現実世界の閉塞感と、物語世界の主役感
現実世界に閉塞感を覚えて、物語世界に開放感を抱くのはなぜか。
これは突き詰めると、現実世界の「自分という存在の無力感」に原因があると思う。
現実の世の中には、優秀な人が多すぎる。
優秀な組織が、優秀なシステムが多すぎる。
自分が活躍する余地がない。
二メートルぐらいの高さのコンクリートの天井がずっと続いた息の詰まるような地平を、延々と歩いているような感覚。
現代って、普通の若者が、無力すぎるんだ。
本当はいろんなことができるはずの若者たちが、特定の形の小さな箱に自分の体を押し込まないと生きていけない。
(……と、思い込む。自分でビジネスを始めるという視野を持つと、突然天井をぶち壊せたりはするが、それはさておき)
災害が起こった時とかに、若者の力ってすごい、人の力ってすごいんだって初めて思える。
人手も仕組みもマニュアルも正しいやり方を教えてくれる大人も、何もかもが足りない状態になって、ようやく個人の知恵と力が活きるみたいな部分がある。
自分で考えて行動して、失敗したり成功したりして、結果が起こる。
そういうナチュラルな状態に巡り合える機会が、現代社会には少なすぎる。
そして実際、巡り合いたいわけではないのだから、物語の出番だ。
子どもたちだけで形成した社会を描く類の作品としては、僕の世代だと『無限のリヴァイアス』になる。
あれは面白かった。
ああいう、子どもたちだけで物事を考えて、原始的な組織とシステムを作って、みたいなことって、現実ではほとんど経験しない。
主人公(読者の感情移入の対象)が、自分の頭で、自分にできることをゼロベースから考えて行動して、それが成果になる。
そういう前提環境が、例えば異世界転移/転生モノのファンタジー作品にはある。
主人公という一個人が、自分で考えて行動して、世界に対して一定の影響を与えられること。
そのぐらいに、物語の世界は、人材やシステムなど、いろんなものが不足していたほうがいい。
完成された完璧な世界では、主人公が活躍する隙がなくなる。
それでは、現代と同じ閉塞感を抱くだけだ。
そういう意味では、「肉の両面焼き」などをはじめとした、なろうで揶揄される文明レベルの低すぎる異世界は、実は方向性としては間違っていない気がする。
ちょっと露骨すぎるというだけで。
逆に、社会が強固な場合、主人公の個人の能力を、その強固な社会にすら影響を与えられるほど大きくするという手もある。
なんか外枠から考えていくと、なろうテンプレの要素って、やっぱり面白さの仕組みになっていると気付くことが多い。