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黒鴉年代記 ~戦火を超えて、受け継がれる意志~  作者: @12
第一部:幼年期編 第二章 帝国に迫る戦雲
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第21話 帰る場所を守る者たち

第21話 帰る場所を守る者たち


 帝政歴三三五年、六月十一日。

 午前五時二十一分。

 帝国北部、ヴァイスベルク山岳地帯。

 夜半から降り続いていた雨は、明け方になってようやく弱まり始めた。

 標高の高い尾根には雲がかかり、谷底から吹き上がる風が濡れた針葉樹を揺らしている。斜面を走る未舗装道路には細かな土砂が流れ込み、側溝では濁った水が勢いよく流れていた。

 帝国軍第三監視所の兵舎では、交代勤務を終えた兵士たちが濡れた装備を乾かしていた。

 カール・ヴェーゲナー軍曹は、暖房器具のそばで夜間監視記録を確認していた。

「共和国側道路、午前二時十四分に車両三両。北東方向へ移動。午前三時二十六分、徒歩巡察班を確認……」

 記録を読み上げていたオットー・ライナー上等兵が顔を上げた。

「軍曹、今朝は静かですね」

「今のところはな」

 ヴェーゲナーは手帳を閉じた。

「それより、昨日から道路の状態が悪い。交代班の車両が遅れるかもしれん」

「補給車もですか?」

「可能性はある」

 軍曹は窓の外を見た。

 霧の向こうには、国境線へ続く山道がある。

 数日前の発砲事件以来、部隊の警戒態勢は強化されていた。

 しかし、兵士たちが直面する問題は、敵の存在だけではなかった。

 雨。

 寒さ。

 泥濘。

 疲労。

 そして、補給の遅れ。

 戦争が始まっていなくても、山岳地帯での軍務には多くの危険が伴う。

「ライナー」

「はい」

「交代班が来るまで、温かいものを飲んでおけ」

「軍曹は?」

「俺は、もう少し記録を確認する」

 ライナーは苦笑した。

「軍曹こそ休んでくださいよ」

 ヴェーゲナーは顔を上げた。

「……生意気を言うようになったな」

「軍曹から、無理をするなと教わりましたので」

 その返答に、ヴェーゲナーは思わず笑った。

「分かった。五分だけ休む」

 二人は小さな机を挟んで腰を下ろした。

 窓の外では、雨粒が軒先から落ち続けていた。

 午前六時四十三分。

 連邦共和国北西軍管区、国境警備第三中隊。

 アレクセイ・ミハイロヴィチ・オルロフ大尉は、部下たちの勤務状況を確認していた。

 六月八日の発砲事件から三日が経過した。

 負傷したパーヴェル・ベロフ伍長は軍病院で治療を続けており、命に別状はない。

 しかし、事件に関する調査は依然として終わっていなかった。

 所属不明の武装集団。

 目撃された車両。

 現場に残された薬莢。

 いずれも、決定的な証拠には至っていない。

 オルロフは机の上の書類を閉じた。

 その時、イリヤ・ソコロフ中尉が入室した。

「大尉、補給担当から報告です」

「何だ?」

「昨夜の雨で、北西方面の道路が一部通行困難になっています。補給車列の到着が遅れる見込みです」

 オルロフは頷いた。

「食料と医療品の残量は?」

「当面の勤務には支障ありません。ただし、燃料については使用量を抑える必要があります」

「分かった。必要のない車両移動は控えさせろ」

「了解しました」

 ソコロフは書類を閉じた。

「……大尉」

「何だ?」

「国境の緊張が続いていますが、兵士たちの疲労も増えています」

 オルロフは静かに頷いた。

「分かっている」

 彼は窓の外へ視線を向けた。

 駐屯地の中庭では、雨具を着た兵士たちが車両を点検していた。

 濡れた地面を歩く軍靴の音が、時折、窓越しに聞こえてくる。

「交代勤務を調整しろ。休める者は休ませる」

「警戒態勢は?」

「維持する。ただし、疲労で判断力を失わせるわけにはいかん」

 ソコロフは頷いた。

「了解しました」

 オルロフは机の上の家族写真へ目を向けた。

 写真の中では、娘が笑っている。

 彼はふと思った。

 この駐屯地にいる兵士たちにも、それぞれ帰る場所がある。

 だからこそ、無用な危険に晒すわけにはいかなかった。

 午前七時二十八分。

 帝国中央部、クロウ家別邸。

 朝食の席では、ルナが小さな手でパンを持ち、嬉しそうに食べていた。

 レイブンは隣に座り、妹の様子を見守っている。

「ルナ、今日はお庭に行けるかな」

 ルナは顔を上げた。

「……おにわ!」

「でも、雨が降ってたから、地面が濡れてるかもしれないね」

 セレナが微笑んだ。

「そうですね。午後になって乾いていたら、少し歩きましょうか」

「うん!」

 レイブンは嬉しそうに頷いた。

 ヴァルターは新聞を畳み、食卓へ置いた。

 新聞には、北部国境の情勢と避難者支援に関する記事が掲載されていた。

 しかし、今朝の彼の関心は、別のところにもあった。

