16. 知らない一面
旅は順調だった。
警戒していた野盗には会わず、通った村は確かに貧しそうではあったが、野宿に慣れている二人は無理に村へ入る必要もない。
この国の村や町をつなぐ街道は、基本的に申し訳程度にしか舗装されておらず、周囲は森に囲まれていることが多いので、贅沢を言わなければ食べ物だって手に入る。
二人の旅は、穏やかに続いた。
「この町を超えたら、次はアリヤナクアだよ。そこで私の友人を訪ねる」
「アリヤナクアは大きい街なんだよね」
「うん。かなり栄えている街で、アノンよりも何倍も大きいよ」
「それは楽しみ!でも、野良猫が歩いてたら捕まったりしない?」
「いたずらをしなければ大丈夫」
「気を付けるわ」
話しながら歩いていると、アリヤナクア前に最後に通るという町が見えてきた。
一見すると、普通の町だ。建物もそれなりにあるし、荒れ果てた様子はない。
「ここは大丈夫かな。久しぶりに、宿を取ろうか」
「賛成!たまにはお布団の上で寝たいよね」
「…うん、そうだよね」
「?」
微妙な間があったが、エストはすぐに宿屋の手配をしてくれた。恵麻は猫なので、エストの部屋だけをとればいい。つくづく、猫って便利だ。
でも、猫の体だと、店に入られるのを嫌がられることもある。
宿屋は大抵平気だが、特に食べ物を扱う店なんかでは、エストが抱っこしていてもぎょっとされることがある。まぁ、当然だろう。それでもこの国は日本に比べて寛容で、大抵の場所に入り込める。
ただ、やはり買い出しに猫の恵麻はお邪魔だろう。
二人は宿屋で落ち合うことにして、しばし別行動をとることにした。
町は結構栄えていて、市場を通るだけでも楽しい。この国は色彩豊かで、建物の屋根も、扉も、市場のテントも、人々の服装も、そもそも髪色も、赤や緑、青、オレンジなどに包まれている。顔立ちは強いて言うなら、西洋人に近いだろうか。彫りが深く、肌の色は比較的白い。
日本から来た恵麻にとっては、本当に別世界に来たな!と感じて、見ているだけで面白い光景だ。
しばらくブラブラと歩いていると、唐突に眠気に襲われた。
猫の体で不便なのは、これだ。とにかく睡眠時間が長く、旅の間も耐えられないときはエストに抱っこされて寝ていた。
まだ宿に戻るには早いし、そこら辺で一眠りしよう。
恵麻は路地裏にあった木の上に登ると、枝先ですやすやとお昼寝を始めた。
どれくらい経っただろうか。
突然、どーん!という音と共に恵麻の乗っている木が揺れた。
寝ていた恵麻は咄嗟のことで対応できず、ずるりと枝から落ちてしまう。
「にゃう?!」
(わーーーっ!?)
衝撃を覚悟して目を瞑り、どんっと落ちた。しかし想像していたよりも痛みもなく、地面は何だか柔らかい。
恵麻が恐る恐る目を開けると、恵麻の下にあったのは地面ではなかった。
人だ。
恵麻は人の腹の上に着地していた。
「…猫?!」
「うにゃっ?!」
男のものと思われる声が聞こえたかと思うと、恵麻はガバリと抱え上げられた。
パニックを起こした恵麻は何とか逃れようと、ジタバタする。
「わ、ご、ごめんよ!違うんだ、君に怪我がないか確認しようと思っただけで…!」
慌てたような声に、恵麻は少し落ち着いて声の主を確認した。
声の主は若い男で、エストや恵麻と同年代だと思われた。人の良さそうな垂れ目の青年で、栗色の髪に青い瞳、肌にはそばかす。
彼は上体を起こした状態で、恵麻を抱き上げていた。
「ごめんね、荷車が重すぎて、木に突っ込んじゃったんだ。まさか君が木の上にいるとは知らずに」
「にゃん…」
横を見ると確かに、大量の薪と思われる木が倒れた荷車と共に散乱していた。なるほど、それであの衝撃か。
「怪我はないかな…大丈夫?」
彼が下敷きになってくれたお陰で、恵麻にはかすり傷さえない。
「にゃあ」と一鳴きして首を振ると、青年は驚愕の表情を浮かべた。
(…しまった!エストじゃないのに、反応しちゃった。とにかく、逃げよう)
青年には申し訳ないが、恵麻はぐにゃりと体を曲げて彼の手から逃れた。猫のこの体の柔らかさ、何度やっても信じられない。
青年の膝に着地すると、彼は「痛っ」と声を上げた。
見ると、薄手のズボンに血が滲んでいる。どうやら膝のあたりから出血しているようだ。
怪我をしたところを恵麻に踏みつけられたせいか、青年は涙目で丸くなった。
(…何だか申し訳ないな。でも、私のせいじゃないし…私のせいじゃないよね?)
