作家性を前面に押し出すということ
今回(第五回)のネット小説大賞の『総評』には、少し引っ掛かりを覚えた。
何というか、ネット小説大賞選評者の、願望のようなものが混ざっているなと。
>作品を読んでいて作者の方のこだわりを感じられる作品をぜひ世の中に送り出せればとコンテストとしては考えております。
僕はこの文脈から、ネット小説大賞選評者たちの、「そういう作品が評価されてほしい(売れる世の中であってほしい)」という「願望」を見て取った。
これは新木伸先生の言っている、「作家性は猛毒。千分の一に薄めるぐらいでちょうどいい」という意見と、真っ向対立している。
僕はネット小説大賞選評者たちの願望には共感するが、分析としては新木先生の言い分のほうが的確だと思う。
作家性を前面に押し出して成功できるのは、一握りの「時代の寵児」だけだと思う。
『バクマン。』で言うところの、新妻エイジ。
彼は「天才」であることと、「時代の寵児」であることとを兼ね備えた存在だ。
ただただ自分が良いと思うものを出せば、その時代の読者が受け入れてくれる。それが時代の寵児。
作家性、こだわりというのは、いわば性的嗜好のようなものだと思っている。
というか、最近そう割り切った。
エロで考えると分かりやすいと思うのだけど、脚フェチとか鎖骨フェチとか、果てはリョナ、スカトロみたいなものが「作者のこだわり」で、そういう各々の良さは確かにフェティズムを持った本人にしか書けないのだが、そうしてこだわりを持って作ったものが一般に受け入れられるかどうかとなると、これは話が別。
おっぱいとか、そういう比較的誰にでも受け入れられる良さに寄せるのが、新木先生の言うところの「薄める」ということだ。
フェティズム、こだわりみたいなものは、千分の一ぐらいに薄めて出すと、いい感じの個性になるという具合。
そしてその「おっぱい」にあたるのが、王道や、流行のストーリー展開だったりということだ。
ただ、じゃあ鎖骨フェチや脚フェチやリョナ好きやスカトロ好きがドストライクで楽しめるような作品は、この世から滅びるべきなのかというと、これもまた話が違う。
おっぱいに寄せるかどうかというのは、商業というステージに耐えうるかどうかという話にすぎない。
こだわり抜いた作品にとって相応しいステージは、それこそ「小説家になろう」だ。
商業を介さないからこそ、マイノリティによるマイノリティのための作品が作れるし、それを同士と共有できる。
それはなろうの底辺でひっそりと佇むことになるのだろうけど、だからこそ、僕はなろうの底辺は宝石箱だと思っている。
僕が書いた中で、僕にとっての最高傑作は『少女騎士と姫様のちょっとえっちな冒険』で、これは僕が好きなものがギュッと詰まった作品だ。
でもこれを余人に読んでもらうと、作者の「好き」っていうのが、いかに客観的でないものなのかが分かってもらえるだろう。
だからこの作品は、なろうの底辺にひっそり置いてあるぐらいでちょうどいい。
僕はそう、思うようにした。




