
レイブンは少し迷った。
そして、正直に答えた。
「……悔しいです」
教官は頷いた。
「なら、その気持ちは覚えておけ。ただし、焦って自分を見失うな」
レイブンは顔を上げた。
「……はい!」
「射撃試験は、これで終了だ。次の区画へ移動しろ」
レイブンは一礼した。
その時だった。
胸の奥で、何かが微かに震えた。
――……?
少年は思わず足を止めた。
心臓の鼓動とは違う。
疲労による震えとも違う。
身体の奥深くに、今まで感じたことのない奇妙な感覚があった。
熱いわけではない。
痛いわけでもない。
ただ、何かが目覚めようとしているような。
そんな感覚だった。
「四一七番、どうした?」
教官の声で、レイブンは我に返った。
「……いえ、何でもありません」
「体調に異常はないか?」
レイブンは一瞬迷ったが、先ほどの感覚を伝えた。
「……少し、胸の奥に変な感じがしました。でも、痛みはありません」
教官は表情を引き締めた。
「分かった。無理はするな。医務担当に確認してもらおう」
レイブンは頷いた。
「……はい」
午前十時三十四分。
第二選抜試験場、医務確認室。
医務担当の軍医は、レイブンの状態を確認していた。
脈拍、呼吸、血圧、疲労の程度。
簡単な検査の結果、目立った異常は認められなかった。
「現時点で、急を要する異常は見当たらない」
軍医は記録票を閉じた。
「ただし、同じ感覚が続いたり、痛みやめまいが出たりしたら、すぐに申告すること」
「……はい」
レイブンは頷いた。
軍医は少し考えた。
「亜人種の中には、成長期に魔力感受性が変化する者もいる。だが、今の段階で何かが発現したと断定することはできない」
レイブンは目を見開いた。
「……魔力?」
「可能性の一つだ。必要なら後日、専門検査を受けてもらう」
レイブンは静かに頷いた。
魔力。
それは、帝国でも研究が進められている特殊な現象だった。
異界門の出現以降、軍や研究機関では魔力に関する調査が続けられている。
しかし、すべてが解明されているわけではない。
レイブンは胸元へ手を当てた。
先ほどの感覚は、すでに消えていた。
それでも、何かが残っているような気がした。
午前十一時十二分。
第二選抜試験場、模擬戦闘評価区画。
最後の試験が始まろうとしていた。
レイブンは、医務担当の確認を終え、試験官から参加継続の許可を受けていた。
目の前には、訓練用の市街地模型が広がっている。
低い建物。
崩れた壁を模した障害物。
道路を再現した通路。
そして、指定された回収地点。
区画の内部には、敵役を模した可動式の人形や、接近を知らせるセンサーが設置されていた。
実弾は使用されない。
候補者には、訓練用の識別装置が取りつけられている。
試験官が説明を始めた。
「最終評価は、指定物品の回収任務だ」
候補者たちは静かに聞いていた。
「諸君は、指定された回収地点まで移動し、目標物を持ち帰る。区画内には敵役プロップが配置されている」
レイブンは前方を見た。
建物の陰に、人影を模した訓練装置が見える。
「評価対象は、指示理解、周囲の状況認識、移動中の判断、安全確認、任務完了までの行動だ」
試験官は続けた。
「敵役を倒す必要はない。むしろ、不必要な接触は減点対象となる」
レイブンは静かに頷いた。
その言葉が、胸に残った。
敵を倒す必要はない。
目的は、指定物を持ち帰ること。
父が何度も教えてくれたことと、どこか似ていた。
『任務を終えて、生きて帰ることが大切だ』
レイブンは深く息を吸った。
「候補者四一七番!」
「はい!」
「前へ!」
少年は開始地点へ進んだ。
午前十一時二十七分。
模擬戦闘評価区画。
「開始!」
試験官の声が響いた。
レイブンは区画内へ進んだ。
周囲には、崩れた壁を模した障害物と、低い建物が並んでいる。
遠くでは、敵役プロップの駆動音が聞こえていた。
少年は周囲を見渡した。
正面の通路には、可動式の敵役人形が配置されている。
レイブンは立ち止まった。
――正面を通る必要はない。
そう考え、別の通路へ目を向けた。
建物の陰を利用しながら、指定された回収地点へ向かう。
足元には、小さな瓦礫を模した訓練用の障害物が散らばっていた。
慎重に進んでいると、突然、近くで警告音が鳴った。
『敵役反応、確認』
レイブンは一瞬、身体を強張らせた。
可動式の人形が、通路の向こうで動いていた。
その視線を模したセンサーが、周囲を確認するように回転している。
レイブンは無理に進まず、周囲の状況を確かめた。
焦れば、判断を誤る。
それだけは分かっていた。
やがて、敵役プロップの動きが変わった。
レイブンは指定された通路を進み、回収地点へ近づいた。
その時だった。
再び、胸の奥に奇妙な感覚が走った。
――……っ?