 軍から、医療評価の日程に関する連絡が届いていたのである。

 セレナは夫の表情に気づいた。

「……あなた、何かありましたか?」

「医療評価の日程が決まった」

「そうですか」

 セレナは少し身を乗り出した。

「いつですか?」

「来週だ。中央軍医療研究施設で、もう一度検査を受けることになった」

 レイブンが顔を上げた。

「……父さん、病院に行くの?」

「ああ」

「……腕のこと?」

 ヴァルターは頷いた。

「そうだ。今の身体の状態を調べてもらう」

 レイブンは少し不安そうな顔をした。

「……痛いことする?」

「検査によっては、少し負担があるかもしれない」

 ヴァルターは正直に答えた。

「だが、医師たちが安全を確認しながら進めてくれる」

 少年は頷いた。

「……僕も行きたい」

 ヴァルターは微笑んだ。

「ありがとう。でも、今回は父さんと母さんで行ってくるよ」

「……そっか」

「帰ってきたら、どんな検査だったか話そう」

 レイブンは少し安心したように笑った。

「……約束?」

「ああ。約束だ」

 ルナは会話の意味をすべて理解しているわけではなかったが、父の顔を見つめていた。

「……とうさん?」

「何だ、ルナ」

「……いたい?」

 ヴァルターは娘へ顔を向けた。

「大丈夫だよ」

 そして、左手を伸ばし、娘の小さな頭を撫でた。

「父さんは、ちゃんと帰ってくる」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 セレナはその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。

 午前九時十一分。

 帝国中央部、中央軍医療研究施設。

 医療研究部門では、ヴァルターの次回検査に向けた準備が進められていた。

 担当医師のフリードリヒ・ハルトマン軍医中佐は、過去の診療記録を確認していた。

 右上肢の欠損。

 残存神経の反応。

 幻肢痛。

 筋力と姿勢制御の変化。

 そして、魔力反応に関する検査結果。

 異界から帰還したヴァルターの身体には、通常の外傷患者とは異なる特徴が見られていた。

 しかし、それがどのような意味を持つのか、まだ十分には解明されていない。

 ハルトマンは記録を読み返した。

 前回の検査では、失われた右腕に対応する神経系の活動と、微弱な魔力反応の関連が示唆されていた。

 ただし、それだけで腕を再構築できると判断することはできなかった。

 研究室の扉が開いた。

「ハルトマン中佐、次回検査の準備について確認をお願いします」

 若い研究医が書類を持って入ってきた。

「分かった」

 ハルトマンは頷いた。

「まず、通常の神経学的評価を行う。その後、本人の同意を得た上で、魔力反応の測定へ進む」

「再構築試験は?」

「まだ行わない」

 ハルトマンは明確に答えた。

「現時点では、理論的な可能性を検討している段階だ。患者の安全を優先する」

 研究医は頷いた。

「承知しました」

 ハルトマンは窓の外を見た。

 軍医として、彼は多くの負傷兵を診てきた。

 腕や脚を失った者。

 長期の治療を必要とする者。

 そして、元の生活へ戻るために懸命に努力する者。

 ヴァルターも、その一人だった。

 しかし、彼には家族がいる。

 幼い子供たちがいる。

 研究のために、無用な危険へ晒すことはできなかった。

「……慎重に進めよう」

 ハルトマンは静かに呟いた。

 午前十時三十七分。

 クロウ家別邸、書斎。

 ヴァルターは、軍から届いた教育任務に関する資料を確認していた。

 若手将校の指揮教育。

 民間人保護。

 負傷者の救護。

 部隊の撤収判断。

 そして、兵站と補給の重要性。

 彼は資料を読みながら、過去の任務を思い出していた。

 異界での戦闘。

 失われた仲間。

 そして、帰還できなかった者たち。

 その記憶は、今でも鮮明だった。

 だが、彼が若い将校たちへ伝えたいことは、戦闘の技術だけではなかった。

 判断を誤れば、部下を失う。

 補給を軽視すれば、部隊は動けなくなる。

 負傷者の後送を考えなければ、救える命も救えない。

 そして、撤退を決断できなければ、部隊そのものが失われることもある。

 ヴァルターは左手で万年筆を取り、手帳へ書き込んだ。

『任務の達成と、部隊の生存は、常に両立できるとは限らない。指揮官は、その現実から目を逸らしてはならない。』

 彼は筆を止めた。

 その時、扉が叩かれた。

「……父さん?」

 レイブンだった。

「入っていい?」

「ああ」

 少年は小さなノートを抱えて入室した。

「……父さん、また勉強してるの?」

「そうだな。少し仕事の準備をしている」

 レイブンは机の上の資料を見た。

「……難しそう」

「難しいよ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「だが、難しいからこそ、考え続ける必要がある」

