プロローグ
澄み渡る空が紅色に染まる頃。私は窓から差す紅の光に目を細めながら、悠久の時に身を委ねるように、静かに紅茶を啜っていた。
近くに見える山々はすっかり彩りを秋に変えていて、紅、橙、朱、時おり混ざる緑など、各々が最後の季節に向けて自らを着飾っている。
そのうちの一つに目を遣って、あの色の紅茶は何と言う種類になるのだろう、と考えられるぐらいには余裕がある時間。
私はもう一度、確認をするように揺れない紅茶の水面を見つめてから、対面に座る人物へと視線を移した。
紅色の日差しを反射した彼女の金髪は煌いている。それを包む柔らかそうな帽子も、身に纏う紫色の衣服も、傍らに置いてある日傘も彼女を引き立てるパーツの一つに見えて、見るものがはっと息を呑むような美しさに包まれていた。優雅に紅茶を啜る姿は深窓の令嬢はかくやといった感じだ。
彼女、マエリベリー・ハーンとの関係を一言で表すのなら、掛け替えのない相棒といったところだろうか。私が大学に入学した以来の付き合いで、過ごした時は短くとも、築くことのできた絆はそれ以上だと自負している。自惚れでなければ、彼女もきっと同じことを思ってくれているはずだ。
いつもはここで色々な話をして、お互いの意見を交し合い盛り上がって、最後には二人で笑い合うのだが、その日課はもう済ませてしまっていた。
季節の力なのか、夕焼けがもの寂しい気分にさせるのかは分からないけど、私と彼女は言葉を交わすこともなく、静かに紅茶を啜っているだけだ。
紅茶の余韻を楽しんでいるのか、はたまた眠っているのかは分からないが、そんな彼女を見てふと思うところがあった。
いや、もしかすると、それは私が今までずっと聞きたかったことだったのかもしれない。
私はピクリとも動かないまま目を瞑っている彼女に、声をかけた。
「ねえ、メリー」
「……うん?」
少しボーっとしていたのか返事は遅れたが、眠ってはいないようだった。
私は少しばかりの間、聞こうか聞くまいかを視線を漂わせて自問しながら、メリーが不思議そうに首をかしげたところで覚悟を決めた。
「例えばの、話だよ」
「ええ」
「帰り道、いつもの見慣れた道を歩いていると、突然見慣れぬものを発見しました。道端に、光を発している謎の物体を見つけてしまったのです」
「……うん」
突拍子もない話にメリーは怪訝そうな顔をしたが、何か口を挟むようなことはなかった。きっと、話は最後まで聞いてから、ということだろう。
私はメリーの配慮に感謝しながら、言葉を続けた。
「その物体は小さくもありませんが、大きくもありません。水晶のようにも見えますが、強い光のせいなのか中心に何があるのかはわかりませんでした。奇妙な物体ですが、物珍しさと綺麗な光にあやしい魅力を感じて、持って帰りたくなります。ですが、触れてしまえば何か良くないことが起こりそうな、嫌な予感がします。例え起こらなかったとしても、持ち主に不幸な出来事を齎すような、根拠のない不安があります。そんな状況に立たされたら、メリーはどうする?」
話し終えると、メリーは少し考える風にして、またカップに視線を落とした。水面に移っているのは自分の顔ぐらいだろうに、メリーにはそこに答えが見えるのだろうか。
私が黙ってメリーのほうを見つめていると、やがてメリーは確認するように一人頷いてから、こちらへ視線を戻した。
「蓮子を呼んで来て、拾わせるわ。安全だもの」
クスリと微笑んだ彼女に、私は確かに呆けていた。
いや、メリーが冗談でそんなことを言ったのはわかるのだが、いきなり予想斜め上な回答ではどうしたって驚きを隠せない。
ただ、今回はけっこう真面目な話にしようと思っていたので、私は眉根をひそめてメリーに抗議の意を示した。
「メリー、冗談言わないで。真面目な話なんだから」
メリーは不機嫌そうな様子を悟ったのか、すぐに目じりを下げて、申し訳なさそうに苦笑いをした。
「あはは、ごめんなさいね。でも、蓮子を呼んで来るまでは変わらないわ」
私はメリーの言葉の意味がわからなくて、首をかしげた。
私がいたところで、拾わせる以外に一体何をしろと言うのだろうか。
「このたとえ話の重要なところは、小さくもないけど大きくもなく大きさが分からないところ。そして、光という魅力のせいで肝心の中身が見えないところよね」
メリーの分かりやすい纏め方に、私は相槌を打つ。
「個人の主観ではそうなのかもしれないけど、他の人から見た場合も同じとは限らないわ」
「あー……」
私は見つめている問題に新しい面が見えてきた気がして、間延びした声をあげていた。
つまり私を呼ぶ理由は、自分が視野狭窄に陥るのを防ぐためというわけか。
「それでもなお迷うのなら、二人で同時に拾えばいい。抱えたものは二人で分かち合い、支え合っていくものではなくて?」
私はメリーらしいその発想に、今度は納得したように数回頷き返した。
「なるほどねえ。でも、二人で拾うとなると、どっちが先に触れるかは曖昧なところだね」
「そういう問題ではないと思うわ……」
かなり真面目に考察を加えたはずなのだが、メリーは小さな額に手を当てて、落胆気味のようだった。私にはその理由がちょっと分からなかったけど、学科が違う故の考え方の違いだろうと踏んで、見切りをつけた。