今度は、先ほどより明確だった。
何かが、身体の内側から外へ広がろうとしている。
レイブンは一瞬、立ち止まった。
耳が、周囲の音を拾っている。
遠くの駆動音。
自分の呼吸。
靴底が地面へ触れる音。
風が障害物の隙間を通り抜ける音。
それらが、普段より鮮明に感じられた。
――何だ、これ……。
レイブンは胸元へ手を当てた。
しかし、すぐに首を振った。
今は試験中だ。
考えるのは、後でいい。
少年は再び前方を見た。
回収地点は、もうすぐそこだった。
午前十一時三十八分。
模擬戦闘評価区画、指定回収地点。
レイブンは、目標物が置かれた台へ到着した。
そこには、金属製の小さな箱が置かれていた。
表面には、赤い識別記号が描かれている。
少年は箱を確認した。
試験要項に記された指定物と一致している。
「……これだ」
レイブンは箱を持ち上げた。
予想より少し重かった。
しかし、運べないほどではない。
彼は周囲を確認した。
帰路も、同じように注意が必要だった。
回収しただけでは任務完了ではない。
持ち帰らなければならない。
レイブンは箱を抱え、出口へ向かった。
途中、敵役プロップの警告音が再び響いた。
『敵役反応、確認』
少年は一瞬、足を止めた。
しかし、慌てなかった。
周囲の状況を確かめ、試験官から指定された安全な通路を選んで進む。
箱の重量が腕へ負担をかけていた。
呼吸も少し乱れている。
それでも、レイブンは焦らずに歩き続けた。
やがて、出口の標識が見えてきた。
あと少し。
少年は最後の通路を抜けた。
その瞬間、試験官の声が響いた。
「候補者四一七番、停止!」
レイブンは足を止めた。
「はい!」
「回収物を確認する!」
試験官が近づき、箱の識別記号を確認した。
そして、記録票へ何かを書き込んだ。
「指定物品、回収確認。最終評価終了!」
レイブンは深く息を吐いた。
「……ありがとうございました!」
試験官は頷いた。
「結果は後日通知する。医務確認を受けた後、待機区画へ戻れ」
「了解しました!」
レイブンは一礼した。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
その時、胸の奥に残っていた奇妙な感覚が、再び微かに震えた。
まるで、何かが自分を呼んでいるようだった。
午前十二時十二分。
帝国陸軍中央志願兵教育学校、関係者待機区画。
レイブンが戻ってくると、ルナが真っ先に駆け寄った。
「お兄ちゃん!」
少年は笑った。
「……ただいま」
「どうだった!?」
「……難しかった」
レイブンは正直に答えた。
「でも、最後までできたよ」
ルナは嬉しそうに笑った。
「やった!」
セレナも近づいた。
「お疲れさま、レイブン」
「ありがとう、母さん」
ヴァルターは息子を見つめた。
「……どうだった?」
レイブンは少し考えた。
「……射撃は、思ったより難しかった」
父は頷いた。
「そうか」
「距離が伸びるほど、命中数が減った」
「それは珍しいことではない」
ヴァルターは静かに答えた。
「重要なのは、結果を受け止めて、次に何を学ぶかだ」
レイブンは頷いた。
「……うん」
その時、ファニータが近づいてきた。
「レイブン様、お疲れさまでございました」
「ありがとうございます」
彼女は水筒を差し出した。
レイブンは受け取り、水を飲んだ。
しかし、ファニータは少年の表情を見て、少し眉を寄せた。
「……レイブン様」
「はい?」
「何か、気になることがおありですか?」
レイブンは一瞬迷った。
そして、胸元へ手を当てた。
「……実は、試験中に変な感じがしたんです」
ヴァルターの表情が変わった。
「……変な感じ?」
「うん」
レイブンは頷いた。
「身体の奥で、何かが動いてるような……」
セレナも心配そうに近づいた。
「痛みは?」
「ないよ。軍医さんにも診てもらった」
ヴァルターは静かに息を吐いた。
「……そうか」
ファニータは少年を見つめた。
「……どのような感覚でございましたか?」
レイブンは少し考えた。
「……うまく説明できない」
そして、静かに続けた。
「でも、何かが目覚めようとしてるみたいだった」
その言葉に、ヴァルターとセレナは一瞬だけ顔を見合わせた。
ファニータも、わずかに表情を変えた。
しかし、誰もすぐには答えなかった。
レイブンは不思議そうに三人を見た。
「……どうしたの?」
ヴァルターは少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……帰宅したら、もう少し詳しく聞かせてくれ」
「……うん」
父は頷いた。
「必要なら、専門の医師にも相談しよう」
レイブンは安心したように微笑んだ。
「……分かった」
午後三時四十六分。
クロウ家別邸、レイブンの自室。
第二試験を終えたレイブンは、机の前に座っていた。
窓の外には、春の夕空が広がっている。
少年は黒革の手帳を開いた。
そして、万年筆を握った。
『帝政歴三四三年、五月三日。
今日は第二試験だった。
射撃試験では、五メートル、二十メートル、五十メートル、百メートルと距離が伸びていった。
思ったより難しかった。
でも、最後までやりきった。
最後の模擬戦闘評価では、敵役を避けながら指定物を回収して戻った。
任務を終えて帰ることが大切だと、改めて思った。
それから、少し不思議なことがあった。
試験中、身体の奥で何かが動くような感覚がした。
痛みはなかった。
でも、今まで感じたことのないものだった。
父さんと母さんに話したら、心配してくれた。
何なのかは、まだ分からない。
ただ、何かが変わり始めている気がする。』
レイブンは万年筆を置いた。
そして、胸元へ手を当てた。
静かな鼓動が伝わってくる。
その奥に、まだ何かがあるような気がした。
少年は目を閉じた。
すると、一瞬だけ、周囲の音が遠くなった。
風の音。
時計の針が動く音。
廊下を歩く足音。
それらが、不思議なほど鮮明に感じられた。
レイブンは目を開いた。
「……何だろう、これ」
答えはなかった。
しかし、胸の奥にある何かは、確かに存在しているように感じられた。
帝政歴三四三年、五月三日。
レイブン・S・クロウ、十五歳。
第二選抜試験を終えた少年は、まだ合否を知らなかった。
しかし、その日、彼の身体の奥では、未知の力が静かに目覚めようとしていた。
それが何なのか。
どのような力なのか。
そして、彼の人生に何をもたらすのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