 少年は少し考えた。

「……僕も、考えるの好きだよ」

「そうか」

「うん。地図を見たり、本を読んだりするの」

 ヴァルターは頷いた。

「それは良いことだ」

 そして、机の引き出しから一枚の地図を取り出した。

「それなら、今日は少し違う勉強をしてみようか」

 レイブンは目を輝かせた。

「……何?」

「地図を使って、人や物を運ぶ方法を考えるんだ」

 少年は首を傾げた。

「……運ぶ?」

「ああ」

 ヴァルターは地図を広げた。

 そこには、帝国中央部の鉄道路線と主要道路が描かれていた。

「例えば、この街から別の街へ食料を届けるとする。どの道を使えばいいと思う?」

 レイブンは地図を見つめた。

「……こっち?」

 少年は太い道路を指差した。

「そうだな。道路を使えば、車で運べる」

 ヴァルターは頷いた。

「だが、大量の食料を一度に運びたい場合は?」

 レイブンは少し考えた。

「……列車?」

「正解だ」

 ヴァルターは微笑んだ。

「鉄道なら、大量の物資を遠くまで運べる」

 少年は嬉しそうに笑った。

「……じゃあ、船は?」

「川や海が使える場所なら、船も重要だ」

「……飛行機は?」

「速く運びたい時に役立つ。ただし、一度に運べる量や費用には制約がある」

 レイブンは頷いた。

 そして、地図を見つめながら呟いた。

「……いろんな運び方があるんだね」

「ああ」

 ヴァルターは頷いた。

「人々の生活は、そうした輸送によって支えられている」

 少年は少し考えた。

「……昨日の避難列車も?」

「そうだ」

 ヴァルターは答えた。

「人を安全な場所へ運ぶことも、輸送の大切な役割だ」

 レイブンは静かに頷いた。

 午後零時二十四分。

 帝国北部、ヴァイスベルク地方。

 第三監視所へ向かう補給車列は、山岳道路の一部で停車していた。

 前夜の雨によって斜面の土砂が崩れ、道路の片側が塞がれていたのである。

 先頭車両の運転手はエンジンを停止し、道路の状態を確認していた。

 補給担当のエーリヒ・ブラント曹長は、車両から降りると、崩れた土砂を見つめた。

「……これは、すぐには通れんな」

 隣にいた兵士が頷いた。

「工兵隊を呼びますか?」

「ああ。道路の安全確認が必要だ」

 ブラントは無線機を取り出した。

「こちら補給車列、ブラント曹長。第三監視所へ向かう道路で土砂崩れを確認。現在、通行不能。工兵隊による確認を要請する」

『了解。現場位置を送信せよ』

「了解」

 ブラントは位置を報告した。

 そして、車列の兵士たちへ指示を出した。

「無理に通ろうとするな。車両は安全な場所へ移動させる」

 兵士たちは頷いた。

 補給車両には、食料、飲料水、医療品、交換部品などが積まれていた。

 それらは、前線の兵士たちが任務を続けるために必要なものだった。

 しかし、急いで届けようとして事故を起こせば、かえって被害を増やすことになる。

 ブラントは道路の状態を見つめた。

 山の斜面からは、まだ少量の土砂が落ち続けている。

「……天候には勝てんな」

 彼は小さく呟いた。

 午後二時九分。

 帝国中央部、クロウ家別邸の庭園。

 雨は止み、雲の切れ間から日差しが差し込んでいた。

 レイブンはルナと一緒に、小さな池の周囲を歩いていた。

 水面には、薄い雲が映っている。

 ルナは池を泳ぐ水鳥を見つけ、嬉しそうに声を上げた。

「……おにいちゃん!」

「どうしたの?」

「……とり!」

 レイブンは笑った。

「本当だね」

 水鳥は二羽並んで泳いでいた。

 ルナはしばらく見つめていたが、やがて兄へ顔を向けた。

「……おにいちゃん」

「なあに?」

「……いっしょ」

 レイブンは少し驚いた。

「……一緒?」

 ルナは頷いた。

「……とり、いっしょ」

 少年は水鳥を見つめた。

 二羽はゆっくりと水面を進んでいる。

 レイブンは微笑んだ。

「……そうだね。一緒だね」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 少し離れた場所では、セレナが長椅子に座っていた。