「でも、蓮子」
「うん?」
「その答えは、あなたが人の意見を参考にするまでもなく、わかっていることじゃない」
「……うーん?」
果たして、そうなのだろうか。私はメリーが何か重要なことを言っている気がして、少し俯いて考え込んだ。
私なら、聞くまでもなく分かっている答え。私なら、一人でもたどり着ける答え。
メリーから見て私は、どんな風に見えているのだろうか。見掛けこそ姿見を使えばすぐに分かる話だが、そうではない。自身の内側にある、内面的な部分のことだ。
私は客観的に自分の姿を思い浮かべて頭の中を分解してみたりしたが、得られるのはいつもの見慣れた自分だけで、結局答えは見つからずじまいだった。
うんうん唸って思考の海に沈没していく私を見かねたのか、メリーが気遣うように声をかけた。
「今まで、あなたは何を信念にして行動してきたの?ちょっとでも不思議なものを見つけたら、後先考えずに踏み込んでいったじゃない」
「それは、そうだけど……」
メリーが言いたいことはよくわかったし、心配そうな顔になる理由も十分わかった。それは他ならぬ私自身が一番感じていたことで、問題を見つめていく中でその考えは既に見つけていた。
だけど、私は明らかに迷っていた。今まで、躊躇するようなことは何度かあっても、長い間うじうじと悩んでいることなんてなかったのに。
それもこれも、今回ばかりは事情が違うせいなのかもしれない。
私がたとえ話でしたように、それが物であるなら何ら問題はないのだろうが、私が拾おうとしているのは不思議な物体や水晶などではなく、間違いなく人間と分かるものなのだ。
物と人間を同じ型に当てはめて考えるようなことは、お堅い思考と言われる私にはできなかった。
「私は、蓮子のその信念を突き通すべきだと思うわ。それに、そんな風にずっと悩んでいたら、その間に誰かに拾われてしまうかも?」
「…………」
それは嫌だ、と思った。せっかく見つけた魅力あるものを取られてしまうのは、どうしようもない問題に悩まされているよりもずっと辛いことだ。卑しい独占欲だということは自覚しているが、嫌なものは嫌だ。その単純だが大きな気持ちは、はっきりと分かるものだ。
「なら、答えはもう出ているはずよ」
心中を察されていた、と思ったときに、私は下唇を噛んでいることに気が付いた。
どうやら、無意識に感情が表に出てしまったらしい。
感情がよほど大きいものだったのか、それとも感情を隠すのが下手だった私のせいなのかは分からないが、今はそれを考えている場合ではなかった。
でも、私が抱えた問題に対する答えは、半ば出ていたようなものだったのかもしれない。
「私は、別に構わない。蓮子が楽しそうにしているのなら、それでいいわ」
そう言って、メリーはこれが最後だと言わんばかりに素敵な笑みを浮かべてくれた。
それが、私の迷いを断ち切る決定的な一太刀になったのだろう。ようやく、私は自分の落し物がなんであったのかを思い出した。その場所も、落し物がまだ誰にも持って行かれずに落ちていることも、確認できた。
その落し物は、私がいままで貫き続けてきた信念だ。命に刻まれたといっても過言ではないこの気持ちはやはり忘れることはなく、自らの意思さえあれば簡単に取り戻しに行くこともできる。
きっと、私は知らず知らずのうちにメリーに回答を委ねていたのだ。一歩前進するためのあともう一押しを、私はメリーにしてもらいたかった。
もしかするとメリーは、このたとえ話をする以前から私が抱えているものに薄々勘付いていたのかもしれない。わけあってメリーに相談することができなかったのが悔やまれるが、相棒の名は伊達じゃなかった。
「うん……わかった。ありがとう、メリー」
私が微笑むと、メリーも笑い返してくれた。
もう、迷う必要などどこにもない。私は私の信念を世界の果てまで貫き、己が好奇心を達成する為に東奔西走するだけだ。
私は居てもたっても居られなくなり、椅子を思い切り立ち上がった。傍らに置いてあった肩掛け鞄を引っつかんで、帽子を頭にかぶりなおす。
幸い荷物は少ないから、走ることに苦労はしなさそうだった。
メリーは突然の行動に目をぱちくりさせていたが、私は構わずに部屋の出口へと駆けていく。
そうして扉を開ける前に、私は振り返ってメリーに言った。
「今日は遅くなるから、先に帰ってて!」
そう告げるや否や、蹴破る勢いでドアをぶち開けて、走り出す。
清潔感のある純白の廊下は、夕焼けでほのかに紅く染まっていた。
人も居らず静謐とした一直線の廊下を、私はただ駆け抜けて行った。
ふと左側の窓のほうを見れば、珍しいことに鳶が一羽、山間のほうを目指して飛んでいく様子が見える。
私はそれで妙案得たりと思って、力強く羽ばたくタイミングに合わせて、左足を思いきり踏み込んだ。数瞬ふわりと体が浮いたような独特の無重力感が走ったあと、すぐにダン、と鈍い振動が足に響く。人は羽が無いから飛べないかもしれないが、今の私にはそれで十分だった。体は飛んでいかなくとも、心は飛べるほどに軽快なのだから。
遠くに消え往く鳶を見つめずとも、私の気分はさながら鳥のようだった。