思わず逃げようとした足を止め、青年の周りをウロウロと彷徨ってしまう。
そんな恵麻の姿を見て、青年は嬉しそうに笑った。
「…心配してくれるの?君は賢いんだね!ありがとう。俺は大丈夫。いてて」
大丈夫と言いながらも、膝の出血はまだ止まっていないようで、恵麻は罪悪感から男の膝あたりをじっと見つめた。
「にゃう…」
「なんて可愛いんだろう。君、野良猫なの?それにしてはキレイだけど。俺、一人暮らしなんだ。家は狭いけどご飯なら毎日あげられるよ。うちの子になるかい?」
青年は呑気に恵麻を抱き寄せるようにして、頭や背を撫でている。
恵麻はというと、不思議な感覚がして、彼の言葉などそっちのけで出血を見つめていた。
何だか、ムズムズする。
体の中が温かくなってきた気がする。
体の内側から、何かが溢れてくるような…
「ラナ!!!」
恵麻が青年の膝に触れようとしたとき、背後から叫び声に近い声が聞こえて、恵麻は現実に引き戻された。
「うにゃ!」
(エスト!)
振り返るとエストが血相を変えて駆け寄ってきていた。
恵麻を抱き寄せていた青年の腕から、彼にしては乱暴に恵麻を取り上げると、しっかりと抱きしめる。
(エスト、どうしたの?)
「ラナ…」
エストは恵麻の首筋に顔を埋め、黙ってしまった。
どうしたのだろう。
もしかして、昼寝をしすぎたのだろうか。
(エスト、ごめん。もしかして探してた?)
「…」
エストは黙り込んでいたが、しばらくしてゆるゆると顔をあげると、そばかすの青年に向かって声をかけた。
「…すみません、この子は私の子なんです。なにかご迷惑をおかけしましたか?」
「え?あ、いや、全然!むしろ俺が、木の上でこの子が昼寝しているのに気付かず、木にぶつかっちゃって。飼い主さんがいたのか。驚かせてゴメンな」
「うにゃ」
青年が別れを惜しむかのように恵麻の頭を再度撫でようとしたが、エストはさり気なく彼から距離を取り、青年の手は宙に浮いた。
「では、私たちはこれで」
「にゃあ…?」
エストにしてはぶっきらぼうな別れ方だ。
よく分からないが、なんだかちょっと、エスト、不機嫌?
エストはそのまま宿屋に向かうと部屋に入り、ベッドに腰掛けた。まだ恵麻を胸に抱いたままだ。
「あの、エスト?」
さすがに心配になって声をかける。
もしかして怒っているのだろうか?でも、怒られる理由がわからない。まだ日も高く、宿に戻らねばならない時間ではないはずだし、別にあの青年とトラブルを起こしたわけでもない。
ハラハラしていると、エストが突然、恵麻の手(前足)に触れた。
「…血がついてる」
「あ、これはあの人の血だよ。私、彼の怪我を踏んづけちゃったみたいで」
「…」
エストが何も言わず手を振ると、水と風が現れて、恵麻の手をシャバシャバと撫でていく。まるで宙に浮いた水の塊に手を覆われているようだ。
ものの数秒で、恵麻の手についた血はキレイに洗われた。
「あ、ありがとう」
エストは依然、黙っている。
怖い。一体何なのだ。
「あの…」
「…ラナは」
エストが口を開いたので、恵麻は慌てて口を噤んだ。
「ラナは、私の相棒でしょう?」
「え」
恵麻は思わずエストの顔を覗き込んだ。
その表情は、何だか…拗ねている?