 その隣には、ヴァルターがいる。

「……あなた」

 セレナが声を掛けた。

「何だ?」

「来週の検査、私も同行しますね」

 ヴァルターは頷いた。

「ああ。助かる」

 セレナは夫を見つめた。

「……不安ですか?」

 ヴァルターは少し考えた。

「……正直に言えば、少しな」

「そうですか」

「腕が戻る可能性があると聞けば、期待してしまう」

 ヴァルターは失われた右肩へ視線を落とした。

「だが、まだ何も分かっていない。期待しすぎるのも良くないと思っている」

 セレナは夫の左手へ、自分の手を重ねた。

「……期待してもいいと思います」

 ヴァルターは妻を見た。

「ただし、結果がどうであっても、あなたはあなたです」

 セレナは微笑んだ。

「右腕が戻らなくても、私たちの家族であることは変わりません」

 ヴァルターはしばらく黙っていた。

 そして、静かに微笑んだ。

「……ありがとう」

 庭園では、レイブンとルナが水鳥を眺めていた。

 ヴァルターはその姿を見つめながら、少しだけ肩の力を抜いた。

 午後四時三十三分。

 帝国北部方面軍司令部。

 補給車列の遅延について、工兵隊から報告が届いていた。

 土砂崩れによって塞がれた道路は、復旧作業が必要な状態だった。

 ただし、別の経路を利用すれば、必要な物資を届けることは可能と判断されていた。

 担当将校が報告した。

「第三監視区域への補給については、代替経路を使用します。到着時刻は遅れますが、必要物資の輸送は継続可能です」

 司令官は頷いた。

「分かった。工兵隊には安全を優先させろ」

「了解しました」

「それから、前線部隊へ補給の遅れを伝えておけ。必要なものが不足する前に、対応できるようにする」

「承知しました」

 司令官は地図を見つめた。

 国境では、帝国軍と共和国軍が互いを警戒している。

 しかし、部隊を支えるのは兵士の武器だけではない。

 道路。

 鉄道。

 燃料。

 食料。

 医療品。

 そして、それらを運ぶ人々。

 どれか一つが欠ければ、軍の活動は制約を受ける。

 司令官は静かに息を吐いた。

「……戦う前から、考えるべきことは山ほどあるな」

 午後六時四十七分。

 連邦共和国北西軍管区。

 オルロフ大尉は、補給担当からの報告を確認していた。

 共和国側でも、前夜の雨によって一部の道路が通行困難になっていた。

 しかし、代替経路を利用することで、当面の補給は維持できる見込みだった。

 オルロフは書類を閉じた。

 その時、ソコロフ中尉が入室した。

「大尉、軍病院から連絡です」

「ベロフのことか?」

「はい。容体は安定しています。医師からは、今後の回復に向けて経過観察を続けるとのことです」

 オルロフは安堵したように息を吐いた。

「……そうか」

 ソコロフは続けた。

「本人は、早く部隊へ戻りたいと言っているそうです」

 オルロフは苦笑した。

「……あいつらしいな」

 そして、少し真剣な表情になった。

「だが、焦らせるな。十分に回復してから戻ればいい」

「了解しました」

 ソコロフは頷いた。

 オルロフは窓の外を見つめた。

 駐屯地の中庭では、兵士たちが車両を整備していた。

 雨に濡れた地面には、軍靴の跡が残っている。

 彼らは今日も、任務を続けている。

 しかし、オルロフは知っていた。

 兵士たちが本当に望んでいるのは、任務を続けることそのものではない。

 任務を終え、無事に帰ることだった。

 午後八時十一分。

 クロウ家別邸、居間。

 夕食を終えたレイブンは、父の隣で地図を広げていた。

 ルナは母の膝の上で眠そうにしている。

 暖炉には小さな火が灯され、部屋には柔らかな光が広がっていた。

「……父さん」

 レイブンが尋ねた。

「何だ?」

「……今日、列車と車と船のことを教えてもらったでしょ?」

「ああ」

「……もし道が壊れたら、どうするの?」

 ヴァルターは少し考えた。

「別の道を探すことになるな」

「……別の道も壊れてたら?」

「その時は、道路を直す人たちが必要になる」

「……工兵さん?」

 ヴァルターは微笑んだ。

「よく覚えていたな」

 レイブンは嬉しそうに笑った。

「……うん!」

 ヴァルターは地図を指差した。

「工兵は、道路や橋を整備したり、壊れた施設を修復したりすることもある」

 レイブンは頷いた。

「……戦わないお仕事も、大事なんだね」

「ああ」

 ヴァルターは静かに答えた。

「とても大事だ」

 少年は地図を見つめた。

 道路があり、鉄道があり、川がある。

 その上を、人や物が移動している。

 それぞれの場所で、多くの人々が働いている。

 レイブンは、そのことを少しずつ理解し始めていた。

 午後九時三十九分。

 帝国北部、ヴァイスベルク地方第三監視所。

 補給車列は、代替経路を利用して無事に到着していた。

 兵士たちは食料と医療品を受け取り、必要な物資を倉庫へ運び込んでいた。

 ヴェーゲナー軍曹は、補給担当のブラント曹長へ声を掛けた。

「助かった。道路が塞がれたと聞いて、少し心配していた」

 ブラントは笑った。

「こっちも、山道を走るのは骨が折れたよ」

「工兵隊は?」

「明日から復旧作業を始めるそうだ」

「そうか」

 ヴェーゲナーは頷いた。

「ありがとう。気をつけて戻ってくれ」

「ああ。そっちもな」

 二人は短く握手した。

 ブラントは車両へ戻り、補給車列の出発準備を始めた。

 ヴェーゲナーはその背中を見送った。

 前線の兵士たちは、補給部隊によって支えられている。

 そして、補給部隊もまた、多くの人々の仕事によって支えられている。

 彼は改めて、そのことを実感していた。

 午後十時二十三分。

 クロウ家別邸。

 レイブンは自室で日記帳を開いていた。

 机の上には、小さな灯りが置かれている。

 少年は万年筆を握り、ゆっくりと文字を書き始めた。

『今日は、父さんに地図を使って物を運ぶ方法を教えてもらった。

 車も、列車も、船も、飛行機も、みんな大事らしい。

 道路が壊れた時には、直してくれる人もいる。

 父さんは、戦う人だけが軍人じゃないって言っていた。

 僕は、いろんな仕事を知りたいと思った。

 それから、父さんが来週病院へ行くことになった。

 腕のことを調べるらしい。

 僕は、父さんの腕が戻ったら嬉しい。

 でも、戻らなくても、父さんは父さんだと思う。

 今日はルナと池の鳥を見た。

 ルナは、鳥が一緒に泳いでいるのを見て喜んでいた。

 僕も、ルナとずっと一緒にいたい。』

 レイブンは万年筆を置いた。

 そして、日記帳を閉じた。

 窓の外には、雲の切れ間から月が見えていた。

 淡い光が、庭園の木々を照らしている。

 少年は小さく息を吐いた。

「……父さん、早く良くなるといいな」

 そう呟き、ベッドへ向かった。

 帝政歴三三五年、六月十一日。

 帝国と連邦共和国の国境では、引き続き警戒が続いていた。

 発砲事件の調査は進められていたが、武装集団の所属は依然として不明だった。

 両国政府は外交交渉を継続し、軍当局も偶発的な衝突を避けるための対応を取っていた。

 その一方で、兵士たちは雨や泥濘、補給の遅れといった日常的な問題にも向き合っていた。

 戦争が始まっていなくても、軍の活動には多くの人々の仕事が必要だった。

 そして、クロウ家では、ヴァルターの次回医療評価に向けた準備が進められていた。

 失われた右腕が戻る可能性は、まだ分からない。

 しかし、彼には家族がいた。

 妻がいた。

 息子がいた。

 娘がいた。

 その存在が、彼を支えていた。

 夜の別邸には、静かな時間が流れていた。

 レイブンは眠りにつき、ルナは母の隣で小さな寝息を立てている。

 ヴァルターは書斎の灯りを消し、廊下へ出た。

 彼は、家族のいる部屋へ向かった。

 遠くの国境では、監視所の灯りが消えることなく輝いていた。

 帝国と連邦共和国の緊張は、まだ解けていない。

 それでも、この夜、兵士たちは任務を続け、補給部隊は物資を届け、医師たちは負傷者の治療を続けていた。

 それぞれが、自分にできることを行っていた。

 帰る場所を守るために、誰かが働いている。

 そして、その誰かにもまた、帰る場所がある。

 七歳のレイブンは、まだそのすべてを理解していなかった。

 けれど、父と母、そして妹と過ごす日々の中で、少しずつ学び始めていた。

 夜風が、帝国と共和国の双方の大地を静かに吹き抜けていった。

 戦争は、まだ始まっていない。

 しかし、平和を守るための努力は、今日も続いていた。

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