「…簡単に他の人の膝に乗ったら、駄目だよ。抱っこされるのも、駄目」
「え、え?」
「あの人、ラナに家においでって言ってたし…」
状況が飲み込めない。
「えっと、つまり、エスト、私が他所の家の猫になると思ったの?」
「そういうわけじゃないけど、単純に…触られるのが嫌だった」
「へっ?」
それは、つまり、何というか…
「…ヤキモチ?」
「…」
恵麻は衝撃を受けた。
だって、恵麻は今、猫なのだ。
猫の恵麻が他の人に撫でられたくらいで、どこにヤキモチを妬く要素があるのだろう。
「…ヤキモチでも何でもいいよ。だから、私の側からいなくならないって、約束して」
「え、え?それは、物理的に?」
「何でもだよ」
どうしたのだろう。エストらしくない。
でも、恵麻はまだ彼を「らしくない」と言えるほど深く知らないのかもしれない。
確かに恵麻はエストと濃密な時間を過ごしてきたが、日数にして考えればまだそこまで長い付き合いではない。
彼に恵麻の知らない一面があったとしても当然だ。
そうだ、エストはきっと、思った以上にさみしがり屋なのかもしれない。
「えっと、物理的にずっと側にいるのは無理かもしれないけど、私の相棒はエストだけだよ」
「うん…」
「それに、この世界でエスト以外は誰も、本当の私のこと知らないし。私が信頼しているのはエストだけだよ。…そもそも本物の猫じゃないから、他の誰かの飼い猫にもならないよ」
「うん…」
エストは恵麻の言葉を聞いてからしばらくあと、ようやく抱き締めていた恵麻を膝の上に下ろした。
「…いっそ、代替わりが終わらなければ、ラナはずっと私の側にいるのかな…」
「エストさん?ちょっと?どうしたの?なんか出てる、不穏なオーラみたいなの出てる!」
エストが背中に黒いものを背負っている気がして恵麻が慌てて声をかけると、彼はようやくいつもの調子でクスリと笑った。
「ごめん、冗談だよ。ラナが私以外の人と関わっているの初めて見たから、ちょっと動揺したみたいだ」
「そ、そう…?」
恵麻がエストを見上げていると、エストが突然、恵麻の鼻先をつまんだ。
「ぶえっ」
「それにラナ、治癒術使おうとしていたでしょ」
「ち、治癒術?」
「やっぱり無自覚なんだね…」
「どういうこと?」
恵麻は治癒術なんてものは知らないし、エストから聞くのも初耳だ。
でも言われてみれば、あの青年の怪我を前にしたとき、恵麻は身体から込み上げるようなものを感じていた。
もしかして、あれのことだろうか。
「…そういえば、怪我を見つめていたら、なんかこう…込み上げるものがあった気がする」
「うん、それだよ。あのとき私が声をかけなかったら、発動していただろうね。流石に猫の姿のラナが治癒術を使ったら大変なことになるから…あの彼には悪いけど、止めさせてもらったよ」
「そうだね…ありがとう。全然気付いてなかった」
「ラナ、私が崖から落ちて怪我をしていたとき、治癒術をかけてくれたんだよ。覚えてる?」
「もちろん覚えているけど、あれも私がやったの…?」
「そうだよ。ラナはシェドバーン様の器だ。恐らく、シェドバーン様のお力が少しずつラナの体に移されているんだと思う。その影響で、ラナもだんだん、精霊術が使えるようになっているんだと思うよ」
「ええ!?じゃあ、私、シェドみたいなすごい精霊術が使えるかもしれないってこと?」
「…シェドバーン様と同じように、は難しいと思う。精霊術っていうのはそもそも、精霊の身体で行うべきものだから、人間が精霊と同じように術を使うのは恐らく無理なんじゃないかな。ラナは異なる世界から来ているから、その辺りも違う可能性はあるけど」
「そうなんだ。うーん、でも、治癒術とかは使える機会が多そうだよね」
怪我を治せるのなら、これから使うシーンもあるかもしれない。
せっかくなら、ぜひ習得しておきたい術だ。
「そうだね。治癒術は、使い手が少ないんだ。素質に任せる部分が多くて、私は治癒術の類は使えない」
「えっそうなの?!じゃあ尚更、練習してみるよ。今回みたいにうっかり使ってしまっても困るし」
「そうだね…コントロールは覚えた方がいいだろうね」
「エスト、精霊術のこと、教えてくれる?」
「もちろんだよ。治癒術は使えないけど、それ以外の精霊術に関してはそれなりに扱えるから」
「ありがとう!エスト先生!」
先生と呼ばれて、エストはどことなく恥ずかしそうだ。
良かった、いつものエストだ。
先程のエストは予想外すぎて、流石に驚いてしまった。
きっとエストの言う通り、動揺していたのだろう。
ただでさえ、出会ってからずっと、二人で過ごしてきたのだ。
久しぶりの他人の介入に、動揺しただけだ。
きっと、そうだ。でなければ、困る。
(…なんで、困るんだろ?)
恵麻は自分でも良く分からない感情を抱えて、小さくため息をついた